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花鳥雲月録 ~乙女と不機嫌な護り人~  作者: 五十鈴 りく
第一部+兄弟の章+

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19/102

四「お願い」

 翌朝。

 レイレイは清々しく目を覚ました。寝台の上でうぅん、と伸びをすると、すぐ下に座り込んでいたルーシュイと目が合った。ルーシュイはほとんど眠っていないのかもしれない。それでも、疲れた顔は見せずに微笑んでくれた。


「おはようございます」

「おは、よう」


 そこでレイレイはようやく昨日の醜態を思い出した。今になってそれがひどく恥ずかしく、そして申し訳なく思った。


「ね、ねえ、ルーシュイ。今日の朝餉は私が用意するから、ルーシュイはゆっくり寝ていて?」


 乱れた寝衣の裾をササッと直し、レイレイはそう取り繕う。けれどルーシュイは、え、と声を漏らした。


「いえ、お気遣いなく。ちゃんと休みましたから」

「いいから」

「……私が用意した方が早く終わりますから、そう仰ってくださるのなら、それが終わってから小休憩でも頂きますので」


 そんなにもレイレイを厨に立たせたくないのかと思いたくなる。これはきっと被害妄想ではない。本当に立たせたくないのだ。食べられるものが出てくる気がしないのだろう。

 以前教えてもらった通りにするつもりだけれど、料理の才能がないと判断されている予感がした。


「わかったわ。絶対ゆっくり休んでね」


 恨みがましい目を向けるレイレイに、


「はい」


 と、ルーシュイは楽しげに笑った。

 そんなわけでいつもと変わらずにルーシュイが用意してくれた粥をすすりつつ、レイレイは昨晩の夢の話をしたのだった。ルーシュイは粥をすくう手を止めて愕然とする。そうして、厳しい面持ちで嗜められたのだった。


「レイレイ様の夢はただの夢ではありません。そのように軽はずみな言動はお控えください」

「軽はずみだったかしら……」


 レイレイはしょんぼりと項垂れた。

 ツァイホンの心には諦められない望みがあった。それを知るからこそ、後押しができればと思ったけれど、若輩で過去の記憶すらないレイレイの言葉には重みがなかったのだ。

 しょげたレイレイに、ルーシュイは戸惑いながらつぶやく。


「すみません。恐ろしい思いをされたというのに、配慮の足らない物言いでした。けれど、その手の人間にはレイレイ様のお優しさや清いお心が疎ましく感じられるものなのです。レイレイ様の御身が第一ですので、そうした者にはもう関わらずにおいてください。この件はユヤン様にそれとなくお伝えして、それでおしまいにしましょう」


 ルーシュイの基準はレイレイが第一だという。レイレイも、あんな恐ろしい夢は二度と見たくない。そうは思うのに、ユヤンに丸投げしてそれで終わりとしていいのだろうかという気がする。


「ユヤン様にお伝えするのはもう少しだけ待って。わたしの気持ちの整理がついたらでもいい?」

「はあ。それは構いませんが」


 渋々答えるルーシュイをレイレイはじっと見つめた。


「……ねえ、ルーシュイ」

「はい」

「お願いがあるのだけれど」


 改まって言うと、ルーシュイは身構えた。きっとろくなことを言われないと思ったのだろう。


「なんでしょうか?」


 警戒しながら問い返す。そんな彼にレイレイは言った。


「部屋、移ってくれないかしら?」

「え?」

「私の隣の部屋、シャオメイが使っていた部屋が空いているでしょ? そこに来てほしいの」

「……」


 途端にルーシュイが黙った。


「駄目?」


 機嫌を窺うようにして見つめると、ルーシュイは深々と嘆息した。


「レイレイ様、妙齢の女性だという自覚はおありでしょうか?」

「どうして?」

「どうしてって――」


 あっさりと返すと、ルーシュイの方が言葉に詰まってしまった。そこでレイレイは思いついた。そうだ、言い方が悪かった、と。


「ルーシュイ、わたしが命じます。部屋を移ってください」


 立場上、レイレイはルーシュイの主である。最初から命令すればよかったのだと気づいた。

 ルーシュイは諦めた様子で、御意のままに、とつぶやいた。


「やった!」


 にこにこと笑顔を振り撒くレイレイを、ルーシュイは困った主だと思ったかもしれない。けれど、ルーシュイが近くにいると思うと、眠る際の恐ろしさが薄れる。

 今晩、もう一度だけツァイホンの夢を訪れる。レイレイはどうしてもこのままにはしておけないと思えたのだ。



     ● ● ●



 ツァイホンの夢の中は虚無の渦のようだった。そこにいるだけで悲しみが押し寄せる。それでもレイレイは枯れた柳の木のようなツァイホンの背中を探し当てた。


『ツァイホンさん』


 レイレイが声をