三「懐かしき草原」
食事を終えた後、湯殿へ行こうかとフェオンを誘った。けれど、フェオンはうなずかなかった。
「あまり人目に触れるのはよろしくないですから、今日は諦めてください」
ルーシュイにそう言われてしまった。湯殿には宿の客が集まる。その中でフェオンが不安を感じるのは仕方がないことなのだろう。
「じゃあ、早めに寝るしかないわね」
「そうしてください。明日には父のところへ行って参りますので」
そこでふと、レイレイは考えた。
「部屋はふたつよね。組み合わせはどうするの?」
「どうって……」
ルーシュイが言葉に詰まった。レイレイは小首をかしげて考え込む。
「わたしとルーシュイ、わたしとフェオン、ルーシュイとフェオン、どれにする?」
「……私とレイレイ様がご一緒することはありません」
「そうなの?」
「そうです」
レイレイにしてみれば今さらなので、一緒の部屋でも平気だと思うけれど、ルーシュイは気になるらしい。
「フェオンも女の子ですから、レイレイ様と同じ部屋でお願いします」
はっきりとそう告げられた時、フェオンが少し寂しそうに見えた。フェオンはルーシュイと一緒の部屋の方がよかったのかもしれない。
夜になるまでは三人で語った。と言っても、語ったのはフェオンだ。レイレイがフェオンの故郷の話を聞いてみたいと言ったのだ。
「ここよりも少し寒くて、風が強い。草原が広がるばかりだから、することといっても馬を走らせるばかりで、だからみんな馬の扱いにはすごく長けてる。馬は財産で、家族なんだ」
フェオンは故郷の話となると急に気後れせず、流暢に話した。その言葉のひとつひとつをルーシュイが丁寧に聞いている、そんな空気があった。
滔々と語っていたかと思うと、フェオンは不意に沈み込む。肩をしぼめて、涙を堪えているふうに見えた。
「あの日はすごく天気がよくて気持ちが良かったから、遠くまで馬を走らせすぎて、それで気づいたら知らない男たちに囲まれて、馬から引き摺り下ろされて――」
ぶるり、と身震いする。細い肩が恐怖に揺れた。その様子に、ルーシュイは素早く立ち上がるとフェオンの髪をそっと撫でた。
「わかった、もういい。逃げ出してきてからちゃんと休めてないんだろう? 今日はゆっくり休むんだ」
労わりに満ちたその声に、フェオンは大粒の涙を零しながらもうなずいた。レイレイはそんな光景をそっと眺める。気の毒な子供に優しくするルーシュイを嬉しくは思うのに、何か落ち着かない。心が騒ぐのは何故だろうか。
「レイレイ様」
不意に呼ばれてレイレイはハッとした。
「な、何?」
「私は向かいの部屋におりますので、今日はこのままお休みください。フェオンのことをよろしくお願いします」
「あ、うん」
ルーシュイは卒なく一礼して部屋を去った。とは言っても、すぐそこにいるのだ。不安は特になかった。
ただ、こうフェオンと二人になると沈黙が重く感じられた。何かを言わなければ、とレイレイは口を開いた。
「ええと、湯殿へ行けないならせめて体を拭いてから寝ましょうか」
こくり、とフェオンは涙の後を拭ってうなずく。色々と探ってみると、店の中には替えの白い寝衣と帯がふた組、綿布も数枚用意してある。
レイレイは寝衣と帯、綿布を取り出して机に乗せた。そうして、部屋の隅に置かれた薄蒼い瓶のふたを外し、中の水を柄杓で汲み上げる。
そばにあった桶に水を入れ、綿布を浸して絞る。それを一枚フェオンに渡し、もう一枚は自分が使う。
この時季だから風邪をひく心配もないだろう。レイレイは衣の前を開き、袖を抜いて体を拭き始めた。フェオンもおずおずとくたびれた衣の帯を解く。けれど、自分の体を拭くよりもレイレイにじっと目を向けていた。
「綺麗……」
「え?」
「綺麗な人。ルーシュイとは恋人同士?」
いきなりそんなことを言われた。ルーシュイはレイレイを護る義務があるので大切にしてくれる。それが仲睦まじく感じられたのだろう。
「えっと、そういうんじゃないのよ。ルーシュイはお仕事だからわたしに優しいの」
思わず苦笑すると、フェオンは僅かに眉根を寄せた。意味がわからなかったのかもしれない。けれど、それ以上のことは訊ねてこなかった。無心に体を拭き清めている。
寝台は大きなものがひとつあるだけだ。二人はその上に横になって眠った。眠ったのはどちらが先だっただろう。
フェオンから聞いた北の大地を夢に見てみたい。レイレイはそんなふうに思ったけれど、その日はなんの夢も見ることなく朝を迎えた。




