ひとりぼっちのドクダミ
「なんて……ひどい……」
つぶやいたアジサイの青い髪の毛を風が揺らす。
おだやかな午後の日差しに似つかわしくない、焼け焦げた匂いのする風だ。
一面に散らばった瓦礫のなかには、まだ燃え残ってくすぶっているものがあるらしい。
この島にはそこそこ大きな村があったはずなのに、立ち並ぶはずの家屋は燃えるか崩れるかして、まともな形を残しているものは見当たらなかった。
色鮮やかな植物に覆われているはずの村はすっかり焼け焦げて、むき出しの地面がいやにかさついて見える。そして、火の気を嫌ったのか、空を泳ぐ魚の姿も見当たらない。陽気な南の島らしからぬ、ひどく静かな景色だった。
「あんた、火事場泥棒?」
呆然と立ち尽くすアジサイは、投げつけられたぶっきらぼうな声にはっと振り向いた。
そこに居たのは、ひとりの少女だ。本来は健康的な瑞々しさを持っているのだろう肌をすすけさせ、よれた衣服に身を包んだ少女。
けれど彼女の目には少女らしからぬすさんだ鈍い光が宿っている。
「え、いや。ぼくはこのあたりでサンゴの産卵が見られるって聞いたから……」
「だったらここから見える、あの丘を登ればいい。そのうち見られる」
アジサイの足元に置かれた大荷物を見て、少女は彼のことばを信じたのだろう。興味なさげに視線をはずすと言うだけ言って、少女は背を向けて歩き去ろうとする。
「待って。きみはこの村の子だよね? 何があったの。きみはどこで寝ているの?」
瓦礫の向こうに行ってしまいかけた少女に、アジサイは慌てて声をかけた。
アジサイの持つ地図には、このちいさな島にほかの村は載っていなかったはずだ。まともな家屋の残っていない島にひとりでいるのを見るに、少女はおそらく村の子だろう。
ならば彼女はどこで眠るのか。
心配になって呼び止めたアジサイに、少女は肩越しに振り向いて不機嫌そうな目を向けた。
「知ってどうする気」
「どうしよう……あ! ぼくのテントを使ってよ。ぼくは寝袋を持ってるから、どこかの木のしたで寝ればいいからさ。他に困ってることがあったら教えてよ。ぼくにできること、そんなにないだろうけど。でも、なにかあるかもしれないから!」
思いつくままにことばをつむぐアジサイは、人畜無害な笑顔を浮かべている。けれども、彼がことばを重ねるほどに少女の視線は険しくなっていく。
アジサイがしゃべり終えると、じっと溜まっていた少女の不機嫌はそのくちを突いて飛び出した。
「こんな状態の村を見て、よくへらへら笑っていられる。何があったかだなんて、あたしにもわからない。わけがわからないうちにこんなことになった。そこに馬鹿面さらして、なにがサンゴの産卵だ。テントを使え? 困ってることはないか? あたしが欲しいのは寝床じゃない。困っていないことなんてなにひとつないに決まってるでしょう」
淡々とした物言いだけれど、少女のなかには押さえきれない怒りが渦巻いている。
ことばの端々ににじむその気持ちを感じて、アジサイは胸が締め付けられるような心地になった。
「うん……うん。そうだね、そうだよね。だったら、ひとつずつ進めていこう。まずは、ごはん! お腹空いてない? 食べる物はあるのかな」
眉間にしわを寄せた少女にかまわず、アジサイはしゃがんで足元の荷物を漁る。
「ぼくも調査に来ただけだから豪華な食事は出せないけど、保存食は持てるだけ持ってきたから」
アジサイが取り出した干し肉を見て、少女はむっとくちの端を下げた。
けれど、そのくちから渦巻く感情がもれるよりはやく、彼女の腹が盛大に鳴った。
「あっ……!」
とたんに顔を赤く染めてにらみつけてくる少女だけれど、まったく怖くない。
きっとそれが本来の表情なのだろう、悔しさをにじませつつも恥じらう少女に、アジサイはにこりと微笑んだ。
「ちょうど良かった。ぼくもそろそろお腹が空いてたんだ。きみもいっしょに……そういえば、名前を聞いてなかったな」
ぼくはアジサイ、と笑えば、少女は気まずげに視線をそらしながらもつぶやいた。
「……ドクダミ」
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少女、ドクダミの食べっぷりは見事だった。
アジサイがうっかり作りすぎてしまった粥を食べ尽くす勢いで、さじを動かしている。
食べられる野草と細かくした干し肉を入れて、味付けは塩のみという質素な料理だが、わき目もふらずに腹におさめるドクダミを眺めてアジサイはにこにこと笑っていた。
