6 お母様の愛
ほんの一瞬だけ映りこんだ光景。
その先を見ることを叶わず私は地面に転がり落ちた。
地面に打ち付けられた激しい痛み。
少し下りになった地面を転がり天地が回りお母様が何処に居るのか見失った。
うつ伏せに倒れた体を起こそうと腕に力を込める。
体の何処かがズキリと痛む。
泣きそうになるくらい痛い。
でも、それよりもお母様が心配だった。
アレは現実だったのか。
見間違い出会って欲しい。
何故こんなにも私は無力なのか。
お母様に駆け寄る事すら出来ないこの足が、この体が恨めしい。
行かなくちゃ。
お母様の所へ行かなくちゃ。
「お母様っ!」
非力な上に右腕も痛くて動かせない。
左腕だけで体を引き摺りながらお母様の元へ向かう。
声だけならまだ出せる。
「お母様ぁっ!」
「ヴァレリーちゃん」
私の上から影が覆いお母様の声がした。
見上げればお母様が私に微笑みかけてくれた。
でも酷い顔色をしている。
「大丈夫...大丈夫よ。ヴァレリーちゃんは私が護るわ...」
そう、うわ言の様に繰り返しながらお母様は私を大事そうに抱き締めた。
その温もりに私は安堵して、やはり見間違いだったのだと思ってしまった。
「でも、そうね...少し疲れたわ。少しだけ、少しだけ...休みましょ」
「はい...」
私はお母様の温もりに包まれていつしか意識を手放した。
ふと自分が揺られている事に気が付き目を覚ます。
辺りはもう真っ暗で真夜中だった。
生い茂る巨木の枝葉は月や星の光すら通さない。
そんな夜の森の中をお母様は私をしっかりと胸に抱いたまま歩いていた。
「お母、様?」
「大丈夫よ...ヴァレリーちゃんは私が護るわ...大丈夫...」
繰り返しそう呟きながらお母様は私には目もくれずにふらふらと森の中を歩き続けた。
足下でさえよく見えないのにお母様は転ぶこと無く同じ言葉を呟き続け暗闇を躊躇無く歩く。
このままではいつしか木にぶつかってお母様が怪我をしそうで怖かった。
「お母様...大丈夫ですか?危なくないですか?」
「護るわ...ヴァレリーちゃん、大丈夫...私が...」
お母様からは返事は無くずっと同じ言葉を繰り返し呟くだけで、前方をぼんやりと見詰めたまま歩き続けた。
普段とは違うお母様が別の何かに感じた。
お母様なのにお母様じゃない。
コレは何?
私を抱いているのは誰?
お母様はどうなってしまったの?
思考がぐるぐるして違和感への恐怖が大きくなる。
でも、この感触は間違い無くお母様なのだ。
ガサガサッ
左の方に何かが居る。
お母様も立ち止まった。
唐突に明かりが私達を照らした。
その眩しに目を細めた。
お母様は表情の無い顔で首だけを明かりの方へ向けた。
「おかしな気配がすると思ったら...」
大人の男性の低い声だった。
目がその明るさに慣れてくるとフードで顔を隠した男性がランタンを持って立っていた。
「生きる死体か...」
その人は聞いた事ない名前で私達をそう呼んだ。
「その服...貴族?貴族がなんでこの森の奥まで?」
私達の服装はボロボロになってしまったが生地が厚く一流の職人が作ってくれた高級品だ。
そのフードの人はブツブツと独り言を呟き思考の海に潜ってしまった。
「...あのぅ」
「罪人?いやそれでもこんな奥地まで辿り着ける筈は無い...」
「...あ、あの!」
「昨日感じた魔力はもしかして...ん?」
何度か声を掛けてやっと気付いてくれた。
こんな森の中で人に会えるなんて、もしかしたら助けてもらえるかもしれない。
お母様はもう限界だろうし、さっきから無言になってピクリとも動かなくなってしまったのだ。
「あの、私はヴァレリーといいます。こちらは私のお母様です。訳あってこの森に来てしまって昨日から殆ど食べていないのです。お願いします。出来れば食べ物と休める場所を貸して貰えませんか?」
「喋った...?」
「え?あ、はい。喋れます」
何だか会話が噛み合わないようなもどかしさがある。
私達も人から見ればかなり怪しいだろうけど縋る思いでお願いする。
「あ、あの!お母様は足が悪い私を抱き上げてずっと歩き続けてもう限界なんです!お願いします、助けて下さいっ!」
「...」
フードの下から私達を観察しているのだろう。
私は必死だった。
「お礼は出来ることなら何でもします!どうか、どうかお願いします」
お母様は疲れて限界なのだろう。
もう一言も言葉を発していなかった。
ならば私が説得するしかないのだ、と使命感に燃えていた。
「小娘...お前生きているのか?」
「こむっ...は、はい。勿論生きています」
不躾にジロジロと観察されるのはあまり気持ちの良いものでは無かったけれど、助けて貰えるならどうでも良い事だ。
私はその訝しげにぶつけられる視線に耐えながら返事を待った。
「ふぅん...。まぁ良いだろう。着いて来い」
「ありがとうございます!あっ待って...」
お礼を言い終える前にその人は外套を翻しスタスタと歩き始めた。
お母様の足はもう限界なのに!
