5.散らかりの理由(2)
空気の塊は森のざわめきを残してゆっくりと通り抜けていった。
風が抜けた後、お湯を捨ててもなお残っていた湿り気はどこかへ消え去っていた。滞っていた空気がからりと乾いて森が爽やかに薫る。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
サルヴィエは何ともないような顔で応えた。
風乾燥も切り上げて私たちは家の中に戻った。サルヴィエは再び自室へと引き上げてゆき、私は台所で軽食の用意をする。
焙った塩漬け肉を挟んだパンを持って部屋を訪れると、サルヴィエは本に埋もれた部屋の奥でこちらに背を見せて机に向かっていた。
私が積まれた本を崩さないようにじりじりと近づくと、サルヴィエは首だけでこちらを振り返る。
「ああ、ありがとう」
そして皿を受け取って再び机に向き直る。手を止めないままパンを掴み、右手でペンを動かしながらかじりついている。
いいか悪いかちょっと迷いつつ、私は背後からその手元を盗み見た。
広い天板の両脇には本が積み上げられており、その間には本や紙がいっぱいに広げられている。紙には急いだ筆跡でいくつもの走り書きがされていた。
サルヴィエは食事を口に運びながらも視線を絶えず開いた書籍の上に注いでいる。
食事という憩いの時間でありながらその背中があまりに張りつめていて、声をかけるのははばかられた。
邪魔になるようならいったん部屋を出ようか。
食器は後で回収に来ることにして、私は出入口へと後退する。
その時にふと壁際のベッドに目がいった。
この家は石の土台を除いて床から屋根まで全て木造の、素朴な印象の建物である。
この部屋の内装ももちろん若い木材の板張りだが、それと比べるとこのベッドはどこか不似合いだった。
枠は飴色の木でできており、くっきりと艶がある厚い板材が重厚感を演出している。
そして目を引かれるのは装飾の豪華さだ。枕元の化粧板には鳥が羽を広げたような紋様を描いて、輝く石がちりばめられていた。貴族の寝室に据えられていてもおかしくないような代物だ。
これは年季の入っていない小さな家にあるから不釣り合いなんじゃなくて、まわりが雑多な本に埋もれているから引きずられてみすぼらしく見えるのだろう。実にもったいない。
「ご馳走様」
サルヴィエはいつの間にか軽食を食べ終わっていたらしい。
声に反応してとっさに振り向くと、サルヴィエは椅子の背に腕を掛けてこちらを向いていた。
「待たせていたならすまなかった」
「あ、いえ! 片付けますね」
私は慌てて空いた皿を受け取った。
「いい家具だと思ってつい気を取られちゃって」
じろじろ見てすみませんと謝ると、サルヴィエは「ああ……」と応じた。
「この家を買った時に職人に頼んで造った物だ」
「へえ……! じゃあ、枕元の飾りもご自分で?」
サルヴィエはうなずく。手持ちの宝石を図案を指定して埋め込ませたのだという。わざわざ装飾の注文までするとはよほどこだわりがあるのだろう。
「造ったと言えばその机も」
サルヴィエは振り返って書き物机を指さした。確かに机も同じ風合いの板材が使われていた。
「食堂の物は前の住民が置いていった物を使っているけど、毎日使う時間の長い物は新しく造ったんだ。屋根裏にあるのが前の物だけど、君に使ってもらえてよかった」
そういえば屋根裏部屋を案内してもらった時にそんなことを言っていた気がする。あのベッドは私にちょうどいいくらいだから、きっと背丈の大きいサルヴィエには小さかったのだろう。机の方も、屋根裏の隅にちょこんと置いてある小さい机がそれのことなら、今置いてあるものと比べて満足いかないのはもっともだ。
それにしてもこのベッドはたいそうなこだわりようだ。私物と言う私物を散らかしてきた人の寝具とはとても思えない。
愛用の家具という気安い話題を許されたことで気が緩んでいた。
なんとなく打ち解けた気がしてつい訊いてしまった。
「家が散らかりだしたのになにかきっかけはあったんですか?」
サルヴィエは物言わず、青緑色の瞳をじろりと動かして私を見た。それを見て、よくなかったかなと少し後悔した。
散らかっている状況をよしとせず片付けを依頼してきた人なら、その根本原因を恥と思うかもしれない。それか目を背けたいことかも。
語りたくないことかもしれないと今気づいた。立ち入りすぎた質問だっただろうか。
「……すみません、言いたくなかったら答えなくて大丈夫です」
私は声をかけたが、サルヴィエは生返事だった。こちらを見ずにうつむいて、黙考しているようだった。
「最初はまだ意欲が……散らかることへの焦りがあったように思う」