しばらく食べていないのでは、と危惧したアジサイにドクダミは、この数日は壊れた家屋から見つけたものを食べていたと話してくれた。
だから、アジサイは心ゆくまで食べる少女を安心して見守る。
「……ごちそうさま」
すっかり食べきったドクダミはアジサイに見られていたことに気がつくと、気まずげに視線をさまよわせた。そっぽを向いたままではあるが、ちいさくつぶやかれたことばにアジサイはぱあっと表情を明るくする。
「お粗末さまでした。ほんとに粗末なもので、ごめんね。こんなことになってるって知ってたら、もっといろいろ背負ってきたんだけど」
申し訳なさそうに言うアジサイにちらりと視線をやって、ドクダミはかすかに頭をふった。
「別に。知らなかったんだから仕方ない」
「うん、知らなかった。ここに来るまでに寄った町や村のだれも、この村がこんなことになっているなんて気づいていなかったと思う」
ドクダミのそっけないことばを気にもせず、アジサイはうんうんと頷く。
そんな姿を見つめていたドクダミは、一段と声をちいさくしてぽつりと話し出した。
「……なにが、あったのか。あたしもよくわからない」
アジサイはそっと笑顔を消して、少女が話すのを静かに待った。
「ふつうの日だった。ふつうに起きて、お母さんたちとご飯を作ってたら……だれかの悲鳴が聞こえて」
怯えるように体を震わせたドクダミは、細い腕で自分の身体を抱きしめた。うす汚れた指先は、白くなるほど力が込められている。
「なにかがぶつかるような、すごく大きな音がして。おとなたちが様子を見に行って。あたしは家のなかで待ってるように言われて」
かすかに震える肩は、暮れはじめた島に吹く風のせいではないだろう。
それでも、ドクダミは声をしぼり出す。
「サメだ、火を焚けって叫ぶ声がして。あたし、こわくて。布団のなかで丸まって隠れてたら、家が、家が壊されて……」
いっそう酷くなる少女の震えに、アジサイは堪えきれず彼女の手に手のひらを重ねた。
びくりと大きく震えたドクダミは、細い指をアジサイの手に絡める。離れないで、というように強く。
「布団のうえに色んなものが落ちてきて。でもあたし怖くて、動けなくて。気がついたら……だれも、いなくなってた」
アジサイがドクダミを抱きしめたのは、自然な気持ちの流れだった。
自分の身体を抱きしめちいさくなって震える少女が不憫でならない。
悲鳴がだんだん減っていくのが怖くて動けなかった。もっと早くに布団から出て瓦礫のしたをのぞいていたなら、助かった命もあったかもしれない。自分ひとりが生き延びてしまった。
そんなことを深い後悔とともにつぶやいては、ごめんなさいと繰り返すドクダミ。
彼女が謝罪をするたびに、アジサイは彼女を強く抱きしめた。
「ありがとう。生きていてくれて、ありがとう」
少女のたよりない身体を潰さないように、けれど目いっぱいの気持ちを込めてアジサイは彼女を抱きしめる。
「ひとりきりで、絶望しきってしまわないでいてくれてありがとう。今日まで生き延びてくれてありがとう。良かった、ひとつでも助かった命があって」
「ひぐっ」
アジサイの腕のなかで、ドクダミがしゃくり上げた。
うつむいた少女の顔は見えないけれど、その顔を押し付けられたアジサイの胸元がじわじわと熱く湿っていく。つられて、アジサイもぼたぼたと涙を流す。
「君に会えて良かった。渡し船が出る日まで待たずに来て良かった。ほんとうに……ぐすっ、ほんとうに、ううぅ」
「ふっ、ううっ……うああぁぁ!」
はばからずに泣き出したアジサイに、ドクダミの涙腺も決壊した。
押し込めていた悲しみが噴き出たように少女は泣きじゃくる。
アジサイとドクダミは涙が枯れるまで、ひたすら泣き続けた。
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ドクダミの泣きはらした顔に濡れた布が押し当てられたころには、太陽はもう水平線にのまれそうなほど傾いていた。吹き抜ける風も熱気をなくし、ひんやりと心地よい。くすぶっていた家屋の火も消えたのか、焦げ臭さもずいぶんと薄れていた。
布を渡したアジサイは、濡らしついでに顔を洗ってきたのだろう。前髪から水を滴らせながら、さっぱりした様子で微笑んでいる。
やさしい眼差しに見つめられて、ドクダミは居心地悪そうに渡された布で顔を隠した。
泣きすぎてぼうっとする頭のまま、ぽつぽつとことばを落とす。
「あたしがもっと大きかったら、だれかひとりでも助けられたかな」
