アンドヴァルドの迷宮 九
目眩にも似た浮遊感と泥に足を踏み入れたかのような重さがまとわりつく。抱き上げているシウが俺の胸をぎゅっと掴むのが分かる。不安をかき消すようにしっかりと腕へ力を入れると、シウの身体から強ばりが消えるのが分かる。
そして、唐突に消える浮遊感と足が土を踏み締める感触が、階層の移動を終えたことを知らせてくる。
「……っと」
勢いよく扉へ突っ込んだため、バランスを崩しそうになった両脚を持ちこたえ、倒れないように力をこめる。
「んっ……」
シウの身じろぎと吐息が聞こえて、顔を上げる。盲目の瞳が思ったよりも近くにあって、儚げな顔を間近で見てしまう。
歌巫女という職業だったからか、シウはどこか神秘的な雰囲気を醸しだしている。冒険者らしからぬ細い身体というのも相まって、実際触れているのに消えてしまうかのような印象を抱いてしまう。
「トーヤさん?」
「ん……お、ああ。すまない。シウ、怪我はないか?」
その繊細な美しさに一瞬見とれていたとは言えず、ありきたりな言葉をかけるとシウはにっこりと微笑む。
「ええ、大変よい乗り心地でした」
「それならよかった。悪かったな、いきなり抱き上げて」
「いえ、わたくしを思ってのこと、むしろ嬉しかったですよ。ふふふ」
そう言ってシウは両手で俺の顔をぺたぺたと触る。両手で抱き上げている以上、シウの動きを止められずにされるがままになってしまう。
「シ、シウ……?」
「こうするとトーヤさんの顔がよりしっかりと分かるので。ふふ、満足いたしました」
「お二人さん、危機を脱した瞬間にいちゃいちゃしてるんじゃないよ」
呆れたようなイルシュカの声に振り向くと、そちらにはクロエを始めとするパーティーの全員が土の上へ座り込んでいた。少し離れた場所には『隼の剣』の面々も揃っているので、どうやら無事に危機を脱したようだ。
「トーヤ、いい加減にシウを降ろしなよ。困ってるでしょ」
「あ、ああ。シウ、ゆっくりと足から降ろすから」
「ええ。ありがとうございます」
腰を屈め、シウの足裏がつくようにゆっくりと降ろす。シウは俺の身体に手をかけながら地面を踏み、立ち上がる。
離れていく温かさに、少しだけ寂しさを感じてしまう。
「トーヤさん、ありがとうございました」
「いや、こちらこそ急にすまなかった」
俺の言葉にシウが微笑み、首を振る。そうしてゆっくりと杖で周りを探り始める。
「あー、抱っこで運ばれるなら私も転んでおけばよかったかな」
「イルシュカと二人なら多分抱っこというより担ぎ上げるだけになってたと思うぞ」
フィーから加護を得て筋力も増大しているとはいえ、さすがに女性二人を抱き上げるのは無理がある。両肩に二人を担いで走る格好になるだろう。
「そういうことじゃないんだけど……まあいいか。じゃあ今度こけたら頼むよ」
「わたくしは転ばなくてもお願いしたいですね。ふふ、いい体験でした」
コツコツと地面を突きながらシウが笑う。冗談なのか本気なのかよくわからない微笑みに、俺も笑うことでしか応えられない。
そうする内にクロエ、トゥリア、ラ・ミルラもこちらへ集まり、全員の無事を確認する。向こうが無事かどうかは分からないが、そこまで気にする義理はないし、求められたことは充分に果たした。
後はもう、俺たちが無事に帰還するだけだ。
だが、そんな俺たちに『隼の剣』が近寄ってくる。それだけで先ほどまでの気分が台無しになる。
「お前ら、とりあえず礼は言っておく」
「いらねえよ」
「なっ!?」
渋々という体で礼を言うグレンへ端的に返す。顔を引きつらせて固まるグレンへ続く言葉を紡ぐ。
「心の中で一欠片も思ってないことを言われてもこっちは嬉しくねえんだよ。俺がお前らに助力したのは冒険者同士だからってだけだ。少しでも感謝してるならさっさと視界から消えてくれ」
「てめえ……っ!」
「なんだ? 助けてもらった分際で斬りかかってくるか? それとも今からあの地竜に戦いを挑みに行くか? ご自由にどうぞ。今度は助けないし、お前らが死んでも俺たちには全く問題ない」
顔を怒りに染めたグレンへ吐き捨てる。実際問題こうして顔を見るだけで嫌悪感が沸いてくるのだ。今でも助けなければよかったと思う気分が心のどこかに巣くっているのが自分でも理解できる。
「俺たちのこの態度は、お前の対応が招いたものだってことを自覚しろ。お前がクズだから、自業自得を味わっているだけだ。分かったならさっさと行けよ。それとも――」
言って、半身になる。刀の柄に手をかけていないのは、俺なりの自制心だ。
「やるか?」
正直、クロエに対して行った仕打ちに対してずっと腹に据えかねるものがあるのは確かなのだ。初対面の俺を助け、色々と教えてくれるようなクロエに対して、自分の優位さを利用して下品な欲望を抱いた男を好きになれるはずもない。
その後に色々と絡んできたことといい、この男は、明確に俺の敵だという認識がある。
助けたことと、このことは別だ。
「……ふん、行くぞ!」
俺の挑発に、それでも剣に手をかけない程度の分別はあったらしい。なにごとかと見守る周りの冒険者たちを一瞥して、背を向ける。
それが、精一杯の穏便な対応なのだろう。こちらかするとそれですら不愉快極まりないが。
グレンについていく勇者パーティーの中で、唯一俺たちへ助けを求めたネフィルが一度振り返る。
「その……助かったわ。ありがとう」
「次はないわ。仮にも勇者を名乗るなら、追い出した私なんかを頼らずに倒せる敵を相手にしなさい」
去り際に遠慮がちに感謝を告げるネフィルへ、クロエも辛辣な言葉を返す。ほぼ独断でグレンを追い払ったが、クロエも同じ気持ちだったらしい。助けるは助けたが、やはり散々因縁のあった相手であるから気分のいいものではない。
ネフィルも顔を強ばらせ、それでもなにも言わずに背を向けてグレンを追っていく。
結局素材などの収穫もなかったし、相手は嫌な奴らだし、くたびれもうけに等しい出来事だった。
グレンたちを追い払い、その背が迷宮の闇へと消えていってしばらくしてから、ようやく俺たちも移動する。いつまでもここにいては、復活してくる門番に襲われるかもしれないし、それを狙う冒険者たちとの戦いに巻き込まれる。
「トゥリア、欲しい素材は充分集まったんだよな?」
「ああ。問題ない」
「ならば、俺たちも帰ろう。最後の最後でケチがついたが、皆集中を切らさないように、冒険は帰るまでが冒険だからな」
くだらない戯言に皆が笑い、隊列を整える。
最後にくだらないことに巻き込まれはしたものの、目的は果たした。
さあ、帰ろう。




