夢想転生
「ぶはぁっ、あっ!」
溺れていた水中から顔を出した時のように、勢いよく呼吸する。大きく吸って、吐くと新鮮な空気が肺を満たし、酸素が行き渡るのを実感する。
まるで初めて呼吸したかの如く全身が活性化し、思考も回転し始める。
いや、まさに今俺は初めて生命活動を始めたのだ。地球から、この世界に生まれ変わった。女神の力で転生した。
「ふっ、はっ……」
意識と鼓動と昂奮、いろいろなものがないまぜになった感情を落ち着けるように深呼吸を何度かして、ようやく落ち着いてくる。
まずは自分の確認だ。この世界で一般的な物であろう長袖と長ズボン、鏡がないので分からないが、体格は前と同じように思える。
だが――。
「うわっ、軽っ!!」
思わず声が出るほどに身体が軽い。物理的ではなく、動きが軽い。ふざけ半分でしたシャドーボクシングのような動きは今までの自分とは段違いの速度で放たれ、しかも最適化されているというのが分かる。もしも人に向かって放ったなら的確に急所を捉えるだろう。
ふと思い立って、側にあった巨木に向かって走り、そのまま駆け上る。普通なら失速して落ちるはずだが、転生した俺の身体は易々と頂点まで昇り詰め、しかも余裕がある。
どうやら森の中に転生したらしくかなり高い木の上から見渡しても周りには鬱蒼とした木々しか見えない。
「うわー……漫画みたい。とうっ!」
掛け声と共に飛び降りても、足にほとんど衝撃が来ない。女神が身体能力を強化したというのは嘘ではなかったらしい。
「ん……なんだこれ」
飛び降りた衝撃で袖口から一枚の紙片がはみ出てくる。それを引っ張り出すと、この世界のものであろう文字が記されていた。
「おわっ! なんだこりゃ!!」
それを文字だと認識した瞬間、解読できるようになる。頭の中に識字の知識が流れ込んでくるとでもいえばいいのか、唐突に読めるようになって混乱するが、それでも読み進める。
『転生おめでとうございます。あなたにはこれからこの世界で好きに生きてもらうわけですが、さすがに身一つでは色々と不便もあると思いますので、いくつか私からのプレゼントを贈っておきます。まずは腰につけた巾着袋、これはマジックボックスです。どんなものでも大抵はその中に入れられますし、取り出せます。とはいえ容量は無限大ではないので海水を入れてダンジョン水没とかできませんので注意して下さいね』
改めて自分の腰を見ると、確かにベルトに巾着袋が結び付けられていた。それを外して手に乗せると、中身がないかのように軽い。これが本当にそんな便利な代物なのだろうか。
『あ、今疑っていますね。だったら巾着に手を突っ込んで武器を想像してみて下さい』
書かれている通りに手を突っ込み、武器をイメージする。
「う……おっ」
すると袋の大きさからは出てきようもない長さの武器――日本刀が姿を現わす。
『あなたたちにお馴染みの日本刀が出てきたでしょう? 出てきましたよね? これもサービスですが、今この場で一度刀を抜いてみて下さい』
先ほどと同じように素直に従って抜き放つと、蒼い刀身が光を反射する。美しい煌めきが俺の顔を照らし出す。
「うわっ、なんだこれ!」
切っ先が鞘から出た瞬間、日本刀の使い方――いや、これは経験だ。達人の経験というべき物が頭に流れ込み、身体がそれを覚える。そんな感覚が全身に広がってくる。
試しに一度刀を振ってみる。
「うわ……」
握り、構え、踏み込み、刃筋、残心、その全てが流れるように行われ、イメージした物と違わず剣が振り抜かれた。
刀なんて竹刀すら握ったことのない俺が、初めての素振りで全くの自然体、それも生涯を刀に費やした達人と同じように振れた。
そしてそれが全く違和感なく、俺の中に息づいている。
何度か別の素振りを試してもそれは変わらない。実感として確かに俺の中にある。