「うーん、サメ相手に戦えるほど大きかったら、もしかしたら」
「あたしにもっと勇気があれば、全部が終わる前に飛び出せたかな」
「布団にこもって耐えたきみは、じゅうぶん勇気があると思うよ」
言ってもどうしようもないつぶやきに、アジサイはいちいち律儀に返す。
それがおかしく、うれしくて、ドクダミはつい本音がくちを突いて出た。
「あたしは……生き残って、良かったのかな」
胸の奥に押し込めていたドクダミの思いが、アジサイのやさしさに触れて溶けだした。
ドクダミは少女だけれど、これが答えのない質問、無意味な質問だとわかる程度にはおとなだ。
思わずこぼれてしまったことばにはっとしてうつむいた少女の隣に、アジサイはそっと腰を下ろした。
「むずかしい質問だね」
ささやくように言ったアジサイは地面についた両手に体重を預けて、暮れていく空を見上げながらぼんやりと続ける。
「とても、むずかしい質問だ。亡くしてしまったひとたちは答えてくれない。後から出会ったぼくが何を言ったところでそれは答えにならない」
そうつぶやくアジサイは至極真面目だ。
てっきり甘やかな答えが返るものと思っていたドクダミは、ぽかんとして青年の横顔を見つめた。
「生き残って良かったかどうか、決められるのはこれからのきみだけだと思うよ。だけど」
ことばを切ったアジサイは、自分を見つめるドクダミに顔を向けてふにゃりと笑う。
「ぼくは、うれしかった。きみだけでも生きていてくれたこと。そしてできれば、きみが生き残ったことを喜べる未来があればいいな、って思ってる」
ひどくやさしいアジサイの声に、ドクダミの目からほろりと雫が落ちた。
悲しさではないものが溶け落ちた雫は、ドクダミのくちをすこしだけ素直にする。
「どうして、そんなにやさしいの。たまたま会っただけのあたしに、どうしてやさしくしてくれるの」
「うーん。それもまたむずかしい質問だなあ。きみがぼくより幼い、というのもあるだろうね。あとは、ぼくがたくさん助けられて生きて来たから、かな」
眉を下げて笑いながら、アジサイは答えをさがすように言う。
「サンゴの産卵もそうだけど、ぼくはいろんな土地にその土地固有の現象を観測しに、旅してまわってるんだ。旅の途中で困ることなんていくらでもあってね。水が無かったり、食べる物に困ったり怪我をしてしまったりね。そのたび、誰かに助けられてなんとか今日まで生きてる」
彼の物言いに、ほうぼうでよれよれになっては誰かから伸ばされた助けの手をとるアジサイの姿がかんたんに想像できたドクダミだったけれど、なにか言うのは控えておいた。
「情けない話でしょう? でもね、だからぼくは、困ってるひとを助けられたらうれしいな、って思ってるんだ」
そう言うアジサイの顔はたしかにひどく情けなかったが、ドクダミは笑えなかった。
「あんたのその、馬鹿みたいにお人よしなところ、あたしの両親に似てる」
「そうなんだ。えへへ、なんかちょっとうれしいなあ」
ドクダミの辛辣な言いように腹を立てるでもなく、アジサイは笑った。にこにこと笑うアジサイをぼんやりと眺めながら、ドクダミが「母さんたちのこと……」と語りだす。
「全部が壊れたあの日から、母さんたちのこと思い出そうとしてるのに……でも、ぼやけてるの。母さんの顔も父さんの声も、霧の向こうにあるみたいにもう、はっきりと思い出せない」
静かな声だった。
「このまま、忘れていっちゃうのかなあ」
さみしい声だった。
いつの間にか日が暮れて濃くなっていく夜闇のなかに、溶けてしまいそうなつぶやきだった。
「……ああ」
アジサイがことばを探して迷っているうちに、ドクダミがため息のような声をあげた。
「そろそろ満月だったと思う。サンゴの産卵が見られるかも」
ふっと立ち上がった彼女の視線を追って空を見上げたアジサイは、海から顔を出す金色の月を見つけた。大きな、丸い月だ。
どこまでも続く海の果てから続く光の道はひどく美しい。
思わず見とれたアジサイをよそに、ドクダミがふらりと歩き出した。
「行かないの? サンゴのとこ」
「あっ、行く行く! 案内してくれるの? ありがとう!」
跳ねるように立ったアジサイはうれしそうに言ってドクダミの後に続く。
慣れた道なのだろう。月明りに照らされた道を少女はさっさと歩いて村を離れ、丘を登った。
その間にも月はぐんぐんと空の高いところへとあがっていく。
ドクダミに連れられて歩くアジサイの足元に、だんだんとサンゴの姿が見えてきた。
