十「近い再会」
その晩、レイレイは今日のことを頭で整理しながら床に就いた。
見るべき夢は決まっている。今日ばかりは願った人に会いに行けると自信を持って眠った。
夢の中は薄靄に包まれ、それでもその中に美しい貴妃が佇んでいれば、ここは夢というよりも仙界のように見える。音というほどの音はない夢の中、それでも貴妃の声はしっかりと聞き取れた。
『あら? あなた、レイレイさんですわね?』
現と夢との違いを貴妃は意識していないかのように、ごく普通に目の前のレイレイに声をかけてくる。
『はい、貴妃様。今日はお会いできて嬉しかったです。ありがとうございました』
レイレイがぺこりと頭を下げると、貴妃は優しく笑った。
『たいしたことはしていませんわ。わたくしもあなたに会えてよかったと思っていますのよ』
好意的な言葉にレイレイが喜んだのも束の間、貴妃は艶やかな唇からとんでもないことを言った。
『陛下の想い人にお会いできるとは思っておりませんでしたもの』
そのひと言にレイレイは固まってしまった。
――こんなはずではなかった。
シージエが帰り際にあんなことを言わなかったら、こうして貴妃と話す時に疚しいような気持ちにはならなかったのに。
そんなことを少しだけ思ってしまったけれど、人の気持ちは自分でも操作できるものではない。シージエも、何故レイレイにそんな気持ちを抱いたのか、自分でもきっとわからないのではないだろうか。
シージエの気持ちは純粋で、応えてあげられないことを苦しくは思うけれど、その気持ちにはせめて誠実でいるべきだろう。
レイレイは戸惑いながらも貴妃にぽつりとつぶやく。
『何故……そう思われたのですか?』
『何故って、後宮嫌いの陛下がわざわざおいでになるなんて、よっぽどのことですもの。誰にだってわかりますわ』
クスクス、と貴妃は笑った。嫉妬の色の見えない軽やかな笑い声だ。
この状況でどうして笑うのか、レイレイの方が理解に苦しむ。
けれど貴妃は言った。
『陛下が誰かにお心を寄せられたことが、わたくしには意外でした。けれど、そういうお気持ちを持たれたことに安堵も致しましたわ』
『安堵でございますか?』
レイレイの方がキョトンとしてしまった。
これは夢の中であるから、貴妃も現実では口にしないようなことも軽く言ってしまうのだ。
『ええ。少なくとも女人に興味がまったくないわけではないということですから』
貴妃があまりにもシージエに期待していないことがありありと見えた。そのことに愕然としてしまう。
ここは夢の中。レイレイが正体を明かしていない以上、多少口が過ぎたとしても貴妃は夢だとして片づけるだろう。
レイレイは覚悟を決めて言った。
『貴妃様は陛下のことをどのようなお方だと思われておりますか?』
すると、貴妃は考えるそぶりも見せずに答える。
『少し幼さを感じてしまいますわ。上に立つ者には、個人の前に立場があるのです。それをもう少しご自覚頂けるとよいのですが』
幼いと。年若いが故の熱意もまたシージエの魅力だとは思うのだけれど、貴妃にはそれが好ましくはないらしい。これは相性がよろしくないということだろうか。
別々に見ればどんなに素敵な人たちだとしても、この相性というものばかりは他人にどうこうできるものではない。
以前のレイレイなら、それでもシージエの素晴らしさを語っただろう。けれど今は、あの告白があってから、それが上手く言えない。自分が受け入れられないから他人に勧めるようにしか受け取られない気がしてしまうのだ。
言葉を探したレイレイに、貴妃は呑み込んでしまえない気持ちを吐露する。
『わたくしは……いえ、わたくしたちは幼いころから後宮に上がるために育てられてきたようなものですの。そこで陛下の子をお産みあそばして初めて自分の価値が認められると、そう教え込まれてきたのです。それが――』
ふぅ、と嘆息した貴妃の吐息は怒気を逃がすためのものであったように見えた。
『陛下は市井のことで頭がいっぱいのご様子。民にお優しい賢君であらせられることは承知していますわ。けれど、それを理由に後宮へ足を向けられないのはいかがなのでしょうか。これならば、何もわたくしたちでなくとも後宮に人形でも並べ立てておけばよいのです。わたくしたちがどれだけの覚悟を持ってここへ来たことか、陛下は何もご存じではございません。役目を果たせぬ毎日がどれほど無為なものか、政に携わり、やり甲斐を覚えておられる陛下にはおわかり頂けそうにもございませんわ』
普段は言えない心が、夢の中でならと漏れていく。綺麗に着飾り、美しく微笑みながらも、貴妃なりに遣る瀬無い気持ちでいっぱいなのだ。
一気にそれをまくしたてたかと思うと、貴妃は急に気弱な顔をした。
『……などと、私も不平を申せるはずもない立場ではあるのです。陛下が後宮へお越しくださらないのは、それだけの魅力がわたくしにないからであって、それを腹立たしく思うわたくしも幼く、それを感じては苛立ってしまって、陛下を好ましく思えないなどと口にしてしまうのです』
そういうことなのか――
幼少期から後宮へ入ることだけ目標に育てられた彼女たちの気持ちを、シージエは多分わかっていない。妃として皇帝に尽くそうと意気込んだところで、当の本人が妃たちのもとへ寄りつかなければどうにもならないのだ。
レイレイなりに貴妃の言い分がわからなくはなかった。
『貴妃様、そのお気持ちを一度陛下に申し上げてみてはいかがでしょうか? 陛下は人の声によく耳を傾けてくださるお方と、わたくしは思っております。ですが、黙っていてお心を察してもらえる確証はございません』
『女心を察するのが不得手であることはよくよく存じておりますわ』
ピシャリと言われてしまった。
けれど、そう言った後、貴妃は少し困ったような顔をした。
『……思えば、陛下とゆっくりお話ししたことがどれくらいあったでしょう?』
ちゃんと話し合うこともしてこなかったのなら、それはシージエも悪い。レイレイはふわりと微笑んだ。
『でしたら、その場を設けてみては? 尚書礼様ならば喜んでお力になってくださると思います。ほら、あの菊のお茶をご一緒に楽しまれてはいかがですか?』
杯の中、美しく花開き揺らめく菊。
気を紛らわせるには十分な香りと見目であるとレイレイも思う。
『尚書礼様ね……』
そうつぶやいてから貴妃は軽く首を傾げてみせた。
『レイレイさんは不思議な方ですわね』
『そうでしょうか?』
『ええ。あなたのような方が後宮にいなくて残念なのかしら。それとも、よかったのかしら?』
レイレイは何と答えてよいものかと苦笑してごまかした。
『では、貴妃様が素晴らしい毎日を過ごせますように、わたくしもお祈り申し上げております。どうか、お元気で』
実際にまた会える機会はそうそうない。
けれど、ひたむきなこの女性が幸せであることをレイレイは祈りながら目を覚ました。




