十三「おもかげ」
その翌日、レイレイは太極殿に呼び出された。誰にかというと、ユヤンにである。
レイレイはルーシュイを伴ってユヤンの執務室へ向かった。牛車を降りてから次官の双子が案内してくれる。
「こんにちは、チュアン、レアン。久し振りね」
すると双子は揃って拝手拝礼した。おさげ髪の双子は出会った時から何も変わらない。
「お久し振りです、鸞君」
「お体はもうよろしいようで安心致しました」
二人はルーシュイのことはまるで空気のように接する。ルーシュイもまたそれで構わないといったふうに見えた。
「さあ、ユヤン様がお待ちです」
「参りましょう」
二人に促され、ユヤンのもとへと歩んだ。ユヤンはうずたかく積み上げた書物の陰で書類に判を押していた。多忙な尚書礼がレイレイを呼びつけたのは、大事な話があるからなのだと思う。
「お久し振りでございます、ユヤン様」
そう挨拶をしたレイレイに、ユヤンは書類から顔を上げて微笑んだ。銀糸のような髪がサラリと肩から零れる。
「ああ、よく来たね。体調を崩していたようだが、もう大丈夫かい?」
「ええ、すっかりよくなりました」
体調を心配してか、ユヤンはレイレイに椅子をすすめてくれた。ルーシュイはその背後の壁際に立つ。ユヤンはレイレイの正面に座り直すと、顎に軽く指の節を添える。
「そうは言っても、無理はいけない。今後のためにどんな夢を見たのか詳しく話してくれないか?」
レイレイは思わずルーシュイと顔を見合わせた。シャオメイのことをユヤンに話してもいいものかと思ったけれど、それは今更である。はっきりと名前は告げず、ある娘がとシャオメイの存在をぼかしながらレイレイは語った。
忙しいユヤンの心労を軽減するためか、執務室にはふわりと優しい香が焚かれており、レイレイもまたその香りに癒される思いだった。
「――なるほどね」
ユヤンが相槌を打った時、背後でカタリと音がした。その音がなんなのか、レイレイにはわからなかった。それほどまでにレイレイの意識もぼんやりとしていたのだ――
● ● ●
「稀にこういうこともあるのだよ」
ユヤンは嘆息すると椅子から立ち上がり、そうして香炉の蓋を閉じた。チュアンとレアンは警戒するようにルーシュイの顔を覗き込むけれど、ルーシュイは眉間に皺を刻んだまま座り込み、意識を失っていた。
「鸞君の不調、ずっと昔にもございましたね」
「あれは何代前でしたか」
「昔のこと過ぎて忘れてしまったけれどね」
と、ユヤンは嘆息する。
「鸞君の不調は『その夢を見てはいけない』という警告だ。ある条件のもとでのみ起こるようにあらかじめ術を施してある。大抵の鸞君は意識的に避けるのだけれど、彼女は大事な友人が絡んでいるせいで少々無理をしてしまったようだね」
「鸞君の見た夢のどこが不都合であったのでしょう?」
チュアンが小首をかしげる。レアンはああ、と思い至ったようだ。
「もしや……」
ユヤンは小さくうなずく。
「その娘の想い人は多分、リンショウのことだ。あれは好青年だからな、年頃の娘が好ましく思うのも無理はない」
「リンショウ様……ああ、何度かお目通りした覚えがございます。吏部試の時、審査――身、言、書、判、四項の評価の総合が優秀なお方でしたね」
『身』上に立つ者として相応しい風格は文句のつけようもなく。
『言』言葉も丁寧であった。
『書』字も堂々と素晴らしかった。
けれど、『判』――ここに少し問題があった。法による正しい判決を下せるかというと、このリンショウはどうにも優しすぎた。情に流される部分が否めない。
よって、『判』の評価のみ少々落とされたのだが、それでも優秀な人材であることに変わりはない。
チュアンはその名を口にしつつもまだ気づかないようだ。レアンの方が呆れていた。
「鸞君は任命された時にそれまでの記憶を消されます。けれど、何かの拍子にその記憶が戻る可能性も皆無ではありません。ですから、そのきっかけを与えぬように、その記憶に関わるものに夢で触れた時、不調が起こる……のでしたね」
ユヤンは微笑んで、そうして人差し指を唇に添えた。
「不正や謀反、よほどの悪事が絡んでいた場合はその術も一時的に解除するけれど、今回の件はそれには相当しないからね」
「つまり、鸞君とリンショウ様は――」
チュアンは眠るレイレイの顔に彼の貴人の面影を探し当てた。だから当代の鸞君を知る、あの女官であった娘はリンショウに端から親しみを感じたのではないかと。
「鸞君には今回のことを忘れてもらうよ。鸞君護にもね」
「鸞君護は鋭いので記憶の穴に気づいてしまいませんか?」
「確証がないうちは何も言わないだろう。下手を打てば今の地位から降ろされて他の男を鸞君護にされる――聡い彼ならそこまで考えるだろうからね」
フフ、と軽く笑う尚書礼。一番敵に回してはいけないのはこういう相手なのだ。双子の次官は誰よりもそれをわかっているつもりである。
まあ、とユヤンはつぶやく。
「リンショウがもしあの娘を選ぶのであれば、鸞君とは義姉妹になるわけだ」
「選びますか? リンショウ様が身分も何もないただの娘を」
レアンにはとてもそうは思えなかった。けれど、ユヤンは楽しげである。
「気に入らない者であったのなら、そもそも雇い入れたりはしなかっただろう。――それから、その娘のひととなりは、力になろうとする鸞君を見ていればわかるだろう? 血は争えない。リンショウも選ぶだろうよ、きっと」
ユヤンがそう言うのならばそうなのだ。次官たちはそれだけで納得してしまうのである。
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レイレイは牛車の中でぼんやりとしていた。あ、と声を漏らした時、自分の声に驚いた。それが何故だかわからない。
隣にいたルーシュイも寄り添っていたレイレイがびくりと体を強張らせたことで我に返ったようだった。
「レイレイ様、どうかされましたか?」
「え? ううん、なんでもないわ」
今日はユヤンに呼ばれて太極殿にやってきた。ここ数日、レイレイが体調を崩してしまっていたので、職務に支障がないかを訊ねたかったのだろう。
体調不良からの回復は早く、今では嘘のように体が軽い。それを伝えただけだった。
ルーシュイは何か眉間に皺を寄せ、そうして難しい顔をした。
「ルーシュイ?」
呼び声に、ルーシュイは軽く首を振ってから微笑んだ。
「すみません、ぼうっとしたりして。……夕餉は何に致しましょうか?」
「うーん」
「甘甜心は駄目ですよ」
「わかってるわよ。じゃあ咕咾肉がいい」
と、ルーシュイの好物を上げてレイレイは笑う。ルーシュイも微笑んで背後からレイレイの腰回りに腕を回した。
「でも、少し痩せられましたね」
「へっ?」
「たくさん食べてください。あまり痩せ過ぎないで頂きたいので」
何か、耳元で恐ろしいことを言われた。レイレイが固まっていると、ルーシュイは吹き出した。
「嘘ですよ。太っても痩せてもレイレイ様は特別ですから」
「すぐそうやって甘やかす……」
レイレイはルーシュイとじゃれ合いつつ、ふと何かを忘れているような気がした。けれど、よく考えたら忘れ物をするほどレイレイは物を持ち歩いていない。気のせいか、と思い直したのだった。
その晩、ルーシュイの作った夕餉をぺろりと平らげ、レイレイは平穏な一日を過ごした。
《 +海榴の章+ ―了― 》




