四「初夢」
ルーシュイとシャオメイ――目覚めて出会った二人。
まだ打ち解けたとは言えないけれど今日はそれでも楽しく過ごせた。
露天の湯殿は宮の奥にあり、シャオメイが手伝ってくれた。湯上りには清潔な白い寝衣を身につけさせてもらう。レイレイは体があたたまって頬をほんのりと染めた。ほぅと息をつくと、シャオメイはそんなレイレイをそっと見守っていた。
「ではもうご就寝になられますか?」
「うん、そうね」
眠って起きて、それでもまた眠ることになるのだ。一日は存外短い。
着替えをしたあの部屋が今後のレイレイの寝室であるらしく、またそこへ通された。
「私は隣の部屋に控えております。何か御用がおありでしたらお呼びくださいませ」
「ありがとう。お休みなさい」
拝礼するシャオメイを見送り、レイレイは寝台に腰を下ろした。疲れるようなことは何もしていないけれど、それでも睡魔は襲ってくる。ふああとあくびをして枕に頭を載せた。そうしていると、まぶたが自然と落ちる。
レイレイは知らず知らずのうちに小さな寝息を立てていた。
● ● ●
――夜空に一片の月が輝く。
レイレイが就寝してからどれほどか時が経ったはずだ。
その時、レイレイは何故か見知らぬ場所にいた。昼夜の区別もない、薄ぼんやりとしながらも明るい場所だった。
白濁した視界の中、一人佇む。その風光はまるで霧の深い仙界、雲に覆われた神山といった場所に思えた。何故そう思ったのかもよくわからないけれど。
「ルーシュイ? シャオメイ?」
呼べる名前が他にない。
仕方なくレイレイは歩いた。地面を踏み締める感覚は確かにある。踏み外せば谷底へ落ちるという不安は不思議となかった。
そういえば、何故か服装が昼間と同じである。寝衣に着替えたと思ったのは気のせいであったのだろうか。靴もちゃんと履いていた。
とぼとぼと歩いていると、霧の中に人影があった。
背の高い男性だ。長髪を編んで背に流していることが窺えた。彼は一体――
「あの、どなたですか?」
声をかけてみる。けれど声は届かなかったのか無言のままである。
けれどこの影、レイレイにとって悪いものではないように感じられたのだ。どこか身近ですらある。
その時、彼の周囲だけ霧が晴れた。
「やあ、こんばんは。当代の鸞君とお見受けする」
白銀の長い髪に金色の瞳。鬱金色の深衣に身を包んだ美人であった。人とは思えぬ神々しさで神仙とはこうしたものかと思わせる容姿である。その青年は言葉を失ったレイレイに微笑を浮かべながら言った。
「私はユヤンという者だ」
声の響きも弦を爪弾いた音色のように頭を支配する。けれどレイレイはようやく我に返って答えた。
「わたしはレイレイです。鸞君だとは告げられたのですがまだよくわかりません」
正直にそう答えるとユヤンは穏やかに笑った。
「記憶がないのだからそれも無理はない。初めは皆そうだ」
「ユヤン様は仙人様ですか?」
そうであっても不思議はない。そんな気がしたのだ。ユヤンは微笑を保っている。
「まあ、そのようなものだ。詳しくは現で会った時に話そう」
現でとはおかしなことを言うと思った。小首をかしげたレイレイにユヤンは子供に言って聞かせるように、辛抱強くゆっくりと語った。
「これは夢の中だ。今、我らは夢を共有しているのだよ」
「そうなのですか?」
感覚や意識は覚醒時とほとんど変わらないけれど、夢だと言われるのならば夢だろうとレイレイはあっさりと思った。
「こうして先に夢の中を訪れたのは、君に忠告があるからだ」
「はい?」
「君が見た夢の話は誰にもしないこと。陛下に謁見したその後でなら鸞君護には語ってもよいが、女官や出入りのある商人などにも一切語らぬこと」
意味はわからないけれど、こうしてわざわざ夢を訪れてまで告げることならばそれなりに意味のあることなのだろう。レイレイなりにそう理解した。
「はい、わかりました」
素直に答えると、ユヤンは金糸のような髪を揺らしてうなずいた。
「では、いずれ近いうちに」
ふい、とユヤンは煙のように掻き消えた。それから他の影を捜したけれど、ひとつも見当たらなかった。
考え込んでいるうちに覚醒した。
チュンチュンと雀の鳴く声と朝日が目覚めを促す。レイレイはそっと体を起こした。
「夢? ……夢?」
