三「二人のこと」
レイレイはぼうっとした頭を寝台から起こした。そのまましばらく座り込んでいると、雀の声が可愛らしく朝を告げる。
あの夢――
シージエの貴妃であるジュファは、どうやらシージエがあまり好きではないらしい。シージエはそれを知ってか知らずか、後宮にはあまり行かないままだ。
多分、シージエはそんなことまで気づいてはいないだろう。ジュファもシージエの前であからさまに嫌な態度は取らないだろうから。
後宮にはジュファの他にも美女が溢れ返っている。シージエは選り取り見取りであり、ジュファが気に入らないのなら他の娘を選べばいいだけの話なのだ。
あの二人の相性が悪いとして、放っておいても問題はない。
ツェイユーからすればジュファは恵まれた立場だろうに、どうにも人とは難しいものである。
レイレイは身支度を整え、そうしていつも通りに厨を覗き込んだ。まめまめしく働く背中がある。
「ルーシュイ、おはよう」
「おはようございます、レイレイ様」
にこり、と朝から爽やかに微笑みを返してくれた。
「もう少しで出来上がりますから、座ってお待ちください」
「うん、ありがとう」
レイレイは言われるがままに椀と湯匙が用意された紅木の机の前に座る。しばらくして熱い鍋を慎重に運ぶルーシュイがやってきた。机に鍋を下すと、蓋を開けて中の粥をよそい始める。その湯気の中のルーシュイを見上げながら、レイレイはぽつりと言った。
「ねえ、ルーシュイ」
「はい?」
「シージエ……ううん、陛下はどんな娘がお好みかしら?」
その途端、ルーシュイが手元を狂わせて高温の粥を椀を持つ手にかけた。先ほどまで煮えたぎっていた粥は相当に熱かっただろう。動揺したルーシュイは椀を落として割ってしまった。
「……っ」
「わっ! ルーシュイ、大丈夫!?」
レイレイはとっさに机の上の布巾でルーシュイの手についた粥を拭った。けれどルーシュイの手は赤くなっている。ルーシュイにしては珍しい失敗であった。
「すみません、驚かせてしまって。椀の欠片も危ないですから、どうか踏まれませんように。私はこれくらいすぐに治せますからいいのです。そんなことよりも、なんですか、その、陛下のお好みとは……」
火傷が痛むのか、ルーシュイは眉根をキュッと寄せた。レイレイはそんなルーシュイの手を引いて厨に行く。瓶の蓋を外し、中の水を柄杓で汲み上げて布巾を濡らすと、それを軽く絞ってルーシュイの火傷に当てた。
「ええとね、夢を見たのよ。後宮の貴妃様の夢。とーっても綺麗なお方だったわ」
「それで?」
皇帝の妃に興味をそそられないのか、ルーシュイは淡白に返す。レイレイはルーシュイの手を布巾で押さえながら続けた。
「陛下がなかなか後宮に来てくれないそうなの」
「……」
ルーシュイは何と答えていいものか困ったのかもしれない。無言で難しい顔をしている。
「貴妃様、陛下のことをあまり好ましく思ったことはないって……。それほどお会いしたことがないからなんじゃないかしら」
すると、ルーシュイは深々と嘆息した。
「互いのことなどよくお知りではないのでしょうね。そこは陛下がこまめに足を運ばれるしかないのではないですか?」
「どうしましょう? この夢の内容もユヤン様にご報告した方がいいのかしら?」
「それは……もう少しだけ考えてから動きましょう」
と、ルーシュイは歯切れの悪いことをつぶやく。
「お知らせして、それで貴妃様のお立場がどうなるのかがわかりません。陛下のご気性からして、そのせいで位から引きずり下ろすようなことはなさらないと思われますが……」
「うん」
「けれど、ユヤン様は陛下をもっと後宮に向かわせたいとお考えのようですから、もしかすると手を打たれるかもしれません」
そこでルーシュイはじっとレイレイを見た。その目の奥には珍しく戸惑いがある。はて、とレイレイが首を傾げると、ルーシュイはぼそりと言った。
「後宮の様子などレイレイ様がお気になさらずとも、内侍官が取り計らうことでしょう。その、あまり首を突っ込まない方がよろしいかと」
「そうねぇ。内侍官の人たちのお仕事を取ってはいけないわね。ただ、陛下のことをもっとよく知ったら、貴妃様も陛下のことをお好きになると思うから、それがもどかしくはあるのよ」
よく知らないまま、好きではないと言われてしまうことが、シージエの優しさを知るレイレイには悲しいのだ。
けれど、ルーシュイは苦々しい顔をしたまま、レイレイの手からぬるくなった布巾を受け取る。
「レイレイ様、後宮とはどのような場所かご理解されておりますか?」
「もちろんよ」
一時はそこへ入る予定であったのだ。何を今更とレイレイは思うのに、ルーシュイはため息ばかりつく。
「でしたら、くれぐれも夜間に行かれてはなりませんよ」
「わたし、夜しか行けないわ。昼に眠っている人なんて少ないわよ」
「いや、ですから……」
「何かしら?」
「……いえ」
その後、少し遅くなった朝餉を二人で食べた。ルーシュイはもう、あの話題には触れなかった。怒っているふうではないけれど、何か複雑な顔をしていた。




