一「ルーシュイは完璧主義」
シャオメイの命を救うため、レイレイは彼女を逃がすという選択をした。ルーシュイにはそれが馬鹿げたことに思えたかもしれないけれど、ルーシュイなりにレイレイの意志を尊重してくれたようだ。
早朝の鸞和宮。その入り口の十字橋の上でレイレイはシャオメイが確かに去ったのだと、それを感じていた。この広い宮の中で更に人が減ったのは、やはり寂しい。
その心がレイレイの顔にも表れていたのだろう。それでも、ルーシュイは慰めの言葉など口にしなかった。
「……方術で目眩ましをしましたから、しばらくは彼女が見咎められることはないと思います。ただ、城市を離れた後のことまでは知りませんよ」
そんなことを言われた。城市を発った後、賊に襲われたり、悪徳領主の追っ手に狙われたり、それを助けるまでの面倒は見ないと。
だとしても、あそこで刑部に突き出されるよりはマシなことだと思った。
「鸞君が法を曲げるなんてと思ってる? でもあれはシャオメイの罪じゃないとわたしは思うの」
「レイレイ様がそう仰るのでしたらそれで結構です。ただ、女官は要らぬと申された以上はご自分のことはご自分でお願い致します。何分私ではお着替えや湯浴みの介助はできかねます」
淡々と真顔で返された。
やはり、怒っているか呆れているのかのどちらかなのではないかと思ってしまう。
「わ、わかってる。じゃあ着替える!」
「本日は皇帝陛下に拝謁する大切な日。くれぐれもよろしくお願い致します」
このドタバタですっかり忘れていたなんて言ったら更に呆れられそうだ。
レイレイは笑ってごまかすと居室へと引っ込んだ。
すでにルーシュイに寝衣姿を見られるのが平気になってしまっている。一緒に暮らしているのだから、家族のようなものだと言ってしまえばそうなのかもしれない。
部屋へ戻ると、シャオメイの几帳面な仕事の名残がそこかしこにある。
レイレイは行李から数着の衣を引っ張り出した。何色が自分に似合うのかはよくわからない。けれどとても惹かれる色合いのものがあった。
空のような爽やかな青色。裳は藍色にした。シュルシュルと衣を脱ぎ、着込む。シャオメイの手さばきを見ていたのだからこれくらいはできる。
鏡台の前で後ろを向いた。おかしくない程度には着られたと思う。髪はどうやって結ったらいいのかわからないのでそのままにした。
シャオメイが結ってしまうのは惜しい髪だと言ってくれたから、きっと大丈夫だ――と思ったのだが、居室を訪れたルーシュイはわかりやすい表情を作った。
「レイレイ様、そのお髪で謁見なさるおつもりで?」
「え? 駄目?」
深々と嘆息されてしまった。
「もっと身なりに気を使われた方がよろしいかと」
使っていないわけではない。そう言われるのは心外だ。
ルーシュイはレイレイを鏡台の前に座らせた。
「失礼致します」
そう断ると、レイレイの髪に触れた。長い指を器用に動かして黒髪をまとめる。後ろに流す髪と上げる髪を分け、結った髷に珠の連なった釵を刺す。ルーシュイにそんなことができるとは思わなかったので、レイレイはきょとんとしてされるがままだった。
髪を仕上げると、ルーシュイはレイレイを立たせた。
「こちらを向いてください」
「あ、うん」
「この結びもおかしいですよ」
腰紐をシュッと解いて結び直された。それも一瞬のことである。
「さあ、朝食に粥を用意しましたから出かける前にお召し上がりください」
ルーシュイは淡々と言うけれど、レイレイは目を瞬かせてしまった。
「誰が作ったの?」
「レイレイ様でなければ私しかここにはおりませんよ」
良家の子息が厨に立つ機会などあったのだろうか。
半信半疑で広間に向かうと、机には瓦燉盆(土鍋)が置かれていた。席に着いたレイレイにルーシュイは瓦燉盆の蓋を開けると艶のある粥を取り分け、彩り豊かな薬味を散らして差し出してくれたのだった。米の甘い香りと湯気が立ちのぼる。
「どうぞ」
粥に添えられた湯匙(蓮華)がカチャリと鳴る。
「いただきます」
ふぅふぅと粥を冷ましながら頬張ると、さっぱりしているのにコクがあって美味しかった。
「美味しい!」
素直に褒めたのに、ルーシュイは喜ぶでもなくさらりと流した。
「それはようございました。ただ、ゆっくりとお召し上がりになっている暇はございませんよ。お急ぎください」
レイレイはうう、と唸りながら粥を食べ続ける。ルーシュイは優雅な仕草でレイレイが食べ終わるよりも先に食べ終えた。そうして空いた椀を手に席を立つと、すぐにまた口湯杯(湯呑み)を手に戻ってきた。ふたのついた口湯杯をレイレイのそばに置く。翡翠のような色合いがとても綺麗だ。
「茶です。シャオメイほど手間をかけてはいられませんが」
動きに無駄がない。レイレイは感嘆してルーシュイを見上げた。
「ねえ、ルーシュイはどうしてそんなになんでもできるの?」
「なんでもできるようになろうと思ったからですよ」
淡々と返されたけれど、なろうと思ってなれるものではない。涼しくこなしている風に見えるルーシュイは、実は人一倍努力家であるのかもしれない。
「そうなの? すごいね」
けれど、ルーシュイは苦笑するばかりだった。
「では私も支度して参ります」
そう言って下がった後、すぐにまた戻ってきた。その時、ルーシュイは凛々しく官服を着こなしていた。藍色の深衣に豪奢な鳥の刺繍がある。あの神々しい鳥は霊鳥なのだろうか。長い裾を卒なく捌き、ルーシュイはレイレイの使った食器も厨に下げた。
何やらレイレイの決断がルーシュイの負担を増やしてしまったという気になる。今後、皿くらいは自分で洗おうと心に決めた。