二十一「試金石」
あれは結局のところ幻であったのか。ルーシュイが願いを叶えるに相応しい力を持つのかをこの神山に試されたのかもしれない。
理由のわからないことをぐだぐだと考えていても仕方がないので、そう思うことにした。
そのまま、また登り始める。空腹は感じなかった。感じた時に休めばいいと、ルーシュイは歩き続ける。狼もそんなルーシュイにつき合ってくれていた。
しばらくすると、辺りが暗くなった。雲間かと空を見上げたけれど、それにしては暗すぎる。急に夜がやってきたような暗さであった。
空を見上げて立ち尽くすルーシュイが我に返った時、そばに狼がいなかった。狼だけではない。小鳥一羽、草木の一本も生えていない。誰もいない、何もない、ただの虚無。虚ろな闇。
足もとさえ定かでない。いつ落ちてゆくのかもわからない。そんな中でもルーシュイは心を強く持った。
レイレイに帰ると約束したのだから、怖いものなど何もない。この約束は必ずだ、と。
けれど、握り締めた自分の手は小さかった。
「え……?」
思わず声を漏らした。その声も幼い。子供に戻ってしまったかのようであった。
「そんな……」
さすがに戸惑うと、ルーシュイの正面に二つの光があった。
その光は人の形となり、懐かしい顔を見せた。
逞しい、大らかな父。美しく、優しい母。
「ダレン」
三つ編みにした金の髪、翡翠のような瞳。その美貌に似合わぬ硬い母の手の平。
差し出された手を、ルーシュイはじっと見つめた。
「ダレン、どうしたんだ?」
長身で引き締まった体躯の父。肩車をよくしてくれた。だから、刈りそろえた黒い短髪の硬さと、その高さから見る見晴らしを知っている。
「わ、私は……」
喉の奥からやっと声を出すと、両親は顔を見合わせて笑った。
「私だって? 随分背伸びをした言い方だな。お前はまだ子供なんだから、子供らしくいればいいんだ」
「そうよ、私たちにもっと甘えて頂戴」
引き裂かれるまで仲のよかった家族。大好きだった二人。
二人がつけた名を、他の誰にも呼ばせるものかと思った。二人が死んで、もう呼ばれることはない。その名前は封印した。今さらそれを引きずり出すのは誰だ。
「と、父さんと母さんは死んだ。だから私はこの国に復讐すると決めたんだ」
幼い舌ったらずな声でやっとそれを言った。すると、二人は顔を見合わせた。
「そうなのか。じゃあ、その復讐はどうなった? 目途は立ったのか?」
そんなことを返されるとは思わなかった。愕然として言葉をなくす。そんな我が子に微笑むと、母も言った。
「あら、私たちの息子ですもの。おめおめと引き下がったりしないわ。復讐は必ずよ」
「そうだな。俺たちが無念のうちに死んだのに、その苦しみを忘れるような子じゃあない。復讐は必ずだ」
父の力強い声が責め立てる。
「それがお前の生きる糧であったはず。それを忘れて生きているなどと言うなよ」
「そうよ。自分さえ幸せならそれでいいの?」
母が悲しそうに言った。答えられない。
足元がぬかるみ、泥の中に沈むようにしてルーシュイの小さな体は落ちた。
落ちた先に待っていたのは、いつかの役人であった。
初めて顔を合わせたというのに、親の仇と憎しみをぶつけてきた。
「北狄の穢れた餓鬼が! ユーシュ様に上手く取り入ったつもりだろうが、そうはいかない。お前はいずれ化けの皮が剥がれて惨たらしく死ぬのだ」
その罵倒を止めてくれたのは、義父であった。そう、かつてはそのはずであった。
けれど――
「大事に育てた私たち夫婦を心の中では嘲り笑っていたのだな。生かしてやっただけでなく、十分な教育と暮らしを与えてやったというのに、やはりお前は獣と同じ――いや、それ以下の恩知らずだ」
いつも穏やかで優しい義父の顔が蔑みから歪む。そのそばに寄り添う義母も上品に口元を隠して眉をひそめた。
「ああ、嫌だ。どうしてこんな子を家に入れてしまったのかしら。早く捨ててしまいましょう」
「私は、恩を忘れてなどおりません! 心が荒んでいた昔は、確かに感じていなかったかもしれません。でも、今は違います。感謝することを教えてくれた人がいたから、こんな私を育ててくれたお二人には感謝しております」
思わずそう告げた。けれど、叫んだ途端に背後に気配を感じた。ハッとして振り返ると、そこには実の両親がそれは恐ろしい顔をして立っていた。
「恩知らずではないと? 血を分けた親が殺されたのに? のうのうと生きているお前は恩知らずではないのか?」
