実戦
「えっと……」
俺の問いかけへの返事は戸惑いだった。それもそうだろう、目の前の獣を蹴飛ばしておいていいも悪いもない。
だが、悠長にやりとりをしている暇はない。吹き飛んだ熊のような獣が二頭並び、前屈みの体勢をとっている。そして背面にずらりと並んだ棘のことごとくがこちらを向いている。
これはひょっとしてひょっとしなくても――。
「やっぱり撃ってきたああああっ!」
背面から射出された棘が凄まじい速度でこちらへ向かってくる。
「泥の泉は闇の沐浴!」
背後の女性がなにかを唱えた瞬間、その速度が眼に見えて鈍る。逃げるには短いがそれでも確実に稼がれた時間は、俺の手に日本刀を握らせる。
抜いて構える余裕はない。ただ一度、一閃、一振りで打ち落とさなければならない。初めて実戦で刀を振るうのが生死の際ということに一瞬の怯えが混じる。
だけど、やらなければ死ぬ。俺もこの人も。
少し前に達人となったばかりの俺の眼に、振るうべき軌跡が映る。抜き打ちの技術も身についている。
「やあああああああっ!」
これまでテレビや漫画で攻撃する時に声を出すのが理屈で分かっていても、いまいち腑に落ちなかった。気合いは分かるが、本当にそれがベストなやりかたなのかと。
けれど、今なら分かる。この声は自身を鼓舞する声だ。声を出すことで恐怖が紛れ、自身を奮い立たせ、戦いへと向き合わせる。サラリーマンでいたときには決して理解できなかった感覚。
声と共に袈裟懸けの一閃が振るわれる。俺と後ろの女性を護るための、これ以上ないほどベストタイミングでの一撃は狙い違わず、必要な分だけの棘を打ち払う。
「はっ、ふっ、ああっ……」
「……凄い」
間近に迫った棘という恐怖と害意に手が震える。女性がなにかを呟いていたのも耳に入らない。
それでも、ああ、それでも。
俺はちゃんとできた。
恐怖の後に沸き上がる昂揚感が俺の体温をかっと上げる。
だが、状況はそれに浸ることを許してくれない。棘を防がれた熊は激昂して雄叫びを上げ、二頭同時に突っ込んでくる。
「うおっ、おおおおおおっ!」
異様なまでに速い突進と振り上げられた爪に俺も雄叫びを上げる。だが、先ほどと同じように熊の一撃一撃がよく見える。相手がどこを狙ってきているのか、どう攻撃してくるのか、視線、体勢、足運び、そしてなにより気配。それら全てが読める。俺には読める。
爪が木々を薙ぎ払い、突進が幹を倒し、雄叫びが空気を震わせる。だが、そのどれもが俺にかすりもしない。後ろの女性もきっちりと護り通しながら、初めて生き物に対して刃を振るう。
横薙ぎの一撃は熊の太い腕へと食い込み、そしてあっさりと振り抜かれた。肉を斬った感触が両手に伝わってくる。料理をしたときとは全く違う、生きている肉を斬った手応え。
「くおっ、おおっ!」
その生々しさに思わず声が漏れる。それでも相手が向かってくる以上、こちらも手加減できない。攻撃を捌き、受け流し、回避し、距離を詰める。
大振りの一撃を躱し、深く踏み込む。がら空きの胴を薙げば、間違いなく殺せる。俺がこの手で生き物を殺す。
ふと、害意とは違う感情を感じて顔を上げる。先ほどまで怒りに歪んでいた熊の顔に浮かんでいたのは、紛れもない恐怖。
この熊は、感情を持っている。
「殺しては駄目っ!」
女性の叫びで振り抜きかけた手を止める。本能というべき思考が危険だと告げているが、それでも踏ん張る。
馬鹿だと思う。止めれば次に攻撃を喰らうのは自分だろう。予測される攻撃の軌跡に意識を割こうとして、それが来ないことに気付く。
「……?」
見れば熊はじりじりと下がっていた。腕をかばうようにして下がる熊を、もう一頭が前に出て俺を牽制している。
やはり、この熊は感情と知性を宿している。それを理解した俺も大きく後ろへ下がり、構えを解く。
