十五「目覚めて」
ハッと、痙攣するように目を覚ました。そんなレイレイの手を握り締める、ルーシュイの手のぬくもりを感じる。
「レイレイ様……」
ほぅ、と吐息を漏らして呼びかけるルーシュイの手をレイレイも握り締める。身を起こすと、その手を一度放してルーシュイの首に腕を回した。
「やっと悪夢が終わったのね」
ギュッと、力強く抱きつくレイレイの背をルーシュイも抱き締めた。耳元でそっと声が返る。
「よくご無事でお戻りくださいました」
「うん……」
室内の、ほのかな灯燭の灯りは遠く、お互いを照らすでもない。暗がりの中、ルーシュイはレイレイの髪を何度も撫でた。
「レイレイ様のお体が一度、とても冷たく、魂と魄が分かたれたかのように感じられて……。それがひどく恐ろしく、早々に呼び戻してしまいたい衝動が湧いて、気が気ではありませんでした。けれど、レイレイ様を呼び戻しては問題が解決できないことも承知で、祈りながら耐えました。レイレイ様の御手があたたかさを取り戻され、一度指を動かされましたので、目覚めが近いと思われたのですが……」
「そうなの? うん、今回はただ夢を見たのとは違うから」
ユヤンと共に神山へ出向いた。あれは意識だけのことではなく、魂ごとそこにいたのだろうかという気がした。
「でも、やっと終わったから。後はユヤン様にお任せしたの」
レイレイはルーシュイに包まれながら夢のことを語った。こうして語れるのだから、やはり伯奇は退治され、夢を食い破られることはなくなったのだろう。
ルーシュイはレイレイが語り終えるのを待ち、そうしてからため息をついた。
「裏にはさらに裏があり、見えないところで繋がっている……。恐ろしいものです。私もレイレイ様がいらっしゃらなければそちら側にいたのかもしれませんが」
ルーシュイの言葉にレイレイは驚いた。そんなはずはない、と。
「そんなことないわ。ルーシュイが抱いていた復讐心はユエディン様とは違うもの。ルーシュイはね、家族を引き裂いた国に復讐してやるって思いながら、それでも目の前で自分と同じような境遇の子供が泣いていたら、手を差し伸べたと思うの。何をしても心を痛めていなかったユエディン様とは違う!」
「……レイレイ様がそう仰ってくださるから、私は底なしの悪夢から抜け出せたのです。ユエディン様には救いがなかったのですね。同情の余地があるとは申しませんが、あれほどの才能を持ったお方ですし、残念なことです」
どれほど複雑な術を扱ったところで、人を害するだけのものならば価値はない。その知恵も違う方に働かせれば、どれだけの人を幸福にできただろうか。
認められず、選ばれず、悲しかった。本心はただそれだけのことであったのかもしれない。そんなことをぼんやり思った。
● ● ●
その晩、ジュファは眠り続ける皇帝のそばにいた。幾夜こうして過ごしただろうか。
術者たちが見守る中、ジュファは皇帝の最も近い位置にいた。それはジュファが皇帝の妃であるからだ。他の妃たちは呼ばれていないけれど、一番位の高い貴妃であるからこそ、皆の代表としてこの場にいられるのだろう。
ジュファは今、そのことに感謝していた。
入内の時は嫌で仕方がなかった。それなのに、ここ一年、この皇帝と過ごすうち、ジュファにとってこの皇帝はかけがえのない存在となった。少年のように瞳を輝かせ、国の未来を語る。その情熱に惹かれた。共に語れることに喜びを見出した。二人で過ごす時間を至福だと感じた。
もし万が一、皇帝に何かあったら、貴妃であるジュファは若い身空で尼寺へ入ることになる。けれど、皇帝がいないのならば俗世に未練もない。そんなふうにも思えてしまう。
いや、この世にたったひとつの心残りがあるとすれば――
その時、皇帝の寝室に尚書礼のユヤンがやってきた。半仙であるユヤンだけが皇帝に起こった不可解な現象を取り除くことができるとジュファは信じている。それから、レイレイも。