そのつぶやきに答えはまだ得られない。
● ● ●
不思議な夢を見た朝、レイレイは夢の中でユヤンに言われた通りに夢の話は誰にもしなかった。
シャオメイは今日もレイレイの身支度を整えてくれた。支度を終えて部屋から出る。ルーシュイにもどこか部屋があてがわれているのだろうけれど、どの辺りなのかは知らない。広間に行けば会えるかと思った。シャオメイは仕事があるそうなので別れて一人広間に向かう。
そうしたら、そこにルーシュイがいた。昨日と同じ紅木の机のそばにいる。
「おはよう、ルーシュイ」
挨拶をするとルーシュイは立ち上がって拝礼した。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
どう答えてよいものか、レイレイは曖昧にうんと答えた。
「それはようございました」
レイレイを正面に座らせると、ルーシュイも再び席に着いた。ルーシュイはレイレイの前に懐から取り出した書簡を置く。金色の綺羅綺羅しい筒に収まっている。
「何これ」
「皇帝陛下からの勅旨でございます」
「へ?」
つまり、皇帝からお呼びがかかったと。
「明日参内するようにとのことです」
「そうなの? ねえ、ルーシュイは一緒に来てくれる?」
さすがに右も左もわからぬ中、一人は不安だ。ルーシュイとも知り合ったばかりだけれど頼りにはなると思う。
「もちろんです。私はレイレイ様の護衛ですから、出向かれる先にはすべてお供致します」
「ありがとう」
礼を言ったけれど、ルーシュイはそれを当たり前の責務と捉えているようだった。
そう、ルーシュイはどこか冷めている。自分に課せられた役割であるから全うしている、そんな気色が見える。それが隣に立ちながらもはっきりとした線を引かれているようで、レイレイは複雑だった。それを不満に思うのは贅沢なことかもしれないけれど。
「ねえ、ルーシュイ」
「はい」
「今日はあなたの話を聞かせて」
「え?」
ルーシュイは涼しげな面立ちに困惑の色を浮かべた。
「どういう家で生まれ育って、どうして鸞君護になったの?」
それを知れば彼のことが少しは見えて来ると思ったのだ。けれど、ルーシュイは綺麗に微笑んだ。その笑顔は鉄壁であった。逆に突き放されたような気さえする。詮索などしてくれるなと思うのだろうか。
「そうですね、身許もはっきりとせぬ男がそばにいるのでは落ち着きませんね」
「そういうことじゃなくて!」
頬を膨らませたレイレイに、ルーシュイは苦笑しながらも答える。
「私は先代皇帝の御世に戸部尚書を務めた父を持ちます。幼少期は地方で育ちましたが、十を越える頃からはずっとこの城市におります。日々精進し武科挙に合格したとはいえ、若輩の私に鸞君護の命が下りましたことは驚きでございました。尊い御身をお護りするに当たり、拙い身ではございますが全身全霊をとしてお役目を全うする覚悟を致しております」
戸部尚書、つまり土地、戸籍、官人への俸給などを管理する役職の長である。六部と呼ばれる財政に関わる重要な職掌だ。
ルーシュイはやはりイイトコの息子なわけで、育ちがよさげなのももっともだった。
ただ、こうして語られたはずの身の上話がルーシュイをより遠く感じさせる。がっちりと固められてどこにも隙がないのだ。レイレイは呆れてしまった。
「そういうのはもういいわ」
「は?」
「ねえ、好きな食べ物は何?」
年頃の少女らしくレイレイの話が飛躍する。ルーシュイははぁ、と声を漏らした。
「……咕咾肉?」
そのひと言にレイレイは微笑んだ。ルーシュイはただ戸惑うばかりである。
「わたしは甜点心が好き」
するとルーシュイはクスクスと笑った。その笑顔は今までよりも自然に映る。
「太りますよ」
などと軽口まで叩く。けれど、すぐにコホンとひとつ咳をしてバツが悪そうにスミマセンとつぶやいた。
けれど、そんな様子がレイレイには嬉しく感じられた。素のルーシュイを垣間見た気分だったのだ。
「ねえ、もっとこういう話をしましょう」
「はぁ」
気のない返事である。
それでもめげずにレイレイは言った。
「ずっと一緒に過ごすなら楽しい方がいいでしょう?」
なんとも気楽な主だとルーシュイは思ったかもしれない。けれど、笑い返してくれたからいいかとレイレイは思った。