九「叫び」
その晩、レイレイが同化したのはあの少女ではなかった。
あの少女をいたぶっていた女主人の中にレイレイはいたのだ。
彼女の心がレイレイに伝わる――
この女主人の名はディンシャンといった。十六で嫁いでから、姑にいびられ続けたけれど、夫のためだとそんな姑にも従順に仕えた。
姑の苛めが精神的な負荷となったのか、子ができてもすぐに流れてしまう。駄目な嫁だとまた詰られる。その繰り返しであった。
ようやく産めた子は二人とも娘であり、跡取りも産めぬ嫁だと毎日小言を言われ続けた。その姑が死に、ようやくディンシャンに平穏が訪れるかに思えた。
けれど、その先に待っていたのは夫の裏切りであった。
旅芸人の娘と懇ろになり、孕ませたのだ。その娘は子を産み捨てると去っていった。その赤子を夫は引き取ると言い張った。
いくら口惜しくとも、ディンシャンはここを追い出されては行く当てもない。我慢するしかないと思ったうちに、夫もあっさりと馬から落ちて死んだ。
悲しくはなかった。娘たち二人とこれからは落ち着いた暮らしができる。そう思えたのだ。
ただし、そうなるとあの子供――名も与えないままのあの子供が、その生活には不要である。どこかへやってしまおうと考えた。
最初はそのつもりであったのだ。顔を見れば夫の裏切りを思い出し、腸が煮えくり返る。顔も見たくなかった。
あの子に罪はないと思う気持ちがないわけではなかった。けれど顔を見ると苛立ち、つい八つ当たりをする癖がついてしまった。
そうしたら、娘たちもまたあの子につらく当たるようになった。娘たちのその姿を見ていると、いけないと思う反面、胸がすくのも事実だった。
あの子は泣かない。つらい仕打ちにも耐える。根が強いのだろう。
それがまた苛立つのだ。
子供らしく泣けば、こちらもひどいことをしたとやめられようものを、泣かない。泣くまでやってやろうという気になってしまう。
これでは鬼畜だ。ディンシャンをいたぶってきた姑以上に、おぞましい存在になり果てている。
自分の中の冷静な一部分が時折それを覗かせるのに、それでもディンシャンはまだ自分を止めることができていなかった。
娘たちは年若いせいもあり、ただ無邪気にあの子を見下している。けれどそれをするたび、自分たちの心もまた汚れていくのだと知らない。
それをディンシャンが教えなくてはならないのに、苦しかった過去がそれをさせない。あの子をはけ口にしてしまう。
このままではいけない――
心の奥底では常にそれを感じていた。
その晩、ディンシャンは湯浴みを終え、鏡の前で髪を梳いていた。背中でカツン、と僅かな音がした。それがあの子の木靴の音であったと気づいたのは振り返った時であった。
あの子に主の寝室への出入りを許してはいない。ディンシャンは不快感を顔に出して咎めた。
「こんな時分に何をしに来たの? 私はもう眠るところなの。出ていきなさい」
叱られても、この子は怯まない。無感情にぼうっとこちらを見ている。
汚れた体、粗末な服。伸びたままの髪。ひどい有様である。
本来ならば綺麗な色とりどりの衣を着て可愛らしく着飾る年頃であるのに。
不運な子。
もうそろそろ解放してあげるべきだろうか。
少しくらいの幸せを感じられるようにこの家から出すべきだろうか。
ディンシャンがうっすらそう感じた時、子供の荒れた手が正面に回された。その手が握っていたのは、割れた皿の破片である。それは昨日ディンシャンが投げた皿であったかもしれない。
「……割れたと言いたいの? 捨てればいいと言ったでしょう。下がりなさい」
キッと子供を睨みつけた。けれど、子供は怯まなかった。ただその破片を手ににじり寄る。
ディンシャンもさすがに、この時になって異変を感じて立ち上がった。
「な、何よ……っ」
子供は何も言わない。
言わない代わりに口の端を持ち上げてにぃっと笑った。
それはディンシャンが見た、その子の初めての笑顔であった。
「サ、ヨ、ナ、ラ」
満足な教育も与えなかった。その言葉が少ない子供が言った、別れの言葉。
子供が握った皿の破片の切っ先がディンシャンに向かう。
(駄目!!)
レイレイの心がどう叫んでも、レイレイはディンシャンの中でその起こった事実を見届けることしかできない。
レイレイにできるのは夢として知ること。ただそれだけである。誰かに同化した状態で直接の干渉はできない。
尖った破片がディンシャンの肉を抉っても、レイレイに痛みは感じられなかった。それでも、恐怖と痛みにのたうち回るディンシャンの感情はしっかりと伝わった。
相手は痩せた子供で、抵抗すれば勝てなくはないという発想もなく、ディンシャンがただ錯乱しているのは、それだけ恨みを買っていると自覚するからだ。
ディンシャンの悲鳴に気づいた使用人たちがやってきて、その惨状に怯みつつもあの子を取り押さえにかかった。力のない子供はすぐに捕まったけれど、騒ぐこともなく大人しくなった。ただ、その顔は笑っている。
ディンシャンの心は体から剥がれ落ちる寸前であった。レイレイもまた心のうちで叫ぶことしかできなかった。




