八「三人模様」
この後宮にいる、宦官ではないたった一人の男性。
いつもの明るい表情とは違う、皇帝の顔を冕冠で遮りつつも早足で歩いてくる。
皆がそろってひれ伏す中、レイレイだけが知らない場所で友人に出会えた心境で笑みを浮かべてしまった。けれどそれは違う、とすぐに気づいて慌ててレイレイも拝礼した。
けれど、そんなレイレイの頭上からシージエの声が降る。
「私の足をどうしても後宮に向けたいのだな、ユヤンは。もうよい、レイレイは自分の居場所へ戻るように。ここは……君には縁のない場所なのだ」
ひどく困った声であった。レイレイは皆の手前、顔を上げることもできずにいたけれど、淑やかに返事をした。
「仰せのままに」
顔を上げてもよいものか、レイレイは迷いながらもうしばらく待ってみた。すると、シージエが貴妃に声をかけた。
「貴妃、ユヤンが何を言ったのかは知らぬが、彼女はこことは関わりのない娘だ。けれど、もてなしてくれたようだな。礼を言おう――」
そこでシージエは誰にも口を挟ませないようにか、矢継ぎ早に言った。
「今は公務が立て込んでいるのでな、また、改める。ではな」
その公務が立て込んでいる中、わざわざレイレイのもとへ来てくれたらしい。ユヤンがレイレイを後宮へ向かわせた意味を深読みし、心配してくれたのかもしれない。
その時、貴妃がぽつりと言った。
「ええ、お待ち申し上げておりますわ」
この時になってようやく、レイレイはここへ来た本当の理由を思い出したのであった。貴妃の声は艶やかであるのに、余韻だけで体の芯が冷えるような、そんな印象を受けた。
そう、貴妃は――皇帝であるシージエが嫌いなのだった。
目の当たりにしてそれを実感したレイレイであった。多分顔は笑っている。それでも、目は笑っていない。見なくてもそれを感じ取れた。
シージエは果たしてそれに気づいているのだろうか。賢く優しいシージエだけれど、女心に敏感には思えなかった。
シージエが去った後も、レイレイは恐ろしくて顔を上げられなかった。ただ、貴妃はレイレイに対して思うところはなかったのかもしれない。ふと穏やかな声音に戻り、言った。
「レイレイさん、せっかくのお茶が冷めてしまいますから、どうぞ召し上がってください」
「は、はいっ」
レイレイは花咲く茶の杯を手に取り、そうっと唇につけながらちらりと貴妃を見遣った。貴妃もまたレイレイを見ていた。
貴妃は柔らかく微笑んでいる。
「何も訊ねぬと先に申しました。今更それを覆すつもりはありませんわ。ただ――」
ふぅ、と小さく息をつく。貴妃の目には哀愁が漂った。
「陛下はあなたのような女人がお好みなのでしょう。それだけはわかりましたわ」
思わず茶を噴き出してしまいそうになるけれど、こんな高級な茶を貴妃の前で噴き出すわけにはいかない。飲み込んだのはいいけれど、おかしなところに茶が入り込んでむせた。
ゴホゴホとレイレイが下を向いてむせていると、貴妃が小さく笑った。
「あなたは本当に後宮に入るつもりはないのですか? あなたがいれば、陛下は後宮に通われるようになるやもしれません。陛下の寵を得たならば、あなたばかりか一族の繁栄は約束されたようなものですよ」
淡々とそんなことを語る。貴妃は今の地位になんの未練もないのだろうか。
レイレイは咳が治まるとかぶりを振った。
「わ、わたしには大事な人がいます。それで、その、後宮入りのお話は白紙に戻して頂きました。陛下もユヤン様もそれはご存知です」
すると、そこで貴妃は初めて驚いたような顔をした。
「まあ、それは羨ましいですわ」
本音が漏れている。厳粛な面持ちだった女官長がギョッとした。
レイレイも、はっきりと言われたことに驚く。
貴妃はこの時、年相応の娘の悪戯っぽい笑みを見せた。その表情が、何故か今日一番レイレイの胸に残る。
フフ、と貴妃は声を立てて笑った。
「レイレイさんは後宮とは関わりのない客人であるせいか、つい余計なことをお話してしまいますわね。気分を害されたのならごめんあそばせ」
「い、いえ、そんなことは……」
ここでは女官長や女官たちが控えている。あまり余計なことは言えないと思い、つい口数が少なくなる。
けれど、こうして直に貴妃に会えたのはレイレイにとって意味のあることだ。きっと、夢にも繋がりやすくなるだろう。
だからレイレイは言った。
「貴妃様、本日は誠にありがとうございました。またお目にかかりとうございます。その時はどうぞよしなに」
丁寧に拝手拝礼したレイレイに、貴妃は優しかった。
「ええ、わたくしもお会いできてよかったですわ。またいらしてくださいね」
「はい、ありがとうございます」
そうして、レイレイは禁苑を後にする。
今度貴妃に会う時は夢の中がいい。
そこでなら、心のうちをもっと話すことができるだろうから。




