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五「その夜」

 明日、皇帝に目通りが叶う。

 ルーシュイは茶を運んできたシャオメイにそれを告げた。蓋をされた芍薬の絵柄の茶碗をふたつ、ルーシュイの前に置く。シャオメイはどこか緊張した面持ちだった。本来ならば皇帝とはそれほどまでに尊い、名を口にするのも憚られる存在である。

 けれど何も覚えていないレイレイは気楽なものだった。


「ねえねえ、皇帝陛下っておいくつなの? どんな方?」

「御齢十八歳になられたばかりだそうです。ご即位なされたのはついひと月前。まだ詳しいことは私も存じ上げませんが、幼少期から利発な御子であらせられたそうです」


 ひと月前とは意外だった。つい最近のことと言える。


「新たな皇帝陛下が立たれた時、いろいろな場が一新されるのですよ。先帝の御子をお産みあそばすことができなかった後宮の女性は例外なく尼寺へ行きます。官僚はすべてとは言えませんが、鸞君は新たに任命されます」


 贅沢な話である。などと不遜なことを思うのはレイレイくらいで、それは当然のことなのだろう。

 そうして、自分がこのような状態にあるのもレイレイなりに納得した。皇帝が新たに就いたからなのだ。

 けれど、別の疑問もまた湧くのであった。


「任命って誰がするの? 陛下?」


 そもそも、何故レイレイは選ばれたのだろう。

 ルーシュイは茶碗を片手で持ちながら言う。


「いえ、陛下のおそばにおわします、尚書令しょうしょれい様でございます」


 尚書令は吏部、戸部、礼部、兵部、刑部、工部から成る六部を司る尚書省の長である。人事を担当する吏部の上に君臨する人なのだ。鸞君を決めるのもそうした人なのかと。

 すると、ルーシュイはじっとレイレイを見た。その目には探るような色があった。


「尚書令様のことも覚えてはおられないわけですね?」

「うん」


 眠りにつく前に一度くらいは会っているというのだろうか。けれど、覚えがない。

 だから、レイレイはためらいなくうなずいたのだ。

 ルーシュイは小さく嘆息する。


「尚書令様――彼のお方だけは皇帝陛下が代替わりしようと変わらずにその地位にいらっしゃいます。もう、何十年と」

「へ?」

「尚書令という立場上、次官の左僕射、右僕射をつけておられますが、尚書令様ご自身は半仙とお聞きします」


 よくわからないけれど、半仙とは半分仙人ということだろうか。そこでふと、あの夢の中で出会ったユヤンこそがその尚書令ではないだろうかという気になった。

 もしそうだとすると、昨日の夢の中で失礼はなかっただろうか。

 ルーシュイはようやく茶に口をつけ、それを申し訳なさそうにレイレイに差し出した。


「すみません、話し込み過ぎて茶が冷めてしまいました」


 レイレイは思わず笑ってしまった。


「わたし、熱いの苦手だからいいわ」


 コロコロと笑うレイレイをシャオメイは眩しそうに眺めていた。



    ● ● ●



 そうして、その夜。

 明日は皇帝に謁見する大事な日だ。レイレイなりに気が昂っていた。それを察してくれたのか、シャオメイが香炉を枕もとに置いてくれた。甘く優しい匂いが寝台を包む。


「これでお心が安らぐとよいのですが」

「ありがとう。うん、いい香りね」


 シャオメイは気働きのある有能な女性だ。茶をいれるのも上手だし、彼女がここにいてくれて本当によかったと思う。

 シャオメイは凛とした仕草で頭を下げると居室を後にした。レイレイはその香りをいっぱいに吸い込んで寝台に横たわる。気分はすっかり落ち着いたのか、眠気が耐え難いものに感じられた。


 うつらうつらと眠りに落ちる。

 今宵はどんな夢を見るのだろう。

 けれど、夢は見なかったのだ。夢の代わりに見たものは、見たくない現実であった。



 ――シャオメイが灯燭の明かりを頼りに回廊を歩いている。夜も更けたというのに働き者な彼女だ。

 手には香炉を大事そうに抱えている。それはレイレイの枕元に置いてくれたものと同じかなえのような脚をしたものである。レイレイはそれをどこかから見ていた。


 シャオメイは香炉をとある格子窓のそばへ置いた。その部屋は、今ならわかる。ルーシュイの部屋だ。中庭を挟んで門を護るためにか入り口の方にある。

 レイレイの気を鎮めてくれたようにルーシュイのことも気に留めてくれていたのかもしれない。気配り上手な彼女だから。


 そう、思っていた。けれど、彼女はそのまま自室へは引かずに歩き出す。

 しずしずと、音もなく歩く。そうして彼女がやってきたのはレイレイの居室の前である。ためらいがちに手を伸ばし、一度指を引っ込めた。その手はシャオメイの上下する胸もとへ行き、そうして強く握った後に扉を開いた。


