1.魔術師の小屋に行ってみよう
〈住み込み使用人求む:家の掃除を中心に家事をしてくれる方を募集します。
魔術師サルヴィエ、安息の森〉
住まいと仕事を求めてやって来た町でそんな広告を見かけたのは、つい一昨日のことだった。
小さな町の掲示板に、住み込みを条件に掲げる求人広告はそれ一つきり。
条件以上に末尾に添えられた魔術師という肩書きに目が引かれ、私はその広告を食い入るように見つめた。
魔術師。
何もないところから火を熾したり風を吹かせたりできる神がかった力を使い、人々の暮らしを豊かにする生業の人を指す。
町に暮らし、あるいは時折訪れる、市井と共にありながらどこかとらえどころのない不思議な人々。
そんな魔術師の元で働けるというのはとても好奇心のそそられる選択肢だった。十九年の短い人生でそんな人と関わることはなかったし、ましてや雇われたことなどない。
条件として書き添えられた給金はそれほど高くなかったが、住み込みで衣食住が保証されているとなれば十分な待遇だ。何より掃除にはちょっと自信がある。それに、色々あって前に働いていたお屋敷をすっかり引き払ってきてしまった私にはぴったりの案内だった。
即座に飛びついた私は、町役場に駆け込んで連絡を取り付けてもらい、広告片手にその森を訪れた。
地図を頼りに町から歩くこと一時間。
和やかな雰囲気漂う田園地帯を通り抜けた末にお目当ての森はあった。
安息の森という呼び名は獰猛な生き物や狩猟者が現れないためについた名なのだという。だから独り歩きしても安全だと役場で聞かされていた。
農道は小道へと姿を変えて森の中に続いている。梢は高く、陽が差し込んでおり、入っていくのに抵抗はなかった。
ちらちらと木漏れ日が瞬く小道を歩いていくと、そう深くまで進まないうちに道は行き止まりになり、開けた空間が現れる。
森の中という言葉からくる暗く閉ざされた印象に反して、あたりの空気はとてもすがすがしかった。見上げると樹冠にぽっかりと穴が開いていて、朗々とした青空がのぞいている。家の外周は地ならしされており、日の当たる地面のところどころには草が生えていて、空気はひんやりとしていた。
そんな空間の中央に立つ、目的の家と思わしき建物にたどり着いて、私は目を丸くした。
「……魔術師の家?」
それは何の変哲もない木造の家だった。柱から屋根まで木材一色で統一された、少しも飾り気のない、木こり小屋に毛の生えたような小さな家。
地図とここまでの道とを照らし合わせて目の前の家と見比べる。だが間違ってはいないらしい。ここが目的の魔術師サルヴィエの家のようだ。
拍子抜けして、それからひっかかった。
魔術師が森の中に構える一軒家と聞いていたので、学問的な雰囲気漂う重厚な邸宅とか、あるいは娯楽本に出てくる呪い師の家のように植物や鉱石に覆われた謎の廃屋とか、一風変わった住まいを想像していた。住み込みで働くなら前者がよかった。
しかし目の前の小屋はいかにも一人住まい向きのごく普通の民家。
町から距離があるから人を雇おうと思えば仕方のないことなのかもしれない。
だとしても、この小さな家で、住み込み待遇にしてまで掃除人を雇う必要があるのだろうか。
「はかられた……?」
思わずぽろりとひとり言がもれた。
本当は広告ごと人さらいの罠か何かだったんじゃないだろうなと不穏な考えがちらつく。
しかしちゃんと管理された掲示板で見つけた広告だし、役場を通して確認もした。不届きなものとも思えなかった。
私はさんざん悩んだ末、玄関扉をノックした。ここまで来てしまった以上腹をくくろう。いざとなったら道中にあった民家まで走ろう。
待っていると奥の方で内扉の開く音が、次いで物がぶつかるような異音がする。
不思議に思う間もなく、玄関が開いた。
「ごめんください、私町の広告を見て……」
私は出てきた人を見上げて、そのまま呆然と固まりかけた。
そこにいたのは扉よりも大きいくらいの長躯の男性だった。
外見からして歳は二十代半ばだろうか、もう三十にさしかかっているかもしれないしあるいは推測よりずっと若いかもしれない。切れ長の目の凛々しげな面差しをしているがどこかくたびれたような、とらえどころのない表情だ。身じろぎ一つせずじっと私を見下ろしている。絵画や彫像と目が合っているような感覚だった。
