三「梅下の茶会」
まず、この鸞和宮の探索である。この中ならば好きなところへ行ってもいいとのことだ。
レイレイはこの広い敷地をうきうきと歩いた。回廊を進み、部屋をひとつひとつ覗く。どの部屋も豪華であったけれど、何かが足りない。どうしても寂しいと思う。そうして気づいたのだ。
「……ねえ、ルーシュイ」
「はい?」
広間へ戻ってくつろぐルーシュイに声をかけた。
「この宮に人は何人いるの?」
出会ったのはシャオメイだけ。その他には誰一人として顔を合わさなかった。
「何人……レイレイ様と女官のシャオメイ、私の三人ですが?」
事も無げにルーシュイは返す。
けれど、この館は三人で過ごすには広すぎる。それも雑用をするのはシャオメイだけ。一人で切り盛りできるとは思えない。
それでもルーシュイはあっさりと言うのだった。
「もちろん外には警護の衛士が大勢控えておりますが、中に入れるのは私と世話役の女官一人だけです。あなた様のそばに近づける人間は厳選されているのですよ」
二人に不満があるわけではないけれど、こんなに広い場所にたった三人というのがなんとも奇妙だった。
「それならこんなに広い宮は要らないじゃない。もっと小さな小屋でよかったんだわ」
そう言ったレイレイにルーシュイの方が呆れたふうだった。
「小屋ですか? 三人で川の字に寝るので?」
「そうよ。楽しいでしょ?」
レイレイが笑ってみせるとルーシュイは嘆息した。
「畏れ多くて私は眠れませんね。それから、この宮には意味がございます。そう嫌わないでください」
「別に嫌ってなんてないわ。ただ広すぎて寂しいだけ」
「では庭の花を愛でてはいかがでしょう」
花はお喋りを返してくれない。けれどルーシュイも小娘の話し相手には辟易としているのかもしれない。仕方がないので、言われるがままに中庭へ向かった。
中庭には蒼穹によく映える梅の花が咲き誇っている。湧き水が池を満たし、小川がサラサラと流れ行く。池をまたぐ反り橋に立ち、レイレイはあたたかな風に吹かれた。それは心地のよいものであった。
思わず大きく伸びをした。そうしてから考える。この身に皇帝の力となり得る何かが眠っているらしい。考えてみてもまるでわからない。
まさか、皇帝の妃妾となって御子を産めとかそういう話なのだろうか。そう考えて首を捻る。
皇帝ならば後宮に溢れんばかりの美女を抱え込んでいるはずだ。第一そのために記憶を消すような術をかけられるとも思わない。
やはり、考えてわかる問題でもなさそうだ。
「いい天気ねぇ」
ぼんやりとそんなことをつぶやいた。
わからないことだらけ。それなのに、不安なのかどうかもわからない。
ルーシュイの言葉通りなら、レイレイは家族も友人もすべて忘れてしまった状態なのである。
覚えてもいない家族に対し、申し訳ないというような気持ちは一切湧かなかった。輪郭さえ思い出せない相手にそれは無理なことだ。
その家族がレイレイを案じて過ごしているとしたら悪いけれど。
以前はどんな暮らしをして、どんな風に振舞っていたのだろう。そう思うと何かむずがゆい気分になった。けれど、過去を振り返ることもできないなら、今は前を向くしかない。
「きっと、なんとかなるわよね?」
そう口に出したのは、レイレイがそれを望んでいるからだった。
そんな彼女にシャオメイの声がかかる。
「レイレイ様、こちらにおいででしたか」
黒髪を揺らして振り返ると、表情に乏しいシャオメイが背筋よく佇んでいた。
「茶の支度が整いましたが、いかがされますか?」
「ありがとう、頂くわ」
にこりと微笑んで返したレイレイに、シャオメイはほっとした様子だった。
