七「暁鐘鳴り響くとき」
どういうわけだろうか。
レイレイの意識はシャオメイと同調していた。まるでレイレイはシャオメイ自身のようにすべてを知ることができた。
「お前の大罪は万死に値す。その罪に見合った裁きを受けよ」
ルーシュイの低く押し殺した声にシャオメイは身をすくませた。その心が伝わる。
自分はいい。自分は死んでもいい。
けれど、父と妹がどうなるかと思うと、それだけが恐ろしい。
レイレイはハッとして、ルーシュイを止めなければと思った。どのようにしたかも覚えていないけれど、必死だった。レイレイはシャオメイの意識から離れ、自らの体で覚醒した。
黒髪を乱して寝台から飛び起きると、腰が砕けたようにへたり込むシャオメイと迫りくるルーシュイの間に割って入る。
「嫌っ!」
レイレイがシャオメイを庇って両手を広げる様子に、ルーシュイは信じられないものを見たような目を向けた。
ルーシュイはキュッと眉根を寄せる。その表情から彼の思いは読み取れなかった。
「レイレイ様、その者はあなた様を害しようとしました。鸞和宮という神聖な場所にこのような者を置いてはおけません。刑部に引き渡し、新たな女官を派遣して頂きましょう」
淡々とそう告げられた。背中でシャオメイが震えているのがわかる。自分を殺そうとした相手に背を向けている恐怖は不思議となかった。
「引き渡したらどうなるの?」
恐る恐るレイレイは訊ねた。すると、ルーシュイはあっさりと言う。
「さあ。杖二百を越える刑罰か、慈悲深く斬首かといったところでしょう」
わざとだろうかと思うほどの軽い口調だった。
杖二百。硬い棒で力任せに二百回も殴られれば大抵の者は死ぬ。シャオメイなど三十もあれば十分だ。苦痛のうちに死ぬ。レイレイは考えただけで青ざめた。
そんなレイレイを気遣うようにルーシュイは少しだけ表情を和らげる。
「ご心配なさらずとも、すぐにもっとよい女官が来ますよ」
ルーシュイにとって、シャオメイと過ごした数日はそんなに価値のないものだったのだろうか。
あんまりなひと言に、レイレイは滂沱の涙を惜しげもなく流した。唐突に思えたのか、ルーシュイはびくりと肩を跳ね上げる。
そんなルーシュイに背を向け、レイレイは魂が抜けたようなシャオメイを抱き締めた。極度の緊張に強張ってはいるけれど、あたたかな体だった。
「他の女官なんて要らない! シャオメイじゃないなら誰も来なくていいの!」
目覚めて初めて身支度を手伝ってくれた。美味しいお茶を丁寧にいれてくれた。
もっと仲良くなれると思ったのだ。死ねばいいなんて思わない。
この手を離したらシャオメイの命が消えてしまう。そんなのは嫌だ。
レイレイは彼女の細い体にしっかりと抱きついていた。シャオメイにはもう害意はないらしい。腕をだらりと垂れて呆然としている。
場違いなほどのため息の音がルーシュイから聞こえた。
「けれど、私はレイレイ様を一度でも殺害しようとした彼女を信用することはありません。レイレイ様の外敵を排する。それが私の役目なのです」
「わ、わたしが頼んでも?」
「ええ」
ルーシュイが悪いわけではないけれど、あまりにも融通が利かない。融通できるほど軽い問題でもないと言われるかもしれないけれど。シャオメイはそっと力なくかぶりを振った。
「いえ、私の罪は私の罪です。どうぞ刑部へ差し出してください。本当に申し訳ございませんでした」
シャオメイはそうすることで事件を終わらせたがっている。そう感じた。罪はすべて一人で抱えるから、その代わりに家族を助けてと願うのだ。
その願いは彼女の死と引き換えに叶うのだろうか。――叶わないだろうとレイレイは思う。
涙が次々とレイレイの瞳から溢れる。それでもルーシュイの声は揺れなかった。
「……では、彼女の罪を他へ漏らさずに追放致しますか? その代わり、他の女官は来ません。表向き、ここにはシャオメイという女官がいるという状態のまま、彼女を追放するのです」
「そんなこと、できるの?」
ひく、としゃくり上げて振り返ると、ルーシュイはにこりともせずに言った。
「レイレイ様と私が口をつぐめば、彼女の罪がおおやけになることはありません。その代わり、不自由が多くはありますよ」
当事者の二人が否定すれば、シャオメイの罪を訴える者はいないのだ。
レイレイは大きくうなずいた。
「うん、じゃあそうする」
「……本当に、後悔なさいませんね?」
「もちろん!」
疑わしげに念を押すルーシュイ。彼にはレイレイの決断を理解できないのだろうか。
「シャオメイ、元気でね?」
涙を拭きながらレイレイがそう告げる。ルーシュイは吐き捨てるように言った。
「レイレイ様の温情に感謝することだな。暁鐘が鳴ったらすぐにでも出ていけ」
朝を知らせる鐘の音が別れの時。
レイレイは涙を拭うと蒼白なシャオメイの手を握り締めた。冷たく荒れた手だった。
「お父さんと妹さんと遠くで穏やかに暮らせるといいんだけれど」
そのひと言にシャオメイはハッと息を飲んだ。
「私、妹がいるなどと申したことは……」
レイレイは赤くなった目元でにこりと微笑んだ。
「お茶、美味しかったわ。元気でね」
シャオメイの目からもポロポロと涙が零れた。涙を隠すようにして拝礼し、部屋を駆け去る。ルーシュイは追わなかった。冷めた目をしてつぶやく。
「首でもくくりますかね」
優しげな風貌ながらに、ルーシュイは心がない。上流階級の子息には一女官の事情などどうでもよいのだろうか。レイレイはそれを責めるように彼を睨みつけた。
「そんなことしない。彼女には護りたいものがあるから」
ルーシュイはレイレイの視線の険しさに一瞬たじろいだ。けれど、身じろぎしたせいで腕の傷の痛みを思い出したかのように顔をしかめる。レイレイもまた、その傷口に目を向けた。
「……その怪我、どうしたの?」
訊ねてみると、ルーシュイはため息交じりに答えた。
「香の睡眠効果を消すために自分でやりました。肉を切っただけですから、すぐに治ります」
「すぐって、そんなに血が出てるのに……」
「私はこの程度の傷ならば自力で塞げます。どうということもありません」
術を使って治すというのだろうか。だからあんなにも思いきりよく傷つけたのだと。
そうまでして駆けつけてくれたルーシュイに心がないとは、あんまりなことを思った自分を恥じた。レイレイは悄然として零す。
「ありがとう」
「レイレイ様をお護りすることが私の役目です。お気になさらず。私は念のために部屋の外に控えておりますので、安心してお休みください」
淡々とそう言って、ルーシュイはレイレイに背を向けた。
レイレイはどうしていいのかもわからないままに寝台に腰を下ろした。そうして体を横たえる。
気が昂って眠ることは難しく思えた。けれど、しなければならないことを思い出したのだ。
意識がふと遠退く。
レイレイはようやく自分の力を知ったのだ。
遠い土地にいるシャオメイの家族。レイレイの意識は彼女の父親の夢へと飛んだ。途中にいくつかの景色を見た。
白く濁った視界の中、ぽつりと佇むシャオメイの父。
細い顎髭を蓄えた細身の男性の前に降り立つと、レイレイは口を開く。
『わたしは鸞君。あなたの娘のシャオメイをお返しします。明日の朝、誰にも知らせずに彼女の妹を連れてすぐに城市へ向かって旅立ってください。城市に続く川のほとりに橋がかかっています。その橋のそば、椚の木の下を目指してください』
『ら、鸞君?』
『はい。そうすることでしかあなたたちが生きて行ける道がないのです。どうかわたしの言葉を疑わないでください』
彼女の父は拝礼し、レイレイの言葉を受け取ってくれた。
レイレイは自分の居室で目を覚ますとほっと息をついた。そうして部屋の外へ出ると床に座り込んでいたルーシュイの隣に腰を下ろす。
「どうされました? 眠れませんか?」
レイレイはルーシュイの肩に頭を預けるとぽつりとつぶやく。
「ねえ、シャオメイを操った相手は彼女の郷の領主なのって言ったら信じる?」
ルーシュイは軽く身じろぎするとうなずいた。
「ええ。レイレイ様のお言葉はすべて信じます。今回の件で罰することは難しいですが、別件で叩くことならできるかもしれません。手を回してみましょう」
うん、と答えた。
「それから、鸞和宮の外の衛士にも、その領主に買収されている人がいると思うの。明日、シャオメイが無事に城市を抜けられるように手配して」
有無を言わせず、強い口調でそう言いきると、ルーシュイは一瞬嫌な顔をしたけれど、渋々ため息をついて答えた。
「仰せのままに」
そのひと言にようやく張り詰めていたものが抜けていく気がした。
シャオメイがあんなことになってしまって、レイレイのそばにいるのはルーシュイただ一人だ。これからの日々を共に過ごすのはルーシュイだけなのだ。
寂しい。ひどく寂しいけれど、今は彼のぬくもりだけが、ここにいる今を現実だと知らしめてくれた。まどろむレイレイをルーシュイは見守りながら朝を迎える。
そうして、暁の鐘が鳴り、シャオメイは宮を出た。レイレイの指示通り川沿いを行く。
道中何があるかわからないのだ、十分注意するように言って別れた。深々と頭を下げたシャオメイ。
できることならまた会いたいと思う。
夢の中でならそれも許されるだろうか――
《 覚醒の章 ―了― 》