男性は羊飼いみたいに素朴な上下分かれた衣服にゆったりとした丈の長い上着を羽織っている。こざっぱりとした田園風、言ってしまえば飾り気がなく田舎らしい風体。本人だけ見ると威圧的な印象を受けそうなところを、装いと牧歌的な背景が緩和していた。
「……魔術師のサルヴィエさん……?」
それは確認のための問いかけと言うより自然に口から出た疑問だった。
彼は無言の肯定を返して私を一瞥した。青緑色の目を細めて、検分するような顔つきをする。
「……君が紹介のあった? 住み込みの掃除人を頼んだはずなんだが」
「はい、町役場の紹介を受けて参りました、ラーヴァと申します!」
内心うろたえてはいるがそうも言っていられない。私ははじめましてと半ば勢いで言い切った。
サルヴィエは何か考え込んでいる。
私もにっこり笑顔を作りながら必死で頭を回転させていた。
魔術師という肩書から勝手に思い浮かべていたのは、大自然と一体化したような翁。
しかし目の前の男性はどう多めに見積もっても三十手前。
それに加えて住居も思っていたのと違う。住み込み仕事と言うからにはそれなりに広い邸宅の一員として雇われるものと思っていた。しかしここに建っているのはどう考えても一人世帯。
若い男女が二人きりで一つ屋根の下という文言が現実的な深刻さを伴って頭の中に鳴り響く。
仮に他の使用人がいたとしても、外見上この狭さで複数人との同居だとしたら労働環境的に問題である。
さっきからいろんな情報が渋滞している。
それでも。それでもだ。ここで逃げ帰るあてはない。
町役場から連絡がいって話はついているはずである。少なくとも門前払いされることはないはずだ。
私はサルヴィエの反応を待った。
口元に手を当て考え込んでいた家主の方も、やがて納得したようである。張りつめた空気を解いて口を開いた。
「婦人を迎えるのに失礼のない家といえば嘘になるが、そこは承知してくれ」
思いがけず私を気づかう言動に一瞬呆けてしまった。
どうやら彼も私と同じようなことで悩んでいたらしい。それで少し疑心暗鬼になっていた気持ちが緩んだ。
ひとまず第一関門は突破だ。
サルヴィエは服のすそを翻して玄関の奥へと進む。
彼に続いて玄関に入ろうとして――私はうっと叫び声を飲み込んだ。
家主が一歩奥へ入ったことで、彼の身体に隠れていた先が見通せるようになっていた。
玄関から見えるのは奥へと続く細い廊下。玄関を入ってすぐのところだけ小部屋のように空間が開いている。余計な飾り物はなく、そう長くない廊下の左手にはそっけない木の扉があるのが分かる。
そして板張りの床のあちこちには、本や雑貨が散乱していた。
まず玄関扉の両サイドに本が積み重なっている。さらに奥には、廊下の片側を隙間なく埋めるように、本の束、脱ぎ散らかした衣服、ひしゃげた菓子箱などが節操なく固められていた。
視界の半分を置きっぱなしの雑品が埋めている。
要するに、がらくたの山である。
唖然とする私をよそに、家主は当たり前のように障害物の間を縫ってすいすいと先を行く。
「避けて通ってくれ」
サルヴィエが振り返ってそう言うので続くしかなくなった。おそるおそる踏み込む。
器用に歩くサルヴィエを追って、廊下の壁際に積まれた本の山を崩さないように廊下の端をにじり歩き、どうにかこうにか廊下の奥にたどり着く。
通された廊下の奥の部屋は食堂のようだった。奥に流し台と炉があって台所だと分かる。
通されておいてこんなことを言うのもなんだが、ひいきめに見ても来客を通すのにふさわしい部屋には見えなかった。廊下同様テーブルや足元には厚みのある本が無造作に置き忘れられ、隅には空き瓶が列を為している。本も空き瓶もそれぞれひとところにまとめられているからなんとなく法則性らしきものは見えるものの、いかんせん物が多い。
サルヴィエはさりげない動作でテーブル上を陣取る書籍の数々を取り上げると、そっと床の本の山に重ねた。
そして便宜上綺麗になったテーブルを示し、私に座るよう促す。一部始終を止めることもできず見ていた私は大人しく勧めに従った。
その際、流し台に多種多様な鍋が重ねて放置されているのが目に入ったが、全力で何も見ていないことにする。
さて、とサルヴィエは口を開く。
「見ての通り、この家の環境はあまりよろしくない」
サルヴィエは大真面目に言った。
その通りですねとも言えず、私は神妙に頷くしかなかった。
サルヴィエの説明によるとこうだ。
彼はいつも、一日中この家に閉じこもって魔術研究にいそしんでいるのだという。
気ままな一人暮らし。不健康であることはともかく、魔術師なのだから本業にのめり込むこと自体はおかしくない。
問題は一度没頭しだすと身の回りのことに無頓着になってしまうことだった。
もうずいぶん長いことこの状態だそうだ。この食堂や廊下だけでなく、彼の私室兼書斎にも本やら日用品やらが山を成しており、どう動かしてみようもなくその状態を土台として暮らす生活が続いているらしい。
「ただ暮らすだけならできないこともないが、招いた人間から人を雇ってでも片付けるべきだとしきりにせっつかれたのでああいう広告を出した。だから、この家を人並みになるまで整頓してほしい」
サルヴィエは難しい顔のまま語り終えた。
私はできる限り笑顔で聞きながらも、心の中では冷や汗をかいていた。
ここまで散らかっているとは思っていなかった。
雇い主の性分を咎めようというわけではない。機会を逃しに逃して己の住処を荒らしてしまうのは誰にだって起こりうることだ。ただ、思っていたのとの落差があまりにも大きかった。
玄関前に到着した時から思っていた。ひょっとしたら私はとんでもないやっかいごとを掴まされたんじゃなかろうかと。
撤回する。これは正真正銘、押しも押されぬやっかいごとである。
「君は掃除の心得は?」
「前は南の町の商家で下働きをしていました。掃除を中心に、煮炊きなども一通りのことはこなせます」
動揺を押し殺して受け答える。
これまでの仕事は料理や洗濯などの家事一般で、日課の中には掃除も含まれていた。前いた「ごく普通の」お屋敷での掃除とこの家の掃除を同列に語るのは間違いな気もするが。
それで了解してもらえたのだろう。サルヴィエはうなずいた。
「あとは食事のことだが、僕はいつも昼前と夜に食べることにしているから、その時一緒に用意してもらおう。足りなければ君は好きな時に食べればいいし、僕にはこだわりがないから、君の好きなように用意してくれればいい。住んでもらうのだから、食費や、ほかにも必要なものはこちらで請け負おう」
その言葉を聞いてだんだん活力が戻ってきた。
一つ一つ聞いてみると、待遇面はなかなかのものである。求められるのは基本的に家の掃除が主で、料理や身の回りの世話に細かい注文を付けられるわけではない。そう考えるとかなりの好条件だ。
「人を雇うのはこれが初めてだから、この依頼が意に沿わないようであれば今この場で言ってもらいたい」
私はゆっくりとあごを引いてサルヴィエを見つめ返した。
家は狭い。仕事は未知数。
ただ、実を言うと私はそれほど忌避感を覚えてはいなかった。
どこにいったって大変でない仕事はない。この家にあるような目に見えるやっかいごとがなさそうな仕事場でも、いざ働き出してみたらとんでもない問題が出て来る……なんていくらでも考えられる。
そんな中、得意分野を買ってくれる上、雇い主が一介の使用人に一つ一つ了解を取ってくれるところに巡り合えたというのは幸運だ。
それに少なくとも、掃除のためにわざわざ人を雇うということは、環境改善に協力的であろうことは間違いない。
「……できます! 任せてください!」
大丈夫だ。やっていける。
私はぐっとこぶしを握り、笑ってサルヴィエを見る。
「さっそく今晩からご飯の支度しますよ! 食材と調理器具を使ってもいいですか?」
訊ねると、サルヴィエ氏は神妙な面持ちで私の背後を指さした。
振り返ってみると、そこには台所の流し台がある。
いくつもの焦げ付いた鍋と使い終わった皿が積み上げられ、台の上を占拠していた。
私は磨いた。
木々に囲まれた井戸端にうずくまり大中小さまざまな鍋を猛然と磨いた。
全ての鍋を使用前の状態まで洗い終えた頃には、日はとっぷりと暮れていた。
井戸に立てかけて並べたピカピカの鍋を前に、疲労感と共に立ち尽くしながら、私は胸の中で誓った。
こうなったらとことんこの家を磨きぬいてやろうと。