 音は極力立てぬよう、細心の注意を払っているのがわかった。そうっと靴音を立てず、月明かりの漏れる中、レイレイの寝台へと近づく。レイレイはその異常な感覚をようやく自覚した。

 寝台でレイレイはかすかな寝息を立てて眠っていた。だというのに、レイレイの意識はしっかりとあるのだ。それも、視点はまるで宙に浮いているかのように上から見下ろす形で。


(何これ……)


 けれど、声にはならなかった。話すことはできない。だから、シャオメイに何かを問うことはできなかった。

 シャオメイはぽつりと声を漏らす。


「ごめんなさい……」


 そうして、彼女の頬を涙が伝った。シャオメイは懐から腰紐を取り出すと、それを両手でゆっくりと伸ばした。その動きは緩慢で、時を浪費するための仕草に思えた。けれどその腰紐が弛んで、眠るレイレイの首筋に触れる。


(まさか……)


 レイレイは今、シャオメイによって命を絶たれそうになっているのだろうか。そんなことがあるものなのだろうか。

 わからないけれど、このままでは死んでしまう。それは嫌だ。


 こんな状況だというのに、レイレイは目覚めることができなかった。今になってあの香炉にくべられた香に睡眠作用があったのだと気づく。すでに燃え尽きた香はたっぷりと煙を吸い込んだレイレイを眠らせ、効果が弱まってから入室したシャオメイの妨げにはならない。そこまで計算して用意されていたのだ。ルーシュイもこの香に眠らされているのか。

 レイレイは叫んでいた。


(助けて!)


 声にはならない叫びは誰にも届かない。

 シャオメイの手が、尋常ではなく震えていた。これから成そうとしていることを思えば当然かも知れない。何故シャオメイがという気持ちが押し寄せる。そんなにも嫌われていたのだろうか。

 少しずつ仲良くなれればと思っていただけに、彼女に殺されることが悲しい。


 ここで死ぬのなら、あの日覚醒する前にやればよかったのにと半ば自棄になって思った。そんな時、居室の扉が破られたのかと思うような力で開かれた。


「っ……!」


 他の誰かであるはずもない。ルーシュイだった。

 白い寝衣の襟首が乱れ、額には脂汗が浮いていた。それもそのはずで、左袖は血の色に染まっていた。

 ルーシュイはレイレイに見せたこともないような冷徹な目をシャオメイに向けた。


「レイレイ様をどうするつもりだ?」

「あ、あの、私は……っ」


 シャオメイはサッと腰紐を背中に隠した。けれど、ルーシュイに申し開きは通用しなかった。


「明日、謁見されればレイレイ様は鸞君として正式に叙任される。その前にレイレイ様と私を殺害して入れ替わるつもりだったというところか?」


 その声には凄みがあった。いつもの良家の子息然とした空気はなく、まるで幽鬼のようでさえある。激しい怒りを湛えた、そんなルーシュイに大罪を犯そうとした彼女でさえも怯えていた。


「鸞君のお役目は、陛下のお力となり治世を導くお手伝いをされることだ。偽者が成り代われば己たちの都合のよいことを告げて陛下を惑わせる。もし鸞君と私を亡き者にし、偽者と挿げ替えることができたなら、奸臣どもから浴びるような褒美をもらえるだろう。鸞君付きの女官という名誉ある役割を与えられながらも、金に目が眩んだと、そういうわけか」

「それは……」

「残念だが、陛下にお目通りする前とはいえ、鸞君の選定する儀式を行うのは尚書礼様だ。鸞君と私の顔くらいはご存じだ。尚書礼様の目をごまかすことなどできぬだろう」


 シャオメイは口を押え、涙がその手を伝って床に落ちた。けれど、ルーシュイの瞳は凍てついていた。あんな目をする人だっただろうか。


「神聖な鸞和宮を血染めにするわけには行かぬのでな、口惜しいが手は下せぬ。明日、刑部に突き出してやろう」


 がっくりと項垂れて崩れ落ちたシャオメイ。

 けれど、こんなことになったのに、レイレイにはどうしてもシャオメイが欲に目が眩むような人間だとは思えなかった。


 わけを知りたい。これほど大それたことを行うにはそれなりの理由があるはずだ。だから、それを知りたい。そう強く思った瞬間だった。レイレイの意識は融け、まるで誰かに混ざり合うようだと感じた。

 不意に、目の前の景色が変わった――


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