「では、こちらへ」
と、レイレイを促すシャオメイに、レイレイはあっさりと言った。
「こんなによい天気なんですもの。ここで頂きましょう?」
「は、はい。レイレイ様がそう仰られますなら……」
そんなわけで梅の花を愛でながら中庭で茶会を繰り広げることとなった。ルーシュイは机を運ぶはめになったが、レイレイ様が望むのならと言ってくれた。本心では、何をわざわざ外でと思うだろう。けれど、レイレイがそう言う以上は従わざるを得ないのだ。
背の低い机と床几が運ばれ、シャオメイが茶器を盆に乗せて中庭にやってくる。レイレイとルーシュイは床几に座って待った。
シャオメイは手際よく茶器を扱う。竹でできた茶則に茶葉を移し、湯で温めた茶壷へ移す。茶葉が溢れんばかりに湯が注がれると芳しい湯気が花の匂いを掻き消した。茶杓を滑らせ灰汁を取ってから蓋をすると、茶を閉じ込めた茶壷へ湯をなみなみとかける。受け皿である茶船に溜まった湯を捨て、よく蒸し上がった茶を一度茶海という器へ移す。この手間が茶の味を均一にするのだ。
シャオメイは丁寧に茶を聞香杯へ注ぎ、一度注いだ茶を更に品茗杯へ移し、空の聞香杯を恭しくレイレイに差し出した。
「どうぞ香りをお楽しみ下さい」
やや背の高い細身の聞香杯は茶を飲むためのものではなく香りを楽しむための杯である。レイレイはそれを受け取ると茶の匂いを嗅いでみた。爽やかな香りが鼻先をくすぐる。
「ええと、菊花茶?」
レイレイが深く考えもせずに発した答えにシャオメイは初めて笑顔を見せた。
「正解でございます。レイレイ様はお詳しいのですね」
何故知っているのかもわからないのでレイレイは笑ってごまかした。けれど、シャオメイに褒められて嬉しくなる。
ぽかぽかとした気持ちになっていると、茶の注がれている品茗杯はまずルーシュイへ差し出された。ルーシュイは洗練された仕草で匂いを確かめ、軽く茶を唇に乗せる。そうして杯をレイレイの前に置いた。
「どうぞ」
回し飲みである。品茗杯は他にもあるというのに。
その疑問がレイレイの顔に出ていたのか、ルーシュイはバツが悪そうに言った。
「レイレイ様が服されるものはすべて私が毒見致します」
「え」
毒殺の危険があるのか。そのことに驚いたレイレイだったけれど、ルーシュイには自分が毒見をすることを嫌がられているふうに受け取られたのかも知れない。複雑そうである。
「ルーシュイ、毒に耐性があるの?」
「多少は」
「でも、ここには三人しかいないんでしょ? じゃあ大丈夫よ」
簡単に言ったレイレイに二人は戸惑う。
「だって、シャオメイは毒なんて入れないでしょ?」
「え、ええ、それはもちろん」
「ほら」
レイレイが微笑むと、ルーシュイは嘆息した。
「ですが、念には念を入れねばならぬのです。どうか我慢されてください」
ルーシュイが毒見をすることが当たり前になる。いつかは慣れるものなのだろうか。
まあいいかとレイレイは割りきった。
「ねえ、シャオメイも飲んだら?」
「え、いえ、私は分を弁えて――」
「だってここ、三人しかいないんでしょ? 仲良くしたいの。ほら、座って?」
トントン、と隣の床几を叩く。シャオメイは困惑してルーシュイを見遣った。何か困らせてばかりいるような気もしてきたけれど、今さらだ。
ルーシュイは苦笑した。
「レイレイ様の命だ。従うように」
「……はい」
最初から床几は三つ。そのつもりで用意してもらったのだ。観念して腰を据えたシャオメイにレイレイはにっこりと微笑みかける。お茶請けの干杏、干芒果、干藍苺も楽しみつつ、レイレイは自分の状況はそっちのけで幸せな心地がした。