六「二度と」
朝、レイレイは複雑な心境で起き上がった。
体調が優れないわけではない。けれど、頭が重いように感じるのは気が滅入るからか。
ため息をひとつ。この夢のことは自分の胸の中に収め、レイレイは着替えて朝餉の席に向かった。
「おはよう、ルーシュイ」
「おはようございます、レイレイ様」
爽やかに微笑んでから机の上に椀を並べるルーシュイ。レイレイは席に着いてからそんなルーシュイに言った。
「ねえ、ルーシュイ。ユヤン様にお会いしたいのだけれど」
「ユヤン様に? もしや、貴妃様のことですか?」
ルーシュイはいつも察しがいい。レイレイはうなずいた。
「それも含めて。でも、貴妃様のお立場が危うくなるような言葉は控えるわ。そこは弁えているから」
そう告げてもルーシュイはどこか心配そうに見えた。
「私はあまり、レイレイ様に後宮に関わってほしくはございません」
「わたしも関わるつもりはなかったのにね」
すると、ルーシュイは無言で嘆息した。
「けれど……ユヤン様にお伝えすることがあるのならば仕方ありません。参りましょう」
「ありがとう」
レイレイが夢で出会った貴妃は、美しいばかりではなかった。困難な現実を受け入れ、逃げずに待ち構えるような女性に見えた。その強さはシージエとよく似ている。そんなふうに感じるのだ。
だから、あの二人にもう少し接点を設けたい。
それが双方にとって余計なお世話だとしても。
ルーシュイが文を飛ばし、それから太極殿に牛車で向かった。ユヤンはやはりすぐには来ず、しばらくの間は執務室で待ちぼうけだった。
書物だらけのユヤンの執務室。ぽつりと座ったレイレイと背後に立つルーシュイ、二人の間にはあまり会話がなかった。ルーシュイの言葉が少ない。やはり何か引っかかっているようだ。
レイレイはくるりと体をひねり、椅子の上からルーシュイを見上げた。
「ルーシュイ、ごめんね。でも、ユヤン様にお話しするだけだから」
そっとレイレイがルーシュイの顔色を窺うと、ルーシュイは困ったように顔を歪めた。
「いえ、レイレイ様はお役目を果たされているだけです。そこに私が私情を挟んではいけないと思うのですが……」
「私情?」
「また、レイレイ様を後宮に入れるなんてことを言い出されないかと怯えてしまいます」
ルーシュイの心配は結局そこなのだ。ルーシュイは常にレイレイのことばかりを考えてくれている。見つめ合うだけでそれを痛いほどに感じて胸が疼いた。
「もう二度と見送れません」
切なくつぶやいたかと思うと、ルーシュイの長い指がレイレイの頬にかかった。フ、とレイレイはまぶたを閉じる。ルーシュイの髪がサラリとレイレイの頬にもかかった。その時――
「待たせてすまないね」
という詫びと共にユヤンが屏風を越えて顔を出したのである。レイレイはびっくりしすぎて悲鳴を上げそうになったのを堪えた代わりに、反動で椅子からひっくり返りそうになった。
その時のルーシュイも素早く姿勢を正し、何事もなかったかのように取り繕ったけれど、内心はかなりヒヤリとしたのではないだろうか。ひとつ咳払いをしたのは、気持ちを落ち着けるためだったように思う。
「いえ……」
ユヤンは後ろに次官のチュアンとレアンを従え、穏やかに微笑んでいる。何かを見ていたのか、いなかったのか、その笑顔からは何も窺えない。
「さて、話を聞こう」
人様の執務室で何をしていたと特に突っ込まれることもなく、ユヤンは平然とレイレイの正面に回り込んだ。いつもの定位置に座ると、ユヤンは机の上に手を組む。その整った顔を今はなんとなく直視することもできず、うつむきがちにぽつりと言った。
「あの、ユヤン様、貴妃様の夢を見ました」
すると、ユヤンの口元がぴくりと動いた。珍しく真顔になったユヤンに、レイレイは慌てて続ける。
「いえ、おかしな夢ではないのです。貴妃様――いえ、四夫人の方々が陛下がなかなか来られないと嘆かれていて……」
そこでユヤンはほぅ、と嘆息した。そんな仕草も優美だった。ユヤンはレイレイに向けて苦笑する。
「陛下はあの通りのお方だからね。今は国や政のことばかりをお考えだ。跡継ぎの問題はもう少しだけ待てと仰るばかりでね。まあ、私も陛下の望まれる通りにはできなかったので、今度ばかりは強くも言えない。貴妃様方には申し訳ないけれど」
何やら近頃はユヤンも待つ姿勢なのだろうか。以前ほど口うるさくはないようだ。
「けれど、貴妃様はとてもお美しくて芯の強い女性のようですね。あんな方がいらっしゃるのにお会いしないでいては勿体ないです」
思わずそう零すと、ユヤンはレイレイを見据え、不意ににこりと微笑んだ。
「ああ、そうだ。鸞君、貴妃様にお会いしに行ってはどうだろう? もちろん男は後宮には入れないから、鸞君護はここで待っているしかないが」
ルーシュイがぐっ、と背後で小さく呻いた。けれど、ユヤンはニコニコとしている。ユヤンが貴妃に会っていけと言うのはどういう理由からだろう。貴妃の退屈しのぎに付き合ってこいということか。
「ただし、非公式にだ。鸞君だということは伏せてお会いするように」
まあいい。貴妃に会えば何かが動くかもしれない。レイレイはうなずいた。
「わかりました。お会いしてきます」
ルーシュイと離れて行動するのは久し振りである。粗相をしないかだけが心配であった。




