二十「神山」
レイレイの供ではなく、ルーシュイが単独でユヤンのもとを訪ねるのは珍しい。そんなことを考えつつ、ルーシュイはチュアンと二人、執務室でユヤンを待った。
忙しいユヤンだから、待たされる覚悟はしていたけれど、思ったよりも早く来てくれた。早足であるのに、裾は乱さぬ優雅な歩みであるのがユヤンらしい。
「鸞君護、すべては君次第だ。鸞君のためにも尽力してくれ」
「御意のままに。覚悟はできております」
拝手拝礼したルーシュイに、ユヤンが満足げに笑った気がした。
「一度そこに座ってくれ。詳しく話そう」
「いえ、立ったままで伺いますので、お気遣いなく」
身分の違いすぎるユヤンを相手にそれはさすがに気が引けた。けれど、ユヤンはそんなルーシュイに強く言う。
「いいから、座ってくれ。そうしないと話が進まない」
「……はい。では、失礼致します」
何度も断るのもかえって無礼かと、ルーシュイは素直に座った。ユヤンの執務室はいつも香の香りが漂う。ルーシュイもそれなりに調香を学び、詳しくないわけではないのに、ユヤンの香はいつもルーシュイが当てられるものではなかった。
芳しい、夢見心地な香りである。まるで未知のものだ。
「さあ、君は自らと向き合い、そうして答えを得なければならない。けれど、今の君ならばきっと――」
ユヤンの声がまるで子守歌のように聞こえた。美しい、音色にも似た声。
ルーシュイのまぶたがふと沈む。それをわかっていても、どうしても目を開けることができなかった。
● ● ●
例えるなら、体が溶けて、そうして流れていくような曖昧な感覚がした。
形をなくしたルーシュイは、一羽の鳥になって天に羽ばたく。光の鳥であった。
しかし、光は空に消えた。その空は金色であった。煌めく錦のような空で、ルーシュイは己を見失った。
だからか、次にルーシュイが気づいた時、ルーシュイは光の鳥ではなかった。ただの人であった。
剥き出しの山肌に倒れた体を起こす。
「ここは……」
山だ。ただし、どうやってここに来たのかはわからない。
これは夢か幻か。
けれど、手で岩肌を撫でてみると、ザラリとした砂の触り心地がした。冬にしては雪もなく、寒くない。
ここが神山かと、ルーシュイは感じた。どうやって辿り着いたのか、もう説明のしようもない。ユヤンがなんらかの術を施したのか。それにしては方士でもあるルーシュイでさえまったく察知できなかったけれど。
精神だけがここへ飛んだのかと思えば、不思議と荷物がルーシュイのそばに落ちていた。わけがわからず思考を整理しかかったけれど、それも時を浪費するばかりかと歩き出した。
山は急勾配である。後ろを振り返ってみても山谷に雲が広がるばかりで、ここが山のどの辺りなのかも推し量れなかった。雲があるから麓ではないとは言いきれない場所である。神山が世界のどこに位置するのか、ルーシュイが知りようもない。
まだ歩き始めたばかりで疲れてはいないけれど、ふと気配を感じて振り返った。
振り返った先に白い狼がいた。ルーシュイが立ち止まったら、狼もその場に前足をそろえて座った。尻尾だけがふさりと動く。
「お前……」
ユヤンの飼っている狼に似ていた。いや、似ているのではなく、そのものだ。
「ユヤン様のところの狼か?」
獣が口を利くはずがないのに、語りかけてしまう。それでも、この狼なら人語を解するような気がしてしまうのだ。目が人のように聡い。
ふ、と鼻先を下に向ける。それがまたうなずいたように見えた。
狼と会話しているようで、ルーシュイは思わず苦笑してしまった。
「敵じゃないならまあいい」
背後から襲われることはないだろう。ルーシュイは狼に背を向けて歩き出した。狼はそんなルーシュイについてくる。むしろ、その背を護ってくれているような、そんな気がすると言ったら夢見がちだと笑われるだろうか。