「そうよ。あなたを産む時、それは難産だったのよ。その子が敵の手の内で親子ごっこなんて、馬鹿みたいだわ。あなたなんて産まなくてよかったのよ。そうしたら、私たちも捕まらずに済んだかもしれないのに」
幼い自分は、逃げる二人の足手まといであった。大人二人ならば無事に逃げきれたのだろうか。
「私がいたから……」
ぽつり、と声が漏れた。
その時、人影が増えた。
それは美しい、闇と同じ艶やかな黒髪の乙女であった。
「……あなたはだぁれ?」
にこり、と花のように微笑む。
「私は、ルーシュイです」
子供の姿でそう答えた。けれど、乙女はかぶりを振った。
「ルーシュイ? 知らないわ」
「レイレイ様!」
「レイレイって誰のこと?」
フフ、とレイレイは笑っている。
違う。こんなのは現実ではない。
心が恐れるから、弱い心が幻を生む。
自分はもう、あの時の子供ではない。望むものを手に入れられるように自分を鍛えてきた。
向き合え。打ち破れ。その先に希望が待つ。
ルーシュイは深く息を吸うと、まず両親の方を向いた。
「父さん、母さん」
「何だ?」
父の瞳が闇の中で光るように見えた。ルーシュイはそれでも目を逸らさなかった。
「私の存在は二人がいたこと、想い合ったことの証明そのものです。この血を誇ってこれから生きていきます。それは、復讐に頼らずとも生きていける自分になったからこそのことです。ですから、どうかそんな私の幸せを許してください」
母に、ルーシュイは頭を下げる。
「私を産んでくれてありがとうございます。私もいつか人の親になることができたなら、父さんと母さんが私にしてくれたことを子に返してやりたいと思います」
共にいられた時は短いというのに、ぬくもりをたくさんもらった。そのことを忘れない。
両親の姿が金色の砂になって闇の中に散ってしまった時、ルーシュイは悲しくなった。幻でも会えて嬉しかった。
けれど、死者が蘇ることはない。生者は死者のそばに立ち止まってはいられぬのだ。
いつかの役人の男が薄暗い目をルーシュイに向けている。ルーシュイは静かに言った。
「穢れていると言いたければ言えばいい。それでも私は屈さない。私は私だ。自分の価値は自分で決める」
役人の男の姿が崩れるところをルーシュイは最後まで見守らず、義父母の方へ向き直った。
「父上、母上、こんな私を救ってくださり、ありがとうございます。本来は面と向かって伝えるべき言葉ですが、素直に言えずに申し訳ございません。けれど、いつかは恩返しをしとうございます。ですから、どうか長生きしてくださいませ」
そんなことを言ったら、少し笑えた。年より扱いするなと怒られるだろうか。
義父母の姿もすっかり散ってしまうと、そこにいるのはレイレイただ一人となった。
「レイレイ様」
「わたしはそんな名前じゃないわ」
レイレイは呆れたように言った。
「そうかもしれません。あなたには本来のお名前がございます。けれど、私にとってあなたはレイレイ様なのです」
「何それ? わたし、あなたなんて知らないわ」
他人に接する距離。突き放すような言葉はレイレイらしくない。
記憶をなくすと人格もまた変わるのだろうか。
ふと、弱い心に支配されそうになる。ルーシュイはそれをなんとか押し留めた。
これは現実ではない。だとしても、レイレイが自分を忘れてしまう――現実となり得ることなのだ。
もしそうなった時、自分はどうするのか、その答えを今求められている。
建前ではいけない。揺るぎない気持ちが道を開くのだから。
「もしあなたが私を忘れても、それでも私はあなたを想い続けます」
ルーシュイが一歩進むと、レイレイが一歩下がった。怯えているようにも見えた。その表情に心が揺れる。
「嘘でしょ。自分のことを想ってくれない相手にそんなことができる?」
「できますよ。わたしはあなた以外は欲しくないんです」
手を伸ばした。その手はいつの間にか子供の手ではなくなっていた。武術の稽古で胼胝のできたいつもの手である。
レイレイの姿がサラリと光の粒になって弾けた。その粒が瞬く間に暗い闇を引き剥がした。金色の空を見上げ、風を受けながらルーシュイは思った。
幸せになることへの罪悪感。
こんな自分でいいのかという劣等感。
不安、迷い、恐れ――ルーシュイの心に入り混じったいくつかのものが、ルーシュイを苛んだ。
それをここで捨てていけと、大きな何が語りかけてくれたのかもしれない。