サルヴィエが口にしたのは私の質問への答えだった。
その事情は彼にとって禁忌ではなかったようだ。安堵しつつ彼の言葉に耳を傾ける。
「だけどある時ふっとどうでもよくなって。むしろこの方が楽じゃないかと思うようになった」
「ああ……」
よくある流れだ。
生活が荒れていると気力は失せる。すると一念発起して片付けることとごちゃごちゃした部屋に適応することを天秤にかけ、後者を選んでしまうこともあるのだ。
だけど不思議だ。
「それならどうして片付けを頼もうと思ったんですか?」
一緒に住んでみるて分かったことだが、サルヴィエはお茶を淹れたり手近な物で食事を済ませたり、けっこう何でも自分のできる範囲でやってしまう人だ。一人暮らしが長いためだろう。それなら、掃除だって自分でしてもおかしくない。
散らかっている方が楽だと思うようになったのならなおさらだ。わざわざ人を雇ってまで片付けようとするのが不思議だった。
サルヴィエはいたたまれなさそうに小さく首をすくめた。
「よろしくない傾向ではあるだろう? 人の目だってあるし、どうにかしなくてはならないのはわかっていたから」
ここまで散らかしておきながらも頭では分かっていたのだ。失礼ながら本人の口から聞けるとは思っていなくて驚いた。
……ということは。
本当に家主の意思とは関係なく散らかっていったのだ、この家は。
身の回りが乱雑に荒れていくのを理解していながらただ手をこまねいていることしかできない。想像でしかないがきっと辛いだろう。
「……自分一人ではどうしてもできなかった。だから人を頼むのが最善だった」
次に口を開いたときには、サルヴィエはもういつも通りだった。
「ラーヴァさんは? もう昼食は済んだのか」
「えっいえ、これからです」
「それはいけない。食べてくるといい」
「はい……」
整理のつかない感情を心のどこかに引きずったまま、私は書斎を後にした。
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再びサルヴィエの姿を見るのは夕食の時間になってからだった。サルヴィエはまたしても一冊の本を携えてきた。四六時中一緒にいるわけではないけれど、見るときは大体本を片手にしている。この人、本を読んでいない時がないんじゃないだろうか。
ふと思った。
「……サルヴィエさん、思ったんですけど」
「なんだ」
「食事の時に本を読むの、試しにやめてみませんか」
サルヴィエはきょとんとした。
これまでずっと、どうしたらサルヴィエが食堂から本を持って帰ってくれるかについて頭を悩ませていた。そのつど注意して片付けてもらうことを考えていたけど、それだと言う方も言われる方もつらい。
だけどそもそもの問題は、本を持って行き来すること自体が悪いのではなく、切り替えがないために起きているのではないだろうか。
サルヴィエには食事の時間と作業時間との区別がない。それは時間を惜しんでのことというよりもむしろ習慣であるように見える。
「あんまり意識せずに持って来てたりしませんか?」
「……確かに」
その感覚の曖昧さが書斎と廊下、食堂との境界線を曖昧にしている。
だから書斎は本を置く場所、という機能が部屋の外にまで影響して、食堂に本が置きっぱなしという事態が起こるのだ。
だから逆に、食堂は食事を採る場所、くつろぐ場所、と刷り込めば、本の散らかりも少しは改善されるのではないか。そう考えてみたのだ。
「あと……ご飯の時はなるべく食堂に出て来てもらえると」
「それも習慣のために?」
「はい」
家主の習慣に差し出がましいことは言うまいと思っていた。だけど片付けに関わっているとしたら話は別だ。
「実験と思って、ちょっと試してみませんか」
サルヴィエの顔色を見ながら伺いを立ててみる。
必要なことだと思う。だけど家主がなんというかは分からない。私はすでに色々なことを彼に要求しているから、もしこれで突っぱねられても受け入れるつもりでいた。
サルヴィエは切れ長の目を微かに伏せて、青緑色の瞳で自身の手元を見ていた。いや、何かを透かし見ているようだった。
その表情はいつものように難しそうに見えるけれど、必ずしもそうでないことをもう私は知っている。だからこそその内心が分からなかった。頬に落ちかかる黒髪が帳のように顔を覆い隠そうとするからなおさら。
やがてサルヴィエはうなずいた。
「君がそう言うのなら信じよう」
ほっとして、思わず頬が緩んだ。
分かってもらえた。少なくとも、サルヴィエは掃除婦として私のことを信頼してくれている。そのことに力が湧いてくる感じがした。




