その1
かなり古い時代に書いた作品です。
なので企業のノリ、仕事のノリなどが少し古いです。設定もおかしい部分があります。
が、あえてそのままにしました。
連載済みの姉妹作「きこりの王子さま」と同時期に書いた「王子さま」という単語のみで書きました。
東京の北区に「王子駅」というのがある。JR京浜東北線と地下鉄があって都心に行くには便利らしい。
らしい、というのは私はその「王子駅」には降りたことがない。
その王子駅が私の中で身近になったのは一人の同僚の存在だった。
「俺?俺は家が王子なんだよ」
週末の会社の飲み会。新橋駅のSL広場での会話。
王子駅なら乗り換え無しの一本で帰れるということらしい。乗り換えが二回もある私とは大違い。
「不動産屋が、あんたなら王子駅に住みなさいって勧めてくれたんだよ」
と、酔っぱらって話しているのは同僚の大路くん。
だいじではなくおおじ。発音だけきけばおうじとおおじは、ほぼ一緒。
大路くんだから王子駅。
冗談みたいな話だけど、大路くんは王子駅が最寄り駅。勧めた方も方だけど、勧められてそのまま決めてしまった大路くんも大路くんだ。
そんな大路くんは良く怒られている。
上司から、取引先から、同僚から。でも、みんな彼の事を憎んだりしていないことは、怒られたあとの雰囲気を見ると判る。
みんなの意見をまとめてみると、
「あいつは憎めないヤツだからさあ」
という事なんだろう。
大路くんみたいな人は男の人にとっては「いいやつ」なんだろうけど、女の私たちにしてみると「無害な人」に見える。
当然、女同士の話題でも大路くんのことが出る事なんてほとんどない。
それに大路くんは名字で呼ばれることがほとんどない。
名前の「たくみ」で呼ばれている。上司も彼のことを名前で呼んでいる。大路という名字もなんだけど、匠という名前もインパクトがあるから、大路くんが王子駅に住んで居なければ「この人、苗字なんだっけ?」と思い出せないくらいだった。
ただ、新しい仕事を取ってきた時なんかはみんなに「おおじ」っ言われる。それもちょっとからかい半分みたいな言い方。
ほめられている時の大路くんは照れている。自慢することもなく、ただ照れている。
そんな感じだから大路くんは「無害な人」だったわけだけど、あることがきっかけで気になる人になった。
ある日のこと。
「なんだその頭?」男同士の会話が耳に入る。
大路くんのヘアースタイルがいきなり変わっていた。今まではツンツンヘアーだったのに、今日はぺたんこになっていた。
「これだよこれ」大路くんは自分のデスクにドカンとヘルメットを置いた。
「買ったのかバイク?」
どうやら大路くんは私たちの知らない間にバイク通勤を始めたらしい。それも男同士の会話がなければ気がつかなかった。
だって、大路くんの髪型のことなんか女子社員の誰も気にしていないし。
大路くんのバイクがちょっとした騒動の引き金になるとは、この時、私は考えもつかなかった。
その日は朝から晴れていたのに、夕方から急に雨降りになった。
私は残業をしていた。していたというより、させられていた。
まあ、残業なんてさせられるものだと思ってるけど。
でも、もう帰るつもりでいた。早く家に帰って連ドラ見ないと。はっきり行って仕事より連ドラのほうが大事。
今から帰れば余裕で家で、ゆっくり連ドラを見ることができる。と、私は大急ぎで机の上を片づけ始めた。
すると、出てきてしまった。
届け忘れていた大事な契約書。今日中に届けれくれと部長に言われていた書類。
あちゃ〜。絶対に届けないとならない。けど、先方が帰ってしまったのなら、明日、立ち寄りで届ければいい。
連ドラか契約書か。
間違いなく連ドラ。書類は持って帰って明日、会社に来る前に届けよう。そうすれば問題はないはず。
と、私は自分で納得していた。
電話がなった。
契約書を届ける先の会社の社長さん。
