五「暗い場所」
この時、この夢の中でレイレイはレイレイではなかった。
それはわかるのだけれど、あまりに暗い。
周りが何も見えない。
暗い、暗い、何もない場所。
そこにレイレイはいた。
正確には、レイレイが同化している誰かが。
膝を抱えている『誰か』は小さかった。
カラリ、と戸が開き、中に灯りが差し込む。
そこには、灯りを手にした女性とその他に二人の女性がいた。煌びやかな衣装をまとい、その『誰か』を見下ろしている。
「お客様が帰られたよ。さあ、後片づけをするんだ」
「まったく、あんたみたいに醜い子、お客様の前に出せないんだから、それくらいしかあんたは役に立たないのよ」
「早くしなさい。本当に鈍い子ねぇ」
一人は年嵩、もう二人は若かった。三人の顔はどこか似通っており、親子であろうと推測された。この子供は家人にしてはひどい扱いである。
胸の奥がチリチリとした。けれど、この子供はそれを抑え込む。
――まだだ。
それを心のうちで呪文のように唱える。
「あんたはこの家じゃ下女とおんなじなのよ。置いてもらえるだけありがたいと思いなさい」
「死んだお父様が行きずりの女に産ませたあんたなんて、妹だと思ったこともないわ」
そうして立ち上がると、返事もそこそこに頭を下げて外へ出た。狭い納屋の中に押し込められていたのだ。
母娘たちが客人と散らかした酒宴の跡。染みのついた敷物を拭き、食器を下げる。厨で盥に浸した食器を洗っていると、この家の女主が一枚の皿を高いところから盥の中に落とした。
水飛沫が飛び、割れた皿の破片が少女の荒れた手を裂いた。血が水面にじわりと広がる。
「お前が片づけ忘れた皿を持ってきてやったんだ。せっかく渡してやったのに受け取れもせずに汚い血で皿を汚すなんて、本当にお前は恩知らずだね。そんな汚れた皿はもう要らないよ。その代わり、罰としてお前の食事は当分抜きだからね」
水面に映る少女の姿はやせ細っていた。顔は垢で汚れ、髪も伸ばすだけで結う道具すら与えられていないのだ。その中で、大きな目だけがぎょろりと光っている。
それでも、少女は口答えをしなかった。
この少女の心には多くのものがなかった。がらんどうの中にいくつか、数え切れるほどの感情があるだけ。
――まだだ。
ずっとそれを唱えている。
まだとは何か。
女主人が立ち去ると、少女は割れた皿の鋭利な破片を持ち上げ、角度を変えてはうっとりと眺めた。己の血が赤くついている。けれどこの血が自分を苛む彼女たちのものであったならどうだろう。
三人もいるのだから、それは河のように流れるのではないだろうか。
いつかその光景を見たい。
この手で作りたい。
そのために今を生きる。
けれどそれは今ではない。
その時を、今は大事に待っている――
少女の口の端がくい、と持ち上がり、なんとも奇妙な笑みを形作る。その様子を水面が映した。
レイレイが寝台で目覚めた時、その体は恐ろしさで冷えきっていた。寝台の上で浅く息をするのも苦しい。
あの子は無理をして耐えているというところを越えてしまっている。つらいという感情が、あの状況にしては強く感じられなかった。
心を麻痺させることで自分を護っている。そして家人の死を願うようになった。その日を楽しみにすることが生きる力となった。
そうしていつか、自らが手を下したいと願っている。
あの子と同化していた時の冷えきった心を思い起こし、レイレイはぶるりと身を震わせて肩を掻き抱いた。けれど、恐ろしさは消えない。
こんな時はいつもルーシュイを頼る。今も恐ろしくて、この暗さが怖い。
レイレイは思考を止めて寝台を抜け、部屋を出た。
ルーシュイの部屋は隣だ。こんな時のために隣にいてもらっている。レイレイはルーシュイの部屋の戸を叩いた。
「ルーシュイ、ルーシュイ!」
眠りを妨げてしまうことを申し訳なくは思う。けれど、我慢ができないほどに一人が怖いのだ。
ルーシュイもこうしたことは何度もあり、そのつど起きてレイレイの相手をしてくれた。だからレイレイはこの時も何も疑わずにここへ来たのだ。
「レイレイ様……」
カタ、と小さな音を立ててルーシュイは戸を開けてくれた。その時にレイレイが恐ろしい夢を見たことを察してくれただろう。いつもならば震えが止まるまで抱き締めてくれた。それだけで心が救われる。
けれど、その時のルーシュイはいつもと違ったのだ。
心配の前にひどく困った顔をした。暗がりでもそれがわかった。
今日の違和感はまだ続いていたのだ。
「あの、ルーシュイ……」
レイレイはどうしたらいいのかわからなくなり、自分の胸元に拳を押しつけた。ド、ド、ド、と心音だけが激しく聞こえる。
ルーシュイはそんなレイレイに困惑したまま告げた。
「また恐ろしい夢を見られたのですね。大丈夫です、私がおそばに控えておりますから、安心してお休みください」
いつもと言葉はそう変わらない。けれど、ルーシュイに促されてレイレイが部屋に戻っても、ルーシュイはレイレイの寝室へ足を踏み入れることはなかった。戸口でレイレイを見送る。
「ここに控えておりますので」
そう告げるルーシュイに、レイレイは言いようのない切なさが込み上げた。
すぐそこにいるのに、手が届かない寂しさ。それが今まで感じたどんな時よりも強かった。
「ねえ、そばにいて。一人にしないで」
はっきりと、言葉にして気持ちを伝えた。わかってほしい、その願いを言葉に込めたのだ。
そんなレイレイが目を潤ませてルーシュイを見上げると、ルーシュイは一瞬たじろぎ、レイレイから早々に目をそらした。レイレイがとっさにつかんだ寝衣の袖口を、ルーシュイは指を開かせて抜き取る。
「大丈夫ですよ。控えておりますから、安心してお休みください」
そうして、目の前で戸が閉められる。
はた、とレイレイの目から涙が零れた。




