十七「重ねた月日」
ルーシュイと夫婦になりたい。
それがレイレイの望みである。シージエはそれを祝福してくれた。
皇帝であるシージエがよいということに、何故ユヤンは難しい顔をしたのだろう。レイレイは急に不安になって口早に問うた。
「あ、あの、いけないのでしょうか?」
すると、ユヤンはふと表情をゆるめ、かぶりを振った。
「ああ、すまない。そういうことではないよ。彼になら安心して託せる。もちろんそれはよいことであると私も思う。ただ――」
ただ、とそこで言葉を切ったユヤン。
レイレイの背後にいるルーシュイが今、どんな表情と心境でいるのかが背を向けているレイレイには伝わらない。
「その含みのある言い方はなんだ? 何か問題でもあるのか?」
シージエまで怪訝な顔をする。ユヤンは軽くうなずいた。
「ええ、少しばかり。……陛下が帝位に就かれて鸞君に就任したのは彼女のみですから、陛下はまだ詳しくお知りではないのですよ。任期を終えた鸞君はほぼ、後宮に入りました。けれど、後宮でお生まれになった陛下も、その鸞君であった女性が誰であったのか、おわかりではないでしょう?」
「さあ? 女性の数はかなり多いし、そんな話をしていた人はいなかったから」
気安く口にしていいことではないと、守秘義務があるのだろう。それも仕方がないことではある。レイレイは生涯、秘密を抱えて生きてゆくのかもしれない。
ユヤンは静かに息をつく。
「そうでしょう。語れなかったのですよ」
「口止めされていたわけだな?」
すると、ユヤンは滑らかな髪を揺らして首を振った。
「いえ、彼女たちは鸞君であった当時を覚えていないのです」
「え?」
気心が知れているとはいえ皇帝の前だというのに、レイレイは思わず声を上げてしまった。そんなレイレイを刺激しないようにか、ユヤンはゆっくりと語る。
「鸞君になった時に失った昔の記憶が戻るのです。それと入れ替わるようにして、鸞君であった時の記憶を失います」
記憶を取り戻し、記憶を失う――
『レイレイ』という、ルーシュイがくれた名前で過ごした日々が消え、本来の名前を取り戻すのだ。
そんなことをレイレイは少しも考えていなかった。
ルーシュイと過ごす日々が幸せで、生まれ育った家のことも親のこともすべて忘れているのに、それに罪悪感を持たなかったレイレイへの罰だろうか。
胸元に置いた手がどうしようもなく震える。
鸞君の任期を終えれば、ルーシュイと幸せに過ごせると思っていた。それは身勝手な願いだったのか。
だから、最愛の人を忘れるという罰が下るのかもしれない。
茫然自失のレイレイに、ユヤンはそれでも優しく問う。
「この時が来るまでにと文献等を調べてみたけれど、鸞君の記憶が消えずに残ったという特例のひとつもない。目覚ましい貢献をしてくれた君にしてやれることがないのは、私としても心苦しいのだが……。彼のことを忘れてしまうけれど、それでも君を彼の妻にしよう。それだけは約束する」
ルーシュイを覚えていないレイレイは、もう一度ルーシュイを愛しく思うことができるだろうか。自分を知らない状態のレイレイを、ルーシュイは好きでいてくれるだろうか。
考え出すと不安ばかりで、ろくに返事もできなかった。
そんなレイレイを通り越し、ユヤンはルーシュイにも声をかける。
「すまないが、そういう事情なのだ。君には鸞君に関しての守秘義務はもちろん発生するのだが、鸞君護をやり遂げた後に昇進が待つ。陛下より彼女を下賜されたという名目で君の妻にするが、それでいいだろうか」
「ありがとうございます。必ず、生涯大切に致します」
ルーシュイは躊躇いなくそう言ってくれた。それだけで涙が溢れそうになった。
鸞和宮に戻るまではとレイレイは自分なりに気丈に振る舞ったつもりであった。けれど、どこをどう歩いて牛車まで向かったのかを思い出せない。狭い車の中、ルーシュイと二人きりになると、レイレイは堪えきれずに涙を流した。嗚咽が喉の奥からせり上がり、口を押えても零れ落ちる。
そんなレイレイを、ルーシュイは無言で抱き締めてくれた。今はどんな言葉よりも力強い腕がレイレイの心を落ち着けてくれる。
それでも、そのルーシュイのことを、共に過ごした日々を忘れてしまうのだ。
忘れたくないと願ったところで、自分の意志だけではどうしようもないのか。
牛車が鸞和宮に着き、レイレイは泣き腫らした顔でうつむいて宮に入った。しゃくり上げるレイレイをルーシュイが背後から包み込み、耳元でそっとささやいた。
「レイレイ様。レイレイ様が覚えておられずとも、私が共に過ごした日々を覚えております。どうか、そう悲しまないでください」
そんなことを言ってくれた。けれど、その声があまりに切なかった。
レイレイは悲しくて、自分のことしか考えられていなかった。苦しいのは、忘れた方よりも忘れられた方なのではないかと、この時ようやく気づいた。
ルーシュイは自分の苦しみを隠し、レイレイを慰めてくれている。
大好きなルーシュイのことを本当に忘れてしまうのだろうか。強く願えば覚えていることができないものだろうか。
諦めてはいけない。
ふつふつと、そうした気持ちが湧いてきた。
忘れたくないのならば、諦めてはいけない。
レイレイはルーシュイの腕の中で振り返ると、ルーシュイの背に腕を回して強く抱きついた。
「わたし、頑張るから! 忘れないように、覚えていられるように頑張ってみる!」
そんなことはできないのかもしれない。気持ちを強く持ったところで、それはレイレイのようなちっぽけな存在には無理なことかもしれない。
それでも、ほんの少しでも望みがあるのなら、それにすがりたい。
「ありがとうございます、レイレイ様」
そう言って、ルーシュイはレイレイの存在を確かめるようにして口づけた。レイレイのせいで涙の味がした。
こんな些細なことさえ、レイレイにとっては宝物であるのだから、覚えていたい。
忘れない、と強く念じた。