呑気に「遅くまでおりますので書類を待っています」
なんて言っているが、同時に私は連ドラが見られないことがわかった。
録画してくるんだった。会社のテレビで見られないこともない。しかし、会社で連ドラを見終わってから届けるとすると会社を出るのが十時過ぎになってしまう。
今、会社を出れば今日中に書類を届けることができるけど、連ドラが始まるころには電車に乗って移動中になってしまう。
この時間だったら明日の朝一でも何の問題もないと思うけど、どうも年寄りにはそういう合理性がない。
終わった。
連ドラが仕事に負けた。
と、誰かが帰ってきた。
「ふえ〜すごい雨」
大路くんだった。肩なんかがすごく濡れている。結構降っているんだ。余計に届け物なんかしたくなくなった。
「あれ、遅いねえ」
一人残っている私を見て大路くんは言った。
「ちょっと困っててね」これは本当だった。私は本当に困っていた。
連ドラが見られないから。今日は九回目の放送で、いよいよ佳境に入ってきているから、見逃したら今までの苦労が水の泡になってしまう。
「どしたの?」
「この書類届けなきゃいけないんだけど、まだ仕事残ってて出られないんだけど」これはウソだった。
「ふうん」大路くんは肩の水滴を払いながら言った。「急ぐの?」
「うん、とっても」ほんとうに急いでいた。急がないと連ドラが始まっちゃう。
「俺、届けようか?」
「えっ?」
「田端だろ?帰り道だし、バイクだから早いし」さらりと大路くんは言った「俺もう仕事終わりだから、届けてそのまま帰ればいいんじゃないかな?」
なんという善人なんだろうこの人は。帰る方向と届ける方向が一緒だからって、自分がバイクに乗っているからって、人の仕事を請け負ってくれるなんて。
そういえば、大路くんは王子駅だったんだ。方向は確かに一緒。
「どれ、書類って」大路くんはいつもよりやる気がマンマンだった。
「ほんとに大丈夫?」
「いいよ、バイクだから」大路くんは楽しそうにリュックに書類を入れていた。その様子は、仕事を頼まれることよりも、バイクに乗れることが楽しいみたい。
じゃあ、全面的にお願いしようかな?
「ほんと悪いね」と、これっぽっちも悪いとは思ってないけど。
「いいよ、バイクだから」
大路くんはこれっぽっちも私の事を疑ってない。喜々としてヘルメットをかぶっていた。
「でも、私も一緒に行こうか?」ちょっと演技をしてみた。
実は行く気はまったくない。ただ、何にも疑いもしない大路くんにはちょっと申し訳なくてお芝居をしているだけだった。
それに、
「部長、うるさいじゃない?担当の人間が行かないとダメだって」というような理由もあった。でも守っている人間なんて誰もいない。早い話が契約書がキチンと先方に届けば良い話であって。
「乗ってこうか?」
と、もう一度言ってみた。
「いや」ヘルメット姿の大路くんは言った。「だめだ」
その様子が、いつも私たちが知っている呑気な大路くんとはまったく別人に見えた。ヘルメットを被っているから見た目に別人なんだけど。
「俺は絶対に自分のバイクの後ろに人をのせない」怖いくらいの剣幕だった。
なんで、そんなに怖い顔になるんだろう。
「じゃ」そういって、大路くんはずんずんと歩いて出ていってしまった。「届けたら電話する」その声だけが残っていた。
私は「ありがとう」も言いそびれて見送った。
ヘルメット被るとあんな感じになるんだ大路くん。ちょっと意外。まあ、彼がバイクに乗っている事自体が「意外」といえば意外なんだけど。
私はそんなことはともかく、テレビの前に向かった。大路くんからの「お届け済んだ」の電話があるまでは会社にいないと。
まあ、会社でも連ドラ見られるからいっか。
すっかり問題は解決。
先方からの電話はあった。
でも、大路くんからの電話はなかった。
読了ありがとうございました。
姉妹作「きこりの王子さま」もよろしくお願いします。