十九「見送り」
寒いこの季節にルーシュイが山に登る。神山はレイレイの知る限り常春のようで寒さなど感じなかったけれど、レイレイが行ったのは夢の中でのことで実態ではないから、気温差がわからなかっただけのことかもしれない。
心配は尽きないけれど、ルーシュイは行くと言う。
レイレイの記憶を留めておくことは、ルーシュイ自身のためでもあるからと。
「大丈夫ですよ、レイレイ様。レイレイ様が待っていてくださるのですから、失敗する気がしません」
――その夜、自室でルーシュイは旅支度を整える。支度と言っても、防寒対策に綿入りの袍服、毛織物や手燭、それから干し肉や飯などの食料を麻袋に詰めたくらいである。
見送るレイレイの方が心配で堪らなかった。ルーシュイがあっさりとしているのは、レイレイの前で不安を見せないようにしてくれているからだろうか。
「絶対に帰ってきて。待ってるから、わたしを独りにしないでね」
抱きつくとルーシュイはレイレイの額に一度唇をつけ、そうしてから額を合わせた。
「ええ。安心してお待ちください」
「うん……」
ルーシュイは約束を破らない。帰ると言ったら帰ってきてくれる。
レイレイはそう心の中で唱えて自分を落ち着けた。
そうして翌朝、鸞和宮にチュアンとレアンがそろってやってきた。
「おはようございます」
双子は一糸乱れぬ動きで同時に拝礼した。レイレイはそんな双子にそっと笑いかける。
「おはよう」
顔を上げたレアンはチュアンと目配せし、そうしてレイレイに向き直る。
「私が鸞和宮に残ります。チュアンは鸞君護を案内しますから」
「そうなの? よろしくね、レアン」
「はい」
少し笑ってレアンはうなずく。レイレイはチュアンにも目を向け、そうして言った。
「チュアンもお願いね」
「はい、お任せください」
ルーシュイは荷物を手にチュアンと門を潜る。この鸞和宮の門がレイレイとルーシュイを隔てることが今まであっただろうか。
「では、行って参ります」
「うん、気をつけてね!」
ルーシュイとチュアンが背を向け、歩み出す。その姿をいつまでも眺めていたレイレイにレアンの声がかかった。
「鸞君、外は寒いですから、そろそろ中へお入りください。もう門を閉めますから」
「そうね……」
振り返って数歩進み、それからレイレイはもう一度振り返る。レアンが小さな体ながらに門を閉じ、閂をかけた時、レイレイの心は不安に塗り潰された。
早く戻ってきてほしいと、それだけしか今は考えられなかった。
● ● ●
「……鸞君護」
「ルーシュイで構いません」
「ルーシュイ」
チュアンはあっさりと呼び捨てる。こう見えてチュアンはただの子供ではないし、ユヤンの次官なのだ。ルーシュイよりも位は高い。だからこの扱いも不当ではない。
そうは思うけれど、見た目が子供にしか見えぬだけに多少の引っかかりは覚える。いつもはレイレイがいるから丁寧な対応であるけれど、ルーシュイだけならばこんなものだ。
「鸞君の期待を裏切らぬよう励めよ。私も手を貸すようにユヤン様から仰せつかっているのだ」
「お手伝いくださるのですか? それは心強い」
どの程度の助けになるのかは知らないけれど、いないよりはマシだろう。そんなことを思ったルーシュイの心が読めたわけではないだろうに、チュアンは嘆息した。
本当は行きたくないけれど、仕方がないといった具合である。
「当代の鸞君はよく働かれた。だから今後の生に幸多かれと思うのみだ」
チュアンの言葉に、ルーシュイはほんの少し――いや、とても嬉しい気持ちになった。レイレイが褒められると、我がことのように嬉しい。レイレイの頑張りを知るルーシュイだからそう思うのか、それともレイレイがルーシュイの伴侶となるからだろうか。
わからないながらに、こんな気持ちを抱えた自分を不思議に思いつつも、それが嫌ではなかった。昔の殺伐とした心を忘れてしまうほどの変わりようだ。
この喜びは、独りでは決して味わうことのできないものである。
「ええ、ありがとうございます」
将来の夫として礼を言ったまでであるけれど、チュアンはそれを軽く流した。気が早いと言いたいのかもしれない。
困難はまだ乗り越えたわけではないのだから、浮かれるなというのだろう。
それでも、きっと大丈夫だと思える。レイレイが待っていてくれるのだから、恐れることはない。
そんなふうに思ってしまう楽天的な思考に自分でも苦笑してしまうけれど、今の自分が昔よりも好きだと言える。愛しい人が一人いるだけでこんなにも世界は変わるのだ。




