七「対面」
レイレイはユヤンの提案通り貴妃に会うことにした。
後宮という場所は文字通り、皇帝のおわす太極殿の後方にある。長い洞窟のような北門を抜けた先の、禁苑のそば。その春の花が咲く苑で貴妃と会えるとユヤンは言う。
レイレイを案内してくれたのは女官長であった。キリリと目のつり上がった中年の女性で、厳しさが芯から滲み出すようだ。けれど、そういう人であるから、レイレイの正体を決して他言しないとユヤンに信頼されているのだろう。
女官長は道中、ほとんど口を利かなかった。鸞君であるレイレイから余計なことを訊かぬようにと言われているのかもしれない。
レイレイが通された先は、まるで夢の国のような美しさだった。春らしい淡い色調をした大輪の花が咲き乱れ、爽やかに吹く風に散った花弁が踊る。その様子に見惚れながらレイレイは女官長に続いた。
ただし、足元が疎かになっていたらしい。レイレイは石畳の段差に足を取られてよろけ、女官長の背中を突き飛ばしてしまった。女官長はこけることなく踏みとどまり、無言でレイレイを振り返り、そうしてまた前を向いて歩き出した。
その背中に、小さくすみません、と謝る。
しょんぼりと女官長の後に続いた。ルーシュイがいれば、こんな時はいつも支えてくれた。いないことを忘れてしまうくらい、ルーシュイは常にレイレイのそばにいる。
ルーシュイは今頃ユヤンたちと話しているのだろうか。ふと、ルーシュイのことを気にしながらレイレイは歩いた。
禁苑は正直なところ、広すぎる。鸞和宮を狭いと感じたことはないけれど、ここと比べたらささやかなものだ。
どれくらいかして、風の中に桜の花びらと弦楽器を爪弾く音が混ざり合いながらレイレイのもとへと届いた。弦楽器は、琵琶であろうか。春に似合いの、穏やかながらにどこか切ない情緒を感じさせる。
その音を辿ると、その先に数名の女官を従え、桜の木の下に敷いた毛氈の上で琵琶を奏でる貴妃の姿があった。その姿は麗しく、旋律は胸に迫る。
同性のレイレイでさえ、貴妃の麗容には見惚れるばかりであった。着飾っているからというのではない。こうして、音からも感じられるのは、凛とした揺るぎない心だ。それは芯の強い女性であることの表れである。
シャン、と最後の一音を終え、その余韻に場が浸る。レイレイは思わず拍手を送ろうとして、けれどそれが不敬であると思い至って手を止めた。貴妃が膝から下した琵琶を女官が受け取ると、飾りの螺鈿が陽に煌めく。その輝きにも増して、レイレイを見据えた貴妃の瞳にレイレイは目を奪われた。
思わずほぅ、と見とれてしまうけれど、そこでレイレイは隣の女官長が拝手拝礼していることに気づき、自分もそれに倣わなければならなかったのだと気づいた。ただの小娘が貴妃という女人の頂点とも言える存在を直視して許されるものではない。
慌てて頭を垂れたレイレイではなく、引率してきた女官長に貴妃の声がかかった。
「この娘は誰です? 見ない顔ですが」
レイレイは頭を上げずにちらりと女官長を見遣った。女官長は涼しい横顔で答える。
「尚書礼様からこちらへ案内するようにと仰せつかって参りました。客人として扱うようにとのことです。後宮に入る予定はございません」
「尚書礼様がそう仰ったのですか? 後宮に入る予定がないとは……うら若く美しい姿をした娘ですのに」
「陛下はこれ以上後宮の妃嬪を増やすことを望まれてはおられません」
それを聞くと、訝しげであった貴妃は小さく息をついた。
「そうでしたね。いいでしょう。尚書礼様が客人としてもてなせと仰るのなら、それに従いますわ」
貴妃はそうつぶやくと、装飾品をシャラリと鳴らした。
「顔をお上げなさい」
それはレイレイに向けた言葉であった。おずおずと顔を上げたレイレイを、貴妃はまっすぐに見据える。そこには迷いがなかった。
「わたくしが貴妃のジュファです。あなたは?」
「レイレイと申します、貴妃様。お目にかかれて光栄にございます」