そう思ったがお母様は何事も無かったかの様にその人の後をスタスタとついて行った。
僅か10分程度歩くと拓けた場所に幹が家の形みたいな不思議な感じ大木が生えていた。
いや、窓や扉も見えるし全体が薄らと光を帯びている。
フードの人がその大木の家に近づいて行く。
やはりこれがこの人の家なのだろう。
私はやっと休めると思い心が少し軽くなった。
ところがお母様は立ち止まってしまい一歩も進もうとしない。
「お母様?行きましょう」
「...ヴァレリー...ちゃ...護る...」
お母様はまた同じ言葉を呟いて私の方を振り返りもしない。
疲れがピークで少しおかしくなってしまったのかもしれない。
早く休ませてあげなくちゃ!
私はお母様の頬に触れようと手を伸ばすと、拒否するかのようにお母様は私を優しく地面に下ろした。
その時やっと目が合った。
「ヴァレリー...ちゃん、わた、し...まも...る」
「お、かあさま...」
お母様の瞳には光が無かった。
まるでぬいぐるみに縫い付けられた石のような、私を見ているようで何も見えていない目だ。
「あぁ、此処は守護結界があるから魔物はこれ以上入れねーんだった」
振り返るとフードの人がすぐ後ろに立っていた。
「え?まもの?」
「...気付いてなかったのか?」
「何が?」
「...」
フードの人が発した不穏な単語に息苦しくなる。
この後告げられる応えを何故か聴きたくない。
「お母様は、疲れてるだけ...」
「お前の母親か?」
「そう、私のお母様よ」
「...そうか」
こんな会話をしている間もお母様はずっと呟き続けている。
「ねえ、お願い。お母様も一緒に休ませて」
「...それは無理だ」
「...なんで?」
「言ったろう。魔物は入れない」
「まもの...?お母様は魔物なんかじゃないわっ!」
「はぁ...こいつはもう死んで魔物になってる」
呆れた感じで嘆息された。
理解できない。
この人が何を言っているのか分からない。
お母様が魔物?
さっきまで抱き締めてくれていたのに。
あの温もりは...
冷たかった。
お母様に抱き締められて此処まで来る間、いつも感じる温もりが失われていくのが分かっていた。
疲れているからだと思った。
夜の寒さのせいだと思った。
「お、お母様は生きているわ!だってずっと私を抱いて歩いてきたじゃない!今もこうして立っているじゃない!」
「生きる死体。死んでも動く死体の事だ。お前の母親はとっくに死んでいたんだ」
そんなことを言われても理解できない。
理解したくない。
この人はきっと嘘を吐いているんだ。
私を騙そうとしているんだ。
「もういいです、行こうお母様」
お母様は動かない。
ただフードの人に顔を向けたまま微動だにしない。
「ヴァレリー...まもる...」
美しい陶磁の様な白い肌はもう青白く生気を感じない。
美しかった右手が黒く変色していた。
よく見れば咬まれたような傷があった。
「黒死蛇か...猛毒を持つ蛇だ。咬まれれば30分ももたない。お前の母親はそいつに咬まれて死んだのだろう」
「...そんな」
あの一瞬の間に見えた光景。
黒い蛇がお母様に襲いかかろうとしたあの光景は、気のせいじゃなかった。
お母様は私を庇って襲われたのだ。
「でも、お母様は...」
「お前を護る、とずっと呟いていたな。恐らくだがお前を護りたいという執念で死んでも魔物と化してお前を護ろうとしたんだろう。普通魔物は人を襲うはずだが、お前を襲う気配は全く無い。自我を失ってもお前を護るために俺に託そうとしているのはその執念が根幹にあるからだろう。死して魔物と化しても娘を護ろうとするとは見事なものだ」
「うぅ...お母様ぁ...うぇぇぇん」
最後まで、私を護るために?
死んでしまっても魔物になってまで私を護ってくれていたの?
ねぇ、お母様。
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