六「故郷へ」
レイレイを気遣い、ルーシュイは馬を走らせなかった。だから、城市に戻った時には夕刻にもなっていた。後ろに続くフェオンは、そのもたもたした歩みに鬱憤を溜めただろう。
城市の中を馬に乗って歩くのは問題を起こしてくれと言っているようなものだ、とルーシュイはフェオンが乗って来た馬を馬宿の馬丁に引き渡し、そうして得た金銭をフェオンに与えた。これで新しい服を買え、と。
自分で選んであげるつもりはしていただろうけれど、その暇がなくなったのも事実だ。
ルーシュイは葦毛の馬を引き、北に向けて進んだ。西門から城市に入ったのだから、白雲閣の近くも通った。そこでふと、シージエのことを思い出した。
「そういえば、シージエはどうしたかしら? 気にして来てくれていたなら悪いことしちゃったわね」
さすがにこの時間まで宿で待っていることはないだろうけれど。
「次に会うことがあれば説明すればよろしいかと」
シージエの住まいも知らない以上、向こうから現れてくれないと連絡の取りようもないのだから仕方がない。
「そうね、またそのうちに会えそうな気もするわ」
その日が暮れ行く道中、フェオンは押し黙ってひと言も話さなかった。
ルーシュイが向かったのは、ルーシュイの実家である。邸宅は番兵もおり、門構えからして物々しい。棍を手にした番兵二人はルーシュイの姿を認めると、気を引き締め直して拝礼した。そんな番兵に、ルーシュイは馬の手綱を渡す。
「馬を返しにきた。父上は中か?」
「はい、中でお待ちです」
暴漢たちの捕縛にルーシュイの父自らが赴くはずもない。手配をしてくれたにすぎないだろう。
ルーシュイはフェオンの背を押すと、番兵たちに告げた。
「この子を父上のもとまで連れていってくれ。話は通してある」
「はっ」
くたびれた格好のフェオンだけれど、ルーシュイの言葉なら番兵たちは疑うこともないようだ。これでフェオンはひと安心なのかとレイレイは息をついた。けれど、フェオンは番兵のそばで不安げにルーシュイを振り返った。目にいっぱいの涙を溜め、すがるような弱々しい声を上げる。
「ルーシュイ、お願い。中まで一緒に来て……」
心細いのだろう。それも当然だ。レイレイがルーシュイを見上げると、ルーシュイは何故か感情らしきものを顔に浮かべていなかった。何故、今、そうした面持ちになるのか、レイレイはもちろん、フェオンにも理解できなかっただろう。フェオンもどこか傷ついたような顔をしていた。ルーシュイは薄い唇を開く。
「私ができることはした。これで故郷に帰ることができる。もう心配せずにいたらいい」
それだけを感情を込めずに言うと、レイレイの腕をそっとつかんでその場を去った。あんなに心を砕いていたのに、この最後はなんだというのか。
「ルーシュイ?」
呼びかけても答えず、ルーシュイは前だけを向いて早足で歩む。レイレイも振り返ることすらできなかった。人通りの少なくなった時間であるため、そんな歩き方をしてもぶつかることはない。ルーシュイは通りで馬車を拾った。レイレイも、歩いて帰るには少し疲れていた。
庶民が使う馬車だ。板が敷かれているだけの座席だけれど、文句は言えない。その車内で、ようやく解放されたレイレイはルーシュイの隣で彼に詰め寄る。
「ねえ、さっきの言い方、突き放すみたいで可哀想だったよ。あんなに気にかけてたのに、どうして最後に冷たくしたの?」
その問いかけに、ルーシュイなら軽く返してくると思った。けれど、この時は違ったのだ。
ひどくしょんぼりと項垂れる。
「そうですね、全部私が悪いのです」
「えっ」
そこまでは言っていない。いつものルーシュイならこんなことは言わない。
一体どうしてしまったのか。
すると、ルーシュイはまるで捨て犬のような目をレイレイに向けた。
「フェオンのことを助けてやりたいと思ってしまったのです。けれど、それは私の心の、いわば私情です。何もかもを差し置いて優先すべきものではあってはならないのです。私が下手に動いたばかりに、レイレイ様を危険にさらしてしまいました。だから私はもう、レイレイ様以外の誰かを救おうなどと思ってはいけないのです」
「え、その、困っている子供を助けたいと思うのは当たり前でしょ?」
職務熱心なのは結構だけれど、そこまで思い詰めなくてもいいとは思う。レイレイがたじろいでも、ルーシュイはまるで独り言のように語り続けた。
「困っている子供と言うのではなく、私がフェオンを助けたいと思ったのは――」
と、そこでルーシュイは我に返ったかのように言葉を止めた。整った顔をくしゃりと歪めて、そしてゆるくかぶりを振る。
「申し訳ありません。今はまだ……」
今はまだ、言えないと。
レイレイはその瞬間にほんの少し寂しさを覚えた。全身全霊で護り抜こうとしてくれる半面、心は預けてくれない。それがルーシュイなのだと思っても、何かが悲しい。
けれど、不用意にそれに触れてしまってはいけないのだと、レイレイは本能的に感じたのかもしれない。問いただすことはとてもできそうになかった。
だから、そう、とつぶやいたのみである。
すると、ルーシュイの手が伸びてレイレイの髪の束に触れた。首をかしげたレイレイにルーシュイはひとつ微笑むと、その髪に唇を落とした。
気障な仕草が様になるのはわかったけれど、いきなりそういうことをするのはやめてほしい。妙に動揺してしまったレイレイはしかめっ面をしてそれを隠すのが精一杯だった。
それから数日後。
青い草原が広がる中、色とりどりの刺繍が入った、動きやすそうな衣装をまとい、白い雲が過ぎ去る空を見上げるフェオンをレイレイは夢に見た。
レイレイは彼女と仲良くしたいと思っていた。いつか再会することがあるのなら、今度こそ仲良くできるといいのにと、笑顔で馬を駆る少女の姿を目に焼きつけた。
《 迷子の章 ―了― 》