どこをどう振れば、どう斬れるかが分かる。
俺は今、剣術の達人になっている。
『理解しましたか? あなたには知識無しでと言いましたが、さすがに技量も全くない状態で放り出すのは忍びないのでこれは教えておきます。あなたに授けた私の加護の一つ、武器を手にしたときにその使い方を習熟できるというものです。それの応用で文字も読めるようにしておきました。巾着の中には幾ばくかのお金も入れてあります。あまり多くはないですので無駄遣いしては駄目ですよ?』
金をイメージしながら巾着の中を探ってみると金銀銅の貨幣がそれぞれ十枚ほど入っていた。これがどれほどの価値を持つのかは、実際に街に行ってみなければ分からないだろう。
それにしても、この巾着はどういう仕組みなのだろうか。魔術というやつか。
『さて、転生早々長々とお話してしまいましたが、私からのお話はこれで終わりです。これ以降、私はよほどのことがなければあなたに干渉いたしません。あなたはどうか、あなたの意のままにこの転生を楽しんで下さい。それでは、いつかまた。 フィオフィレリアより』
最後まで読んでからもう一度読み直し、小さく笑う。
「ありがとう、フィー」
そう呟いて手紙を巾着にしまい、息を吐く。
さて、何はともあれ街へ向かった方がいいだろう。この世界の常識もそうだが、地理関係も把握しなければならない。ちょうど森で目覚めたことだし、誰かに会ったらなにか危険な目に遭って記憶が混濁しているという体で押し通してみよう。
「ギオオオオオオオオオッ!!」
そう決めた瞬間、森の木々が震えるほどの咆吼が聞こえてくる。
明らかに尋常ではない獣の声。
だが、俺は驚きはしたものの怯えはなかった。
フィーが授けてくれた力があるからだろう。過信はするべきではないけれど、それでも女神の加護があるとなればそうそう危機には陥らないだろう。
それに、この世界の生態系も知っておくべきだ。
俺はそう考えて咆吼の元へと走る。走り出してから気付くが、森の中でも木々にほとんどぶつからない。足捌きもそうだが、目もかなりよくなっている。身体能力の向上というものは凄まじいものだと実感する。
そしてこれには先ほどの加護も作用しているのだろうとも思う。何しろ肉体は自分が一番最初に持つべき武器でもある。
それが自分の身体をまるで風の如く森の中を駆けさせている。
「あれか!!」
走り出して間もなく、視線の先に二頭の熊――にしてはなにか棘が生えているが、ともあれ熊っぽい獣を見つける。
その手前には黒い服の女性が必死に逃げており、木に身を隠すがそれを背中から射出された棘が粉砕し吹き飛ばす。
これ、まずいんじゃないか。
あれこれ考えるより速く、足に力をこめて加速する。途中でなにか木々ではないようなものが見え、驚いた男の声が聞こえたような気がしたが構わずに突進する。
眼前ではすでに熊が太い腕を振り上げ、叩きつけようとしている。この世界の人間の耐久性は知らないが、あれを喰らって無事で済むとは思えない。
刀を抜いている暇はない。俺は加速した速度をそのままに足で地面を蹴り上げる。
「おわああああああああっ!」
気合にしては間抜けな叫びと共に放った跳び蹴りは狙い通り熊の胴体に直撃して吹き飛ばす。
大きさからして三百キログラムは越えているだろう体躯だが、全くもって力負けをしていなかった。
改めてこの身体の強靱さを実感する。
だが、今はそれに感動している場合ではない。
視線の先では蹴り飛ばされた熊が怒りの形相で立ち上がり、もう一頭の熊と共に俺を睨み付けている。その表情にダメージの余韻はない。
目の前の敵から視線をそらすことができないまま、俺は口を開く。
「状況がよく分からないんだけど、これ、助けていいんだよな? いいんだよな?」
颯爽と駆けつけたわりには、自分でも間抜けな第一声だった。