二十三「瑕」
ルーシュイが目覚めると、そこはユヤンの執務室であった。旅支度はそのままに、座り込んで気を失っていたような感覚がした。
けれど、あれは幻ばかりではない。そのことをルーシュイ自身がよくわかっている。
「目覚めたようだね」
ユヤンの気遣う声が迎えてくれた。
ルーシュイはうなずいて答える。
「はい。あれは夢ではなく、あそこが神山なのですね」
「そうだ。人が神山へ行くには何かと難しい問題があるから、ああいう形でね」
そう言って、ユヤンはルーシュイの正面に座った。どこから来たのか、気づけば白い狼が机の下にいた。神山へ来てくれたのも事実なのだろう。
「そうでしたか」
なんとなくつぶやくと、ユヤンはルーシュイを促す。
「それで、どうだったんだい?」
ルーシュイは神山で行ったやり取りをユヤンに語った。ユヤンは相槌ひとつ打たず静かに聞き、ルーシュイが語り終えるとひとつ息をついた。
「そうか、君が決めたのならば私から言うことはない。陛下も君に任せると仰られていた」
「ありがとうございます」
頭を下げると、下げたはずみで頭が痛み出す。狼が、そんなルーシュイを見上げてキュゥンと鳴いた。何故かそれがルーシュイを心配してくれているように思えた。
● ● ●
ルーシュイが鸞和宮に戻った時、あの神山での出来事に丸一日費やしていたのだと知った。
けれど逆に言えば一日で済んだのだ。素早い帰還にレイレイは驚きつつも喜んで迎えてくれた。
いつもはルーシュイが開ける門が開くのを、外から眺めるのは不思議なものだった。その門が開ききる前にレイレイが宮から飛び出してルーシュイを迎えてくれた。
「ルーシュイ!」
飛びつきたい気持ちだけれど、レアンがいるから我慢する――それがレイレイの紅潮した頬と濡れた瞳に表れていた。ルーシュイもそんなレイレイを抱き締めたいと思った。
「只今戻りました、レイレイ様」
「うん、うん!」
二人が何も言わないのに、レアンは自分が邪魔だと感じたのだろうか。その開いた門の隙間から小さな体ですり抜けてくる。
「では、私はユアン様のもとへ戻ります」
「ありがとう、レアン」
レイレイの言葉に一礼すると、レアンは落ち着いた物腰で去った。乗り物を用意する間もなく、レアンはさっさと行ってしまう。
ルーシュイはレイレイの背を押し、宮の中へと入った。門を閉じ、二人きりになると、ようやくレイレイを抱き締める。力の加減が上手くできなかった。レイレイが苦しそうに呻いた声でやっとルーシュイは我に返った。
「すみません、つい……」
愛しい。けれどもう、レイレイの気持ちは今のまま変わらずにいてくれるわけではない。
だから、切ない気持ちが抑えきれない。忘れないで、どうか、覚えていて――
声にできない想いが腕にこもる。
「大丈夫よ、ルーシュイ。わたし、ちゃんとお留守番していたのよ?」
レイレイはそんなことを言って腕の中で笑った。日増しに美しく、蕾も綻び、大輪の花となった。
それをひしひしと感じる。
「そうですか。寂しかったのは私だけですか」
ぼそりと言うと、レイレイはえ、と声を漏らした。
「ルーシュイはわたしに会えなくて寂しかった?」
「ええ、とても」
正直に答えた。すると、レイレイは少し照れて甘えるようにルーシュイの胸に顔を埋めた。
「これからはずっと一緒よ。わたし、もうルーシュイのことを忘れずにいられるんでしょう?」
そのひと言に心音が乱れそうだった。けれど、胸に抱いているレイレイにそれを覚られたくはなかった。自分を騙すようにして心を落ち着けることができたのは、その思いからであった。
「レイレイ様がご心配なさることは何ひとつございません。あるとすれば、そうですね……粥が上手く炊けるようにという点でしょうか」
そう言って笑うと、レイレイはパッと顔を上げ、金魚のように口を動かしながら一度うなずいた。それから力強く言う。
「う、うん。頑張る!」
一生懸命さが微笑ましい。大事な人。
案ずることは何もないなどというこの嘘も、レイレイはきっと覚えていられない。
それでも、何も覚えておらずとも、レイレイがルーシュイにとって最愛の人であることに変わりはない。『レイレイ』は他の誰でもなく、彼女でしかあり得ないのだから。
「ええ、よろしくお願い致します」
これからずっと二人。
そうしていつかは家族が増えるのだろうか。
それは幸せすぎる未来だから、神様はたったひとつの瑕をつけたのかもしれない。
完璧なものなどこの世にはない。それをようやく知った気がする。
これくらいの幸せの形が丁度良いのだと。