「貴妃様、元凶は取り除かれました。陛下はじきに眠りから目覚められるかと」
その言葉がずっと聞きたかった。耳からじわりと染みた声が頭を痺れさせる。目の奥がカッと熱を持ち、自然と涙が零れた。
「ありがとうございます……」
涙を零した後、ジュファは意識を失った。眠り続ける皇帝のそばで、ジュファは裏腹にほとんど眠ることができなかった。そのつけが一気に押し寄せてきたのだった。
運び出されたジュファが丸一日眠り続けてしまったのだと知ったのは、空白の一日の後であった。
女官たちに無理を言って身支度をさせると、ジュファは覚束ない足取りで後宮を抜け出した。本来ならば許しもなく出歩いてはならないけれど、今だけは品行方正な貴妃を演じてはいられなかった。
息せき切って皇帝のもとへ辿り着くと、ユヤンが戸の前で貴妃を招き入れてくれた。貴妃と入れ違いにユヤンが外へ出る。
「陛下も貴妃様もまだお体が万全ではございませんから、あまり長話はなさいませんように」
「え、ええ、ありがとうございます」
単身、はやる気持ちを抑えて皇帝の横たわる寝台へ近づいた。すると、憔悴した色がかすかに残りつつも、目に光を取り戻した皇帝がジュファに苦笑を向けた。
「ジュファ、心配をかけたな」
声が聞けた。それだけで涙があふれた。これほど泣いたことが今まであっただろうか。
息が詰まって声にならない。無言で涙を流すジュファに、皇帝は続けた。
「私はまだ若いのだから、時間はいくらでもあると思っていた。けれど、人生とは何が起こるかわからぬな」
はは、と乾いた笑いを浮かべる。ジュファはそんな皇帝に一歩ずつ近づいた。
その顔を皇帝が見上げる。
「こう生命の危機に陥ってみると、私はこの世に何を残せただろうという気になった。やり残したことが多すぎて、これでは後悔しか残らない」
ジュファは涙を拭きながら寝台の横に膝を突いた。目線を合わせると、皇帝がジュファの手を取った。優しくではなく、むしろ力強く手に力が込められる。
ジュファの胸が痛いほどに高鳴った。
「ジュファ、君は聡明でいて心優しい。そんな君が私の子を産んでくれるのなら……と、そんなことを思い始めていたと言ったらどうする?」
「陛下?」
この皇帝がそうしたことを口にしたことにジュファは驚きを隠せなかった。眠りすぎてどこかに異変が生じたのかと思うほどだ。
けれど、皇帝は真剣であったように思う。眉根にギュッと力を込め、そうしてジュファを見据えている。
「子供は国のために生まれ、生きるのではない。それでも、重たいものを背負わせてしまう。苦労の多い人生になるだろう。それを承知で、いつか私の子を産んでくれるか?」
あまりに真剣に言うから、ジュファの方が笑ってしまった。皇帝の手に触れ、そっと微笑む。
「わたくしは、陛下の妃でございますから、もとからそのつもりでおそばにいるのですよ。それが叶わなければ、わたくしもこの世に未練を残したまま朽ち果てていくだけなのです」
それは、自らの安泰のためでも実家の繁栄のためでもない。愛しい人の子だからほしいと願う、ただそれだけのこと――
しかし、皇帝の妃はジュファ一人ではない。いつまでも寵愛を独り占めにできるとは思わない。
それでも、今は言いようのない幸福感に包まれて、涙は止まるどころか続けて流れた。
そんなジュファに皇帝は満足げに笑った。
「ユヤンが、世継ぎが生まれたら後宮の縮小を検討してくれるらしい。私にはジュファがいればいい。けれどそれでは他の妃たちが可哀想だから」
「まあ……」
本気でそんなことを言っているのだろうか。この皇帝は本気でなければ言わない。それくらいはもうわかっている。
ただし、先のことはわからない。それでも、今は皇帝のその言葉を素直に受け止めた。
二人でこの国の未来を作っていけたら、と――




