十一「迎え」
それでもルーシュイはいつものごとく朝餉の準備に取りかかった。レイレイに付き合ってここ二日間ろくに眠っていないのだから、少し休んでからでいいと言うのに、本当に手を抜けない人だ。
レイレイも身支度を整えて部屋を出る。
すると今日も廊下に狼がいた。レイレイはその頭を撫でる。
「もうすぐあなたのご主人様がお迎えに来るわね。でも、また会えると嬉しいわ」
しかし、狼はレイレイとの別れなどなんとも思っていないのだろう。それどころか、主であるユヤンに会えるのだから嬉しいはずである。レイレイの言葉にも無反応であった。
いつものごとく朝餉の粥を囲むと、湯気の向こうのルーシュイが少しばかり気まずげに目をそらした。けれどもう理由がわかっている。だからむしろそんなルーシュイの様子を笑って眺めていることができた。
そうして朝餉が済んでしばらくすると、ユヤンがやってきたのである。美しい微笑をたたえ、鬱金の衣を纏った神々しい姿である。
「二人とも、世話になったね。ありがとう」
駆け寄ってきた狼の頭に手を置き、狼と目を合わせることで意思の疎通をするように見えた。狼は落ち着き払い、ぴしりとユヤンの背後に座って待つ。
ユヤンは宮の内部には入ろうとしない。立ち話になってしまうけれど、勧めてもいつも足を踏み入れないのだ。忙しい人なのだから仕方がないのだろうけれど。
レイレイは素早く夢の話をユヤンにした。ユヤンは神妙にうなずきながら話を聞いてくれた。
「そうか。いかに鸞君の力で諸所を見通すことができたとしても、すべての人を救うことができるわけではない。それもまた現実だ」
「はい……」
どうあっても救えなかったのか。けれど、とレイレイは顔を上げた。
「それでも、少しでも多くの人の助けとなれるよう、今後も精進致します」
そう言って拝礼したレイレイに、ユヤンは少し驚いたふうでもあった。事実、レイレイ自身が自分の言葉に驚いた。
あの夢は恐ろしく、あの直後は眠ることすら二度とできないのではないかと思えた。
けれど、そばにルーシュイがいて、至らないレイレイを支えてくれるなら、まだ頑張れると感じた。
恐ろしさは消えないけれど、だからといって何もしないでいることを選んではのちに後悔もするだろう。逃げることはいつでもできる、あと少し、と――
「そうか。今までの君の頑張りが人を救ったことも事実だから。自分を大切にすることを忘れず励むように」
「ありがとうございます」
ユヤンの言葉がじんわりとレイレイの胸に染み入る。頭を下げたままのレイレイの頭上を通り越し、ユヤンの声が後ろのルーシュイにもかけられる。
「鸞君護、君も大変だっただろう」
「いえ……」
短くルーシュイはそう返した。いつも訳知り顔のユヤンだから、ルーシュイは今回のことを気まずく思うのかもしれない。さすがに顔を合わせただけですべてを察したりはしないだろうけれど。
「では、私は戻るよ。陛下には一度ご挨拶に伺ったけれど、まだ話さねばならないことも多くあるから」
ディンシャンのことは未然に防げなかった以上、もうユヤンが関わることもない。刑部の管轄である。あの子供も憐れではあるけれど、減罪も難しいだろう。かといって、罪を犯した以上、この先の人生をそれを背負って生きて行くのもまたつらいことである。
せめてその魂が救われたらいいと、そんなことしか祈れなかった。
「はい、陛下によろしくお伝えください」
ユヤンはそんなレイレイの心も見通したように微笑んで鸞和宮を後にした。その背中をあの狼がつき従い、一度だけレイレイたちの方を振り返った。
その目が少しだけ気づかわしげに感じられたから、レイレイは狼に感謝を込めて手を振った。次なる再会を願いつつ――
● ● ●