これくらいの挨拶はレイレイにもできる。ただ、あまりにも優雅な貴妃の前では多少の礼節などあってもなくても同じだ。太刀打ちできるものではない、とレイレイは早々に悟った。
貴妃はフ、と不意に柔らかく笑う。
「外からの来客は本当に久しぶりですわ。さあ、お座りになって。お茶でも頂きましょう」
「は、はい。ありがとうございます」
レイレイはもう一度頭を下げ、それから女官たちが促すままに毛氈の上に座った。他の妃たちは人払いをされたのか寄りつかなかった。そこは花の香りと鳥のさえずりに満ちている。
何気なく見上げた空は青かった。いつもと同じ空であるのに、この苑から見上げる空はいっそう青く典雅に見えた。ただし、鳥かごから眺めたかのような窮屈さもまたそこにはある。
「レイレイさん、あなたのことを訊ねるのはよしましょう。尚書礼様があなたをこちらへ送ったことにはなんらかの意味があるのだと思います。ですから、何も訊ねませんわ」
貴妃は微笑みを浮かべながらそう言った。思えば、夢の中でさえ、女官に対しても丁寧な口を利いていた。それが常に身についているのだろう。
貴妃ともなれば美しいばかりではなく、ひとつのことからいくつもの答えを導き出す知性がある。
この貴妃に、シージエはどんな顔をして相対しているのだろうか。それがなんとも想像しにくかった。それは、レイレイの中のシージエがまだ、皇帝というよりも年の近い友人のような間柄という認識でいてしまうからだ。
「レイレイさん、あなたの方からわたくしに訊ねたいことがあるのでしたらどうぞ仰って。こうして見えることもそうそうないでしょうから」
それほどわかりやすく、レイレイの顔には質問があると書いてあったのだろうか。貴妃の聡さにレイレイが感じ入っていると、貴妃は女官に小声で指示を出した。そうしたら、女官長を残して皆が散った。人払いをしたのかと思ったけれど、そうではなかった。
「お茶を用意させます。さあ、お話があるなら聞きましょう」
「ありがとうございます」
どうやら女官たちは茶を用意しに行ったようだ。貴妃に仕える女官たちならば、それは美味しい茶をいれてくれることだろう。
そんなことを考えながらレイレイはぽつりとつぶやく。
「貴妃様は何故、後宮に入ろうと思われたのですか?」
その質問に、貴妃は目を瞬かせた。女官長も驚いた様子でレイレイを凝視している。初手を誤ったかとレイレイが焦ったのも束の間、貴妃はフッと笑った。
「面白いことを訊くのですね。何故も何も、わたくしは幼少の頃より後宮に入るために育てられたようなものですわ。何故とも考えたことなどありません」
そういうものなのか。記憶のないレイレイにはわからないけれど、もしかすると鸞君になる前のレイレイ自身もそうであったのだろうか。
後宮に入るべく育てられた娘に自由はない。その鬱憤が皇帝であるシージエに向かうのかもしれない。だから、好ましくないなどと思うのか。
そんな会話をしているうちに女官が茶を運んできてくれた。背の高い杯に蓋がされているけれど、ふわりと甘い花の香りがする。
その杯は貴妃とレイレイの前に置かれ、蓋が開かれた時にレイレイは感嘆の声を上げた。
杯の中の茶は、工芸茶と呼ばれる高級品であった。
小さな珠のように丸められた茶葉に湯を注ぐと、茶葉が割れてパッと仕込まれた花が咲くように開くものである。糸でくくられた三連の貢菊花。味だけでなく、身目も麗しい花茶なのだ。
「綺麗……」
思わずうっとりと声を漏らすと、貴妃の声音が柔らかくなる。
「錦上添花。わたくしの名でもある菊の花をあしらった工芸茶ですから、気に入っているのです」
黄金色の茶の中を白い菊花がゆらゆらと花咲いている。
その杯にレイレイが口をつける寸前に、周囲がざわめき出した。花の苑、花の茶、夢のように美しい光景にその騒がしさはそぐわない。
貴妃も何事かと柳眉を僅かに動かした。皆の視線が一点に注がれる。その先にいたのは、この後宮の主であった。
工芸茶の歴史は浅いのですが、ファンタジーなので気にせず使いました。
こういう時、ファンタジーは気楽!(おい)




