7.講義-暴発(1)
食堂の小窓から見える空は紅色に傾き始めていた。日はそろそろ暮れるころだ。
私はいつも通り夕食の支度をしていた。小麦の生地を練り、野菜を刻み、肉に塩を振る。
そうしていると肩越しに声がかかる。
「手が込んでいるな」
「サルヴィエさん」
たまたまサルヴィエが水を飲みに来たのは炉に火を入れようとした時だった。
「夕食まであとどれくらいだろう」
「もう一時間くらいかかっちゃうと思います。それで大丈夫ですか?」
「いい。……それを貸してくれ」
サルヴィエは自然な動作で私の手から火打ち金を取り上げると、竈に手をかざした。
青白い靄が立ち上り、渦巻いて収縮したかと思うと、音を立てて薪に火が点く。
サルヴィエは竈の前から大儀そうに立ち上がった。
「ありがとうございます、いつもいつも」
「いいや」
家事は私に任せていつも研究に集中しているサルヴィエだが、時間ができるとこうして手を貸してくれることがある。それも魔術という形で。
今みたいに食事を作る時炉に火を入れたり湯船にお湯を満たしてくれたりと、細かな面倒を買って出てくれるので非常にありがたい。
「でも、こんなに魔術に頼っちゃって大丈夫なんですか?」
「大丈夫とは?」
「疲れたりとか、あと……副作用とか」
家をきれいにするには家主の協力が必要だと言ったのは私だ。でもそれはあくまで片付けの話。食事やお風呂の支度のような家事は使用人である私の領分であると心得ている。
それでありながら、サルヴィエの魔術にはかなり頻繁に頼ってしまっている。まさかこういう方向性の手助けが来るとは思っていなかったし、便利に使うのはまた話が違って申し訳ない。火打ち金で火をおこしたり井戸から水をくみ上げたりするよりもずっと楽だが、これに慣れては後でしっぺ返しが来るんじゃないかと不安になる。
それに、私は魔術の原理を何も知らない。
サルヴィエは簡単に魔術を操ってみせるが、私にはできないことだから、実際どれくらい難しいことなのかよく分からないのだ。
いつも申し出てくれるのはあちらからだし、気にかけてもらえるのは嬉しいが、もし負担をかけているのであれば忍びない。
サルヴィエは静かに首を振る。
「問題ない。むしろ魔術は使えるときに使っておいた方がいい」
「どういうことですか?」
重ね重ね私は魔術素人だ。サルヴィエの言うことの意味がよく呑み込めない。
サルヴィエは少し考えて「夕食の席で話そう」と言った。
しばらくして食卓の用意が整った。
今日の献立は煮込んだ根菜と羊肉を詰めたパイだ。先日町に出て以来、たびたび買い物に行くようになった。保存食以外の食材が調達できるようになったので、ちゃんとした料理が作れるようになったのだ。これはその中でもよく作る料理だ。一品だけでもさまになって見えるからいい。サルヴィエは品数に文句をつける主人ではないし。
サルヴィエは向かいの椅子に座って、食事には手を付けないまま私を見る。
「多少専門的な話になるが構わないか」
「努力します」
サルヴィエは応じて話し始めた。
「人は魔力の器のようなものだ」
大小はさまざまあれど、人は誰もが魔力を蓄積する器を持っている。形ある器官として存在するわけではなく、目には見えないが、そこには魔力を保持する何かがある。故に人そのものを器と呼ぶこともある。
「その器には宙を浮遊する魔力が絶えず流れ込んでいる。万物が上から下に落ちるのと同じように、そういう法則があるんだ」
自らの器の大きさに応じた魔力が魔術を使う源だ。
サルヴィエは私を、そして自分の胸元を手で示す。
「今こうして話している間にも、魔力は人の器に少しずつ流れ込んで蓄積されてゆく」
「魔術を使えない私にも?」
「そうだ」
説明の途中でありながらつい声を上げてしまう。
少し背筋が冷えた。
私は生まれてこのかた魔術を使ったことがない。魔術について特別な教育を受けたことも。
それなのに知らないうちに体の中に魔力が満ち続けている。それは深刻なことのように思えた。
連想するのは水を浴びるようにたくさん飲んだ時の苦しさだ。革袋にどんどん水を詰めていって、許容量の限界を超えた時縫い目が割けるように、なにか取り返しのつかないことが起きはしまいか。
サルヴィエは首を横に振った。
「だけど心配はいらない。確かに術を行使しなければ魔力の器に空きはできない。だが、いっぱいになった器にそれ以上魔力が入りこむというものでもない」
なみなみと水を張った皿にそれ以上水を注いでも皿の外に零れ出すだけで済むのとそっくり同じことだという。
魔力が流れ込むのを止めることはできない。だが注がれた分と同じだけの魔力が人の器から零れ出していくので、個人の中では釣り合いが取れる。
そして満たされた器からこぼれた魔は虚空へと還り、再び世を取り巻いて廻る。人の分界を超えて魔力が蓄積され、破裂してしまうようなことはないのだと、サルヴィエは語った。
「今までも体や身の回りに異常が出るようなことはなかっただろう」
「だったら大丈夫なんですね。よかった……」
「ああ」
胸を撫で下ろす私に、魔術師は続ける。
「――だが、魔術師には別だ」
その声の静けさに、ぞくりと背筋が粟立った。
「これまで話したように、器を満たす魔力、それ自体が害となることはない。だが魔術を使う者は、時に魔力を暴発させることがある」
魔術の素養ある者は、自らの意思とは関わらず魔術を行使してしまうことがある。幼い子供にそれが顕著だとサルヴィエは述べる。
生まれつき魔術の才と膨大な器を持ちながらそれに気づかれず、魔術に目した修養を行っていない年頃の子供は、時として重大な事故を巻き起こす危険性を孕んでいる。
「魔術師になる人間には、そんな子供の成れの果てが何人もいる」
成れの果て。
突き放した響きは足元をおぼつかなくさせるような冷たさを持っていた。
それほど多くはないのだとサルヴィエは語る。
「たいていの子供は習って初めて魔術を使えるようになるものだし、最初はおぼつかない子供でもやり方を覚えれば危ないことはない」
魔術師の卵はまず正しき思索を、与えられた魔力を統御する術を覚える。そうして成長するごとに魔力を暴発させる恐れは減ってゆく。
「それでも、全く事故が起きない保障はない。修練を始めたばかりの不安定な子供はまだ危ないし、完全に技を我が物にしたと思った人間ほど危ないものもない。魔術は解明されていないことが多いから」
そこまで話してやっとサルヴィエは一呼吸置いた。
張りつめていた空気が突然解け、私は今初めて息ができるようになった気分になった。