二十二「望み」
ワゥ、と狼が倒れたルーシュイを気遣うような声を上げた。鼻面が近く、ルーシュイは驚いて転がりながら起きた。
「……気を失っていたのか」
そう独り言ちる。けれどそれに対し、狼がワゥ、と鳴いた。まるでルーシュイの独り言に肯定するかに聞こえるから可笑しい。
「そうか。でも大丈夫だ。これでスッキリした」
本当に心が軽い。こんな時なのに笑みが漏れた。
狼は軽く首をかしげると、先を促すように歩き出した。ルーシュイも狼に続いて歩き出す。
山の頂はどこなのか。現在地がどの辺りかもわからないけれど、何故だか頂が近いような気がした。
そうしていると、大岩の上に優雅に座った三人の人影があった。
こんな場所に人間がいるはずもなく、擬態した何かだろう。ルーシュイが表情を険しくすると、三人のうちの一人、紫の衣を着た白髪の少年が笑った。
「ああ、来たな」
「このヒトがそう?」
白い衣の童女も警戒した目でルーシュイを見る。大きく円らな黒い目だ。
「そうよ。鸞君の護り人ね」
赤い衣の艶やかで美しい女性が童女に答える。
この三人は随分と訳知りのようであった。ルーシュイが目を瞬かせていると、女性は軽くうなずいた。
「願いを叶えるために如意宝珠を求めてこの神山へやってきたそうだけれど」
「はい」
「あなたの願いはそんな大層なものを使うほどのことではないわ」
「え?」
「鸞君の記憶なら、このまま維持できるのよ」
随分とあっさり、その女性は言った。ルーシュイは立ち尽くしたまますぐに言葉を返せなかった。そんなルーシュイに少年が大きく伸びをしながら告げた。
「もとの記憶を呼び覚まさないように細工すればいい。もとの記憶を押し込めて、二度と思い出さないようにすれば、鸞君として過ごした日々の記憶は消えずに残るさ」
「そ、そんなことができるのですか?」
前のめりになりそうなルーシュイを、童女はどこか冷ややかに見ていた。かと思うと、ぽつりと零した。
「その代わり、家族との思い出、全部忘れたまま。もう二度と思い出せないわ」
刺すような言葉だった。
レイレイの朗らかさを見ればわかる。それは大切に、幸せに育ててもらえたのだと。
その家族を二度と思い出さない。育ててもらった感謝もできない。
その代わり、ルーシュイのことを覚えていてくれる。ルーシュイだけのレイレイになる。
いけないだろうか。
大切にするからといって、家族との思い出を捨てさせてるのはいけないことだろうか。
もし、自分ならばどうだ。家族との思い出を引き換えに差し出せるか。
ルーシュイが断腸の思いで決断しても、忘れられた家族は悲しむだろう。レイレイは――思い出せない家族のことに悩んだりはしないだろうか。
その時、ルーシュイはレイレイになんと言って慰められるだろうか。
これは、自分の一存で決めてもいいことではない。
――何も言えなかった。
赤い衣の女性は嘆息した。
「如意宝珠はとても貴重なもの。それこそ命に関わるような問題であればまだしも、そう易々と渡せるものではないの」
ぐうの音も出なかった。
自分たちは不幸ではない。添い遂げられる将来が用意されているのだ。
どこまでも、どこまでもと欲張って身の程をわきまえずここまで来てしまった。
ひとつの望みが叶い、ひとつを失う。
何もかもというわけにはいかないのが現実なのだ。それを、ここ最近が幸せすぎて忘れていたのかもしれない。
「人の身で神山まで来て、嫌な幻も見ただろう? それでもお前はここまで来た。その意気込みは買うがな」
と、少年が偉そうに言った。事実偉いのかもしれないが、十代半ば程度にしか見えぬのだ。
「ユヤンは私たちがほだされると思っていたの? それとも、諦めさせるために来させたの?」
童女がそんなことを言った。狼が困ったようにワフ、と鳴いた。
「どちらかしらね。ユヤンも鸞君に幸せであってほしいと思っているのは本当だと思うわ」
そう返すと、今度はルーシュイに向けて真剣な目をした。
「さあ、私たちはどちらでもあなたの望み通りにするわ。どちらの記憶を残すかは、彼女の夫になるあなたがお決めなさい」
忘れてほしくない。
二人で重ねた月日が消えるなんて、そんなことは考えたくない。嫌だ。
それなのに、ルーシュイは心とは裏腹のことを口にした。
「……鸞君となる前の彼女の記憶を戻してください」
「そうしたら、彼女はあなたを忘れるけれど?」
ルーシュイはグッと手の平に爪を立てて拳を握った。それを痛いとも思わなかったのは、心が痛くて感覚が鈍っているのか、どちらであったのだろう。
「忘れられたくないのが本音です。けれど、だからといって彼女の大事な思い出を踏みにじるような選択をしたら、きっと後悔してしまいます。彼女を尊重した選択をしたいと、今は思います」
自分は嘘つきだ。
後悔なんて、どっちを選んでも同じだ。どっちを選んでも後悔しない日はない。
ただ、レイレイが苦しまないで済むのはどちらか。それが一番大切なことなのだ。
大事にすると誓ったから。
「そう。ならばこのままお戻りなさい」
ふわり、と女性は優しく笑った。少年と童女もどこか目を和らげたように思う。
それならば、ルーシュイは間違えなかったと思いたい。
女性が手をひと振りすると、ルーシュイの視界がぼやけた。白濁した視界の中で覚えているのは、女性の穏やかな声であった。
「記憶というのは、心だけのものではないわ。だから、体にも記憶の欠片が残っていて、もしかすると、いつかは――」