そういえば、ついてきてくれると言ったチュアンはいない。こんな場所だと知っていたら、軽はずみに行くとは言えなかっただろう。それも仕方のないことか。
――いくらか歩いた。
相棒は無言の白狼のみである。喋れば気が紛れるのか、気が散るのか、どちらとも言えないルーシュイにはそんな道連れでよかったのかもしれない。
寒さを感じない神山に防寒を重視した綿入れを着込んで登っているけれど、不思議と暑さは感じなかった。やはりここは精神世界なのかと思ったけれど、試しに腕をつねってみると痛い。
痛覚はあるのだから、精神だけというのもまた違うのかもしれない。
ただひたすら登り続ける。どこまで続くのかわからない山道を。
いつ辿り着けるのか。本当に終わりが来るのか。
見上げても山の頂上は靄がかかったように見えない。
ひたすら。ただひたすら登るのみ。
その末に望みが叶うのなら、この程度のことは苦痛でも何でもない。
足にはしっかりとした感覚があり、徐々に疲労も溜まっていく。
坂道の途中、獣か鳥か、耳障りな金切り声が響いた。
キィ、キィ、金物が擦れ合うような音がルーシュイの頭上にあった。ハッとして空を見上げた時、鋭い鉤爪がルーシュイを襲った。
「っ!」
間一髪で避けたけれど、斜面で均衡を保つことも難しく、よろけて地面に転がった。ルーシュイを襲った凶鳥を、ユヤンの狼が鋭い牙で捉えた。低く唸り、丈夫な顎で鳥の黒い翼を砕く。メリメリと鈍い音がした。
白い狼とは対極の黒い翼であった。けれど、その翼を持つ鳥は、鳥と呼んでいいのかもわからぬようなものであった。剥き出しの白骨に翼だけが生身であるような、そんな不気味な鳥であった。それでも、目だけが黄色く光り、鋭く尖った嘴が忙しなく動く。
呆気にとられたルーシュイだったけれど、ぼうっとしている場合ではなかった。その凶鳥は一羽ではない。空に重なりひしめき合っていた黒い塊が千切れるようにして降る。
ルーシュイは青い房のついた鈴を鳴らした。
ユヤンから授かり、常に身につけているものだ。ルーシュイの意志に反応して方天戟へと姿を変える。三日月ほどに鋭い刃を左右に持つ方天戟をヒュッと音を立てて振るった。凶鳥は空中で急停止したかと思うと、宙を蹴って舞い上がる。
自由自在の動きである。足場が斜面では、いつもほど動けないルーシュイよりもはるかに有利だ。あのような醜い鳥に優位に立たれていることがルーシュイには腹立たしくある。
チッと舌打ちし、方天戟を構え直した。動きづらいのならば動かず、向こうから近づいて来た時に迎え撃つ。気を研ぎ澄ませ、風の流れを読む。
狼は山の斜面であろうとなんの不自由もなく飛び回っては凶鳥を蹴散らしている。あれに負けているようでは、情けなくて戻ってからレイレイに何も言えない。
ふぅ、とひとつ息を吐き、ルーシュイは迫りくる凶鳥に向けて方天戟を旋回させた。禍々しくはあるものの、不死身ではないないようだ。骨を砕く衝撃が手に伝わる。砕けた肋骨の骨をばら撒いて、凶鳥は吹き飛んだ。次々、次々と舞い降りる凶鳥をルーシュイは打ち落とした。ルーシュイの息は上がるけれど、方天戟が刃こぼれすることはない。
これで最後かと、ルーシュイは方天戟を振るった。最後であってほしいと願った。
倒した凶鳥の死骸は気づけばどこにもなく、ただ汗を流して息を弾ませるルーシュイと、どこか優雅に佇む狼だけが取り残されていた。
「……あれはなんだったんだ?」
狼が返事をしてくれるわけもないのに、ルーシュイは思わずつぶやいていた。
この神聖な場所にあの禍々しさ。あんなものが入り込める隙がこの神域にあるとは思えなかった。狼はワフ、とひと声鳴いた。