葉のない木の枝のような姿をしたサンゴが、地表のあちらこちらに生えている。
ゆらりと風に揺れるイソギンチャクが合間にある以外には、ほかの樹木は見当たらない。サンゴの持つ毒性のせいだろうか。
興味深げにあたりを見回していたアジサイは、やがてドクダミが足を止めたことに気が付いて立ち止まった。
「うわあ……」
見事な景色に、アジサイはただ感嘆の声をもらすことしかできない。
ちいさくはない丘の見渡す限りが、サンゴに覆われていた。
月明りに照らされたサンゴはほの白く光を放っているかのようで、濃く落ちた影との対比が強烈な印象をアジサイにもたらした。
「うわあ……すごい……」
少年のように目を輝かせてあたりを見回すアジサイを見て、ドクダミはほんのすこしだけ表情をやわらげる。
自分の顔がゆるんだことに気が付いて、ドクダミはアジサイに背を向けた。
「あんたの名前、まだ聞いてなかった」
「あれ、まだ言ってなかった? 忘れてた。ぼくはアジサイ。しがない研究者だよ」
ドクダミの素っ気ない声で現実に引き戻されたアジサイは、けれど気分を害した様子もなくにこにこと応える。
肩越しにちらりと振り向いたドクダミは、ふたたび彼から顔をそむけると「ふうん」と興味なさげにつぶやいた。
「しがない、ってあんたにすごく似合うことばだね。それに、アジサイか。たしか花言葉は『移り気』じゃなかった?」
いじわるそうに言ってみせるドクダミだけれど、アジサイは平然と笑っている。
「物知りだねえ。だけどね、青色のアジサイの花言葉は知らないかな。辛抱強い愛、っていうんだよ」
青い髪を風に揺らしながらにこにこと言うアジサイに、ドクダミは「ふん」と鼻をならした。くちを尖らせてはいるが、少女の顔はどこか悔しそうな恥じらいの混じったような、複雑な表情をしている。
「よくそんなことを恥ずかし気もなく言えるね。ほんと、変なやつ」
「あはは」
悔し紛れのようにドクダミが言って、アジサイが笑う。
不思議と心地よい雰囲気のまま、ふたりの間に静寂が訪れた。
それから、どれほど時間が経ったのか。
月が高く高くのぼったころ。
ほわり、とちいさな粒が舞い上がった。
「「あ」」
そろって声をあげたドクダミとアジサイの視線の先で、サンゴから生まれた卵が宙に浮き上がる。
ゆらり、ふわり。
やわらかな風が地表をなでるたび、生まれたばかりの卵が無数に宙を舞い、闇夜に浮かぶ。
それは幻想的な光景だった。
月明かりにやわらかく光る卵は、あちらこちらのサンゴから無数に生み出されているかのよう。
ゆるゆると宙に浮いては空に散らばり流されていく。
「まるで、雪のようだ」
「ああ……それ、母さんも言ってた」
空を見上げうめくように言ったアジサイに、ドクダミが吐息まじりにつぶやいた。
「雪は空から降ってくる、サンゴの卵みたいな冷たいかけらだ、って……そうだ。母さんと父さんと、みんなでこうやってサンゴの産卵を見たんだ。今よりうんとちいさいときに」
ドクダミは記憶を探るように、飛んでいく卵をじっと見つめながら話す。
「特別に夜更かしさせてもらって、左右それぞれの手を父さん母さんとつないで、この丘を登って。眠たくて仕方なかったのに、産卵がはじまったら眠気なんて吹っ飛んで。夜中だっていうのにすごく興奮して村のみんなに話して回って……」
懐かしそうに微笑んだドクダミのほほを、暖かい雫がつたう。
「ああ、覚えてた。あたし、ちゃんと覚えてた。母さんのことも父さんのことも、村のみんなのこともちゃんと、覚えてた」
サンゴの卵がひとつ、ほたほたとこぼれる雫をぬぐうようにドクダミのほほを撫でて空に舞い上がる。
くすぐったそうに笑ったドクダミは、あふれるままに涙を流しながらささやいた。
「ねえ、アジサイ。あたし、生きてみる。生き残って良かったって思える日が来るのか、わからないけど。でも、生きてみる。みんなの思い出を探して、生きてみるよ」
空を見つめるドクダミに目をやったアジサイは、少女の瞳に宿る光のやわらかさにほほえんで言う。
「うん……うん。ぼくでよければ、話くらい聞くよ。気の利いたことは言えないけど」
「うん、知ってる」
「そんな、ひどいなあ」
間髪入れずに寄越された返事に、アジサイは朗らかに笑う。
何が解決したわけでもない。壊れた村が元に戻ることはなく、失くしたひとたちが帰ってくることもない。
けれどその日。ドクダミは村を無くしてからはじめて、悲しみだけではない気持ちを抱いて朝を迎えることができたのだった。