十四「伯奇」
レイレイが飛んだ場所は、雲ほどに濃い靄のかかる場所であった。
これが誰の夢であるのか、レイレイの中に答えはない。けれど、神鳥たちの力を借りてきたのだ。ここはシージエを害している犯人の夢だと考えるべきだろう。
夢の中にはぽつりと一人の男が佇んでいる。長い髪を束ね、寛いだ姿でいるけれど、衣服の布地ひとつ取ってみても裕福な家柄のようだ。
レイレイにとっては、知らない顔であった。
つるりと滑らかな顔で、癖は少なく知性を感じさせる。際立って美しいというわけではないけれど、身だしなみには気をつけている様子だった。
二十代の半ばくらいだろうか。
その顔を見た途端、ユヤンとの会話が思い起こされた。そう、言われてみるとかすかにといったところであるけれど、ほんの少しシージエと似たところがある。そう思った時、おのずとこの男の正体が見えた。
「……ユエディン様ですね?」
男は鋭い目でレイレイを睨んだ。
「いいや、私はジエンという者だ」
その名は表向きの名だろうか。ユエディンという名は皇族としての名であるのかもしれない。
もしくは、レイレイを惑わせるための偽名とも取れる。だからレイレイは彼の名にこだわることをやめた。
「あなたは東淵領の領主様ですね?」
その問いかけにユエディンは答えなかった。レイレイを軽んじた目を向けているだけである。
「そこまで突き止めたと。その入れ知恵はユヤンか? 何を訊いても構わないが、君は目覚めてそれを覚えていられるのかな?」
ユエディンのその発言で、ユヤンの推測が当たっているのだと感じた。
伯奇という生き物の存在が確かなものとなる。皆、その伯奇を仕留めるのに時間を稼げと言った。だからレイレイはユエディンにわざと問うた。
「それはどういう意味ですか?」
レイレイに、ユエディンは歪んだ笑みを見せた。
「君と私がこうして夢で語らうのは何度目かな。君は覚えていないだろう?」
「それは……」
覚えていない。夢で出会っていたというけれど、レイレイにはわからない。
ユエディンはそんなレイレイを嗤った。シージエに少し似ていると思ったことすら嘘のように、その笑顔は少しも似ていなかった。
「無駄だ。今度もまた覚えてなどいられないだろう」
「……陛下にかけた術を解いてください」
「何故君に言われたくらいで解くと思う? あの術には膨大な金がかかっている」
「お金? 術者に支払ったということですか?」
「いいや、術をかけているのは私だ。その呪法を宗星国より金で買ったまでだ」
「その代金はどうやって工面したというのですか?」
「どうやって? 売れるものはいくらでもある。足りなければ調達すればいいだけだ。北狄だろうと南蛮だろうと、売って奴隷にすればいい。元手はタダだからな」
人身販売組織に捕まった北の草原の少女。あのフェオンが捕まった組織は、このユエディンが絡んでいるのか。
「人身販売で稼いだお金で陛下を呪詛したと仰るのですか? 最低ですね」
最低だと、それ以外の言い方が思い浮かばない。強い言葉で糾弾する。けれど、ユエディンはレイレイに何を言われても痛くもかゆくもないといった涼しい顔をしていた。
「弱者は強者の食いものになるべく存在する。君もだ。これから帝位に就く私に、夢の中とはいえ小生意気な口を利いた君にも、いずれ現で再会した時、あの時すんなり死んでいればよかったと思うほどの屈辱を与えてやろう」
ユエディンはぞっとするほどの粘着質な目をした。実態ではないというのに、レイレイの脚が震えた。
けれど、頭の中はどこか冷静でもある。神鳥たちやルーシュイに護られているという意識があるからだろう。
「あ、あの時とは……?」
「目覚めてすぐ、殺されかかっただろう? あの時のことだ」
それは、シャオメイに殺されかかったことを差しているのか。
だとするのなら、何故それをユエディンが知り得たのだろう。そのことに背筋が凍った。
「どうしてそれを知っているのですか?」
頭の芯が痺れるような感覚がした。今ここで冷静さを失ってはならない。わかっていても焦燥が沸き起こる。
ユエディンはくすりと笑った。
「どうして、と。それは私が裏で糸を引いていたからだ。そう、この東淵領の元領主を使ってな」
元領主――グオチュイのことだ。
何も覚えていない彼は、ユエディンの傀儡にすぎなかったというのだろうか。そんな可能性をレイレイはこの二年、考えたこともなかった。
人の意識を乗っ取ることができるのならば、捕縛された組織の男たちを廃人にしたのもユエディンだ。きっと、彼らはユエディンの顔を知っていたのだろう。
ユエディンはくつくつと笑う。
「鸞君を殺したところで地方の領主が利を得ることなどない。鸞君を入れ替えるなど不可能だ。そんな浅はかな企てをしてどうする? 実のところ、私はこの東淵領がほしかったのだ。宗星国のそばにあるこの地に拠点を移すため、前領主を失脚させたかった。鸞君があっさりと死ねば儲けものだが、あんな計画とも呼べぬものを実行したところで頓挫するに決まっているだろう。そんなことにも気づかず、前領主を首謀者としたのは君の未熟さだな」
レイレイはあの時、見たままのことを信じた。グオチュイも操られているという可能性まで辿り着くことはできなかった。
「少々の術はもとより学んでいたが、転機が訪れたのは宗星国に忍んで向かった時のこと。そこで私は鸞君に対抗する力を得た。そうして、ついにこの地で呪法を完成させたのだ」
愕然とするレイレイに、ユエディンは得意げですらあった。世界を抱え込むように両手を広げた。
「い、今の話をユヤン様たちに報告します。あなただってユヤン様には敵わないはずっ」
すると、ユエディンは恍惚とした表情を消し、不愉快そうにゆっくりとレイレイを見た。
「愚かな娘だな。君はこの夢を覚えていられないと言っているだろう?」
怖い。間違いなく、この男は恐ろしい人間だ。
けれど、レイレイはこの男には絶対に負けたくないと強く思った。
怯える自分を叱責し、顔を背けることをしなかった。
「いいえ、覚えて戻ります! 必ず!」
ユエディンが軽く舌打ちをした。しかし、またうっすらと笑みを見せる。
「アレには世継ぎの子がない。つまり、アレが死ねば私の他に正当な血筋の者はおらぬ。その私をユヤンが軽々しく罰することなどできようものか」
「陛下はこれからご回復なさいます! あなたなどにこの国が治められるはずがございません!」
はっきりと言い放ったレイレイに、ユエディンの苛立ちが募る。面持ちからそれが嫌というほど伝わった。
「この小娘が――」
その時、夢の靄に割れ目ができた。その割れ目から光が差した時、そこから現れた人たち自身が発光しているかのように、皆輝いて見えた。それはユヤンと三神鳥であった。さすがにユエディンも驚いてとっさに声もない。
「すまない、伯奇退治に手間取ってしまってな。けれど、声は聞こえていたよ。よく頑張った」
と、ユヤンは苦笑する。そこから、レイレイに向けた優しい顔とはまるで違う、凍てつく冬のような目をユエディンに向けた。
「あなたの自分本位な野心がこの国の害となると、先帝陛下もお気づきだったのですよ。欲張らず、生かされているだけで幸いだとお思いになれたのなら、もう少し幸せな人生もあったでしょうに」
「ふ、ふざけるなっ」
レイレイと相対していた時とは違い、ユエディンは明らかに気圧され始めた。ユヤン一人でも纏う気が常人とは違うのに、三神鳥が背後に控えているのだから無理もない。
ユヤンは冷淡に吐き捨てる。
「ふざけてなどおりませんよ」
そこで鸑鷟が何かをユエディンの前に投げたように見えた。手を使ったわけではない。手を振って何かをそこに出現させたのだ。
それを見た途端、ユエディンがヒッと声を上げた。
「鳳凰がやりすぎるから、こんなになった」
「あら、私のせいだと言うのかしら?」
鳳凰が鼻白む。ユエディンの目の前に投げられたのは、焼け焦げた毛皮に見えた。毛皮だけではなく、丸太のような肉がついている。夢の中だというのに、焼けた匂いが漂ってくるようであった。これが退治したという夢を食う獣なのか。あれが脚だとするのなら、熊のように大きな獣であったのだろう。
レイレイが眩暈を覚えると、リィンと鈴の音が鳴った。その音にレイレイは心から安らぎを感じた。
ユヤンたちにもその音が聞こえたようだ。
「ありがとう、鸞君。こうしてユエディン様の自白も聞けたことだ。君はもう戻って今晩はゆっくりと休むがいい。後始末は私がする」
言葉はレイレイを労わってくれていたけれど、ユエディンには厳しい結末が待っているのかもしれない。けれど、大事なのはシージエだ。犯した罪で身を滅ぼすのは、ユエディンが招いた結果である。
後味は悪くとも、そう思うよりなかった。
「ありがとうございます、ではひとまずお先に失礼致します」
そうつぶやいた直後にレイレイの意識は現に戻っていた。