俺の意図を理解したのか、熊も大きく下がり、一定の距離を取ってから背中を見せて木々の向こうへと消えていく。
どれほどの時間が経っただろうか。一分のような、数秒のような、いずれにせよ俺にとって濃密な時間が経ってから、ゆっくりと息を吐く。
「ありがとう、助かったわ」
後ろから声をかけられて振り向き、どういたしましてと返そうとして絶句する。
とんでもない美人が、そこには居た。
カラスの濡れ羽色のような艶のある黒髪、切れ長の黒い瞳と小さく整った顔立ち、いかにも魔女と言わんばかりの鍔広のとんがり帽子と黒い衣装が、森の中であってさえこれ以上なく似合っている。
綺麗だ。純粋にそう思う。鬱蒼とした森の中で、この人だけ輝いているような錯覚さえ覚えてしまう。
助けたときは夢中だったので、まったく気付かなかった。
「? どうかしたの?」
「あ、いや、その、無事でよかった」
動揺をごまかすように慌てて言葉を紡ぐ。怪訝な顔をしていた女性は無難な言葉にくすりと笑う。
「あれだけのことをしたのに控えめなのね」
「あー、ま、まあね」
正直言って、先ほど女神の加護によって手に入れたばかりの力を使っただけなのだ。褒められても実感が無い。
「それより、あの熊みたいな奴ら、倒さなくてよかったのか?」
「ああ、あれは多分ここ一帯の主だと思う。倒してしまうとこの辺りの環境に影響を与えかねないわ。それに――」
彼女はいまだに納めていない刀へ視線を向ける。
「飛来した熊嵐の棘を叩き落とすほどの腕なら、殺さずにあしらえると思ったから。魔獣とはいえ、何でもかんでも殺すのは間違っているわ」
「あれは……でも君が助けてくれたんだろう? 棘の速度が遅くなってなければ、俺は死んでたかもしれない。だから俺も助かったよ、ありがとう」
実際、あそこで瞬間の思考を紡げなければ酷い目に遭っていただろう。転生即死亡なんて笑い話にもならない。
だが、目の前の女性は俺の言葉で驚いたように眼を見開く。
「……それ、本当に言ってるの?」
「? そりゃそうだよ。助けてもらって礼を言わないほど俺は礼儀知らずじゃない」
前の人生で礼儀は大切だと、これだけは親に徹底的に叩き込まれた。お陰で社会人になってからは周りの受けはそこそこよかった。
だが、目の前の女性はその言葉に隠しきれない喜色を浮かべ、唇の端を緩める。そうすると、どこか子供っぽい雰囲気が漂ってくる。
「そう……そうか。ええ。ありがとう、本当に」
それがなにに対してかは分からないが、少なくとも今のことだけではないだろう。だから俺は黙って小さく頷くだけで留める。
「そういえば、名乗るのが遅れたわね。私はクロエ。黒い森のクロエ。魔女よ」
魔女。やはり先ほどの呪文は魔術で、それで俺を助けてくれたのだろう。格好からそうではないかと思っていたが、魔女が本当にいるなんて。
女神の言った通り、この世界は科学とは別の技術を持った世界なのだろう。
ふと、彼女――クロエの視線に気付く。俺の顔をじっと見るその光を見て、答えるべき言葉を紡ぐ。
「俺は刀夜 だ。よろしく」
長谷部 、という名字は名乗らずにおく。この世界では無意味だし、名字があることでなにかトラブルを招くかもしれない。
クロエはそんな俺に気付いた風もなく、何度か俺の名前を呟く。
「トーヤ、トーヤ……変わった名前ね。うん、でも素敵な名前」
そう言って笑うクロエの顔は、控えめに言っても心が奪われるものだ。転生して初めて会った人がクロエでよかった。そんな風にさえ思う。
そうして手を差し出す。いまだに刀を握っていたことに気付いた俺は慌てて納刀して手を服で拭く。
そうして握った手は柔らかく、暖かかった。
「改めて言うわ。トーヤ、助けてくれてありがとう」
「こちらこそ、ありがとう」
そうして笑いあう。
これが、俺たちの出会いだった。