ユヤンは牛車の屋形に狼を乗せ、そうして邸宅まで戻った。ほんの数日留守にしただけの邸宅は、これといって変わりもない。
「ご主人様、おかえりなさいませ」
いっせいに首を垂れる使用人たちの間を抜け、ユヤンは狼を連れて一度自室へと向かう。そこに次官のレアンを待たせてある。
ユヤンと狼が室内の敷物を踏み締めて中へ入ると、レアンは振り向いて一度ユヤンに拝礼した。そうしてから、つり上がった目を狼に向ける。
「いつまでその恰好でいるんだ?」
そう呆れ声で言われ、狼は鼻面に皺を寄せた。そんな二人をユヤンは笑って眺めている。
「まあ、その姿の方が落ち着くのはレアン、お前も同じだろうに」
ユヤンにそう言われ、レアンは心外だとばかりにかぶりを振る。
「下界に来てもうずいぶん経つのです。今さらそんなことはございません」
そうして狼に向かって言う。
「チュアン、もういいだろう?」
狼――チュアンの体は光をまとうと、その光が消える頃にいつものおさげ髪をした子供、レアンの片割れに戻った。チュアンは軽くかぶりを振る。
「お前こそ陛下のおそばでのうのうとしていただけなんじゃないのか。偉そうに」
レアンの顔がカチンと歪む。
「ユヤン様の命に文句をつけるのか、お前は! お前こそ鸞君に撫でられてデレデレしていただけだろう!」
まるで見てきたようにそんなことを言う。チュアンはムッとした。
「鸞君はその職務から心労の多い娘だから、はたで見ていても気の毒なばかりだった」
それを聞くと、レアンの怒りも萎んでいく。ユヤンもふぅ、と嘆息した。
「そうだな。ひたむきな娘だから、苦労も多かろう。任期はまだあと少しあるから、その心労は当分続く」
だからこそ、ユヤンは最も信頼する次官たちを皇帝と鸞君のところに分けて出かけたのだ。
この双子ももとは仙界の者であり、半仙のユヤンが仙界で過ごしている時からの付き合いである。ユヤンが人間の世に興味を持ち、関わることを決めた時もそのままつき従ってきたのだ。ただ、こうして下界でも人型をとり、話せるようになったのは数十年前からだっただろうか。
この二人ならば、いざよからぬことが起こった場合、ユヤンがどこにいようと素早く知らせることができる。皇帝も鸞君も大きな脅威にさらされることはなかったようで何よりであったけれど。
チュアンは小さくため息を漏らす。
「それからあの鸞君護、ただの動物じゃないかもしれないとか、勘がよすぎてヒヤヒヤしました」
「ああ、彼は優秀だからねぇ」
と、ユヤンは軽く笑ってみせる。それからレアンの方に目を向けた。
「ところでレアン、陛下は毎晩貴妃様のもとへお渡りになっておられたのか?」
「はい。毎晩琵琶をお聴きになり、かなり白熱されたご様子で弁論を繰り広げておられましたが」
「ご懐妊まではほど遠いと?」
「今のところはまだなんとも……」
のん気なものだと頭が痛い。けれど、焚きつけたりすれば逆効果なのは目に見えているのだ。ここは貴妃がなんとかしてくれることを願いたい。
落胆しつつ、しかしあの皇帝が後宮に向かうようになっただけ進歩だと思うことにした。
皇帝と鸞君、あの輝きを放つふたつの星が交わったとしても、それ以上の輝きになることはない。けれど、鸞君があの鸞君護と共にあれば、あの鸞君護は鸞君の光を引き継ぐようにして輝き続けるようになる。
そうした将来をユヤンは予見する。
少しばかり考え込んだユヤンに、チュアンがぼそりと言った。
「そういえば、鸞君が月が出ないと嘆いておられましたよ。今宵からはようやく空に月も昇りお喜びでしょう」
ユヤンはそれを聞き、苦笑した。
月がない夜。
それはユヤンが仙界にて月の化身と対話していたのである。人の世に関わる道楽者だと散々説教され、それをかわしつつのご機嫌伺いとなった。
朋皇国の尚書礼ユヤンは、月の女神の眷属であった。




