四「違和感」
そうして食事を終えると、レイレイはいつものごとく湯殿へ向かった。今日も暑かったので汗を流してさっぱりした。ほんのりと香油のよい香りが残り、気分も上々である。
ルーシュイはレイレイが湯浴みをしている間に夕食の片づけをしていた。それはいつものことなのだが――
「ルーシュイ、お先――」
手際のよいルーシュイは大抵、レイレイが戻る頃には片づけを終えて涼しい顔で椅子に腰かけている。
ただ、この日、後片づけはすべて終えたようだけれど、ルーシュイは涼しい顔でいたわけではなかった。
難しい顔をして狼と顔を突き合わせている。どちらかが視線を外したら負けだとでもいうように、じっと互いを見ている。
「……どうしたの?」
思わずレイレイがそう訊ねてしまうほどにはおかしな状況だった。レイレイが戻ったことで一人と一匹のにらめっこは終わったらしい。
「ああ、レイレイ様。いえ、なんでもないのですが……この狼がやたらと私の方を見ているもので」
「ご飯をくれたから懐いたんじゃないかしら」
もしそうだとしたら、明日はレイレイが餌をやりたい。しかし、ルーシュイは納得しなかった。
「そう、でしょうか……」
眉間に皺を刻み、うぅんと唸るルーシュイが珍しい。そんなルーシュイを見られてレイレイはなんとなく嬉しくなった。クスクスと笑いが零れる。
立ち上がったルーシュイの腕に、レイレイは自分の手を絡めた。
けれどその時――ルーシュイは弾かれたように素早く動いた。露骨にではなく、あくまでさりげなくレイレイの手から逃れるようにして腕を抜いたのだ。
あれ? とレイレイは一瞬それが理解できなかった。いつもなら、レイレイが甘えればルーシュイはおざなりにはしない。
しかし、ルーシュイはいつもと変わらずに優しく微笑んでいる。だから意味がよくわからなかった。たまたまそうなってしまっただけで深い意味などないと考えるのが自然だった。
「レイレイ様、では私も湯を浴びさせて頂きます。おやすみなさいませ」
「わたし、まだ寝ないわ」
いつも眠る時刻よりずいぶん早い。
やっと空に星が瞬き始めた頃なのだ。昨日はうとうととしてしまったから、今日こそはもっとちゃんと星空を二人で眺めたいと思う。
ルーシュイは少し沈黙し、それからぽつりと言う。
「そうですか。では、湯殿へ行きますので」
そうして背を向けて部屋を出て行った。別に機嫌が悪いとか、そういうことではない。けれど、ルーシュイの様子が、何かいつもと違うような気がした。
狼はそんな二人のやりとりもじっと見ていた。
仕方がないのでレイレイが庭園を眺めながら一人ぽつりと座り込んでいると、その横に狼が来てくれた。まるでレイレイの複雑な心境を読んで慰めてくれているように感じられた。本当に不思議な狼だと思う。
頭を撫でても嫌がらない。無言、無表情でそこにいてくれた。それがなんとも癒される。ユヤンもそうなのかもしれない。
「ねぇ、今日も月が出ていないわ。星月夜ね。お月様はどうして出てきてくれないのかしら」
どうでもよいようなことをつぶやく。狼はこの時、初めて声らしきものを出した。キュゥン、と小さく鳴いた。
その声が困っているように聞こえて、レイレイはもう一度狼の頭を撫でた。
「お月様だって顔を出したくない日もあるわよね」
そのままぼうっと空を眺めていると、通りかかった湯上りのルーシュイが驚いてのけぞった。レイレイがそこにいると思わなかったのだろう。
「レイレイ様、あまり長く夜気に触れていると、夏とはいえお体に触りますよ」
「夜空が見たくて」
膝を抱えてルーシュイを見上げると、くつろいだ寝衣のルーシュイは小さく嘆息した。
「……もう気は済まれましたか?」
「ううん。昨日みたいにルーシュイと一緒に見たかったの」
すると、ルーシュイは何故か目を瞬かせた。あまり嬉しそうには見えなかったけれど、断られはしなかった。レイレイの隣に座り、空を見上げる。
ただしそれは、命じられたから取った行動のように見えた。少しも気乗りしていない。
ルーシュイの態度が昨日とはあまりに違う。レイレイにはその変化が急に感じられた。何がいけなかったのかわからないまま、レイレイはルーシュイの胸に手を伸ばした。
もしかするとすべてレイレイの勘違いということもある。いつものように寄り添って、抱き締めて安心させてほしかった。
それでも、ルーシュイはレイレイの指先が触れた瞬間にその手が届かないように立ち上がった。
「さあ、そろそろ眠りましょう」
ルーシュイの顔は笑っている。けれど――
レイレイは今感じている気持ちをどう伝えればいいのかわからなかった。戸惑っているうちにルーシュイの方がレイレイの手を取り、立ち上がらせられる。ただし、触れ合ったのも束の間。ルーシュイはすぐに手を引いた。
そのまま部屋まで送ってくれた。ついてきた狼もレイレイの部屋には入らなかった。廊下でいいと思うのだろうか。
「おやすみなさいませ、レイレイ様」
ルーシュイは笑顔で挨拶をするけれど、どうにもその笑顔は貼りつけたように胡散臭かった。
レイレイはモヤモヤした気持ちのまま眠りについた。
そうして、夢を見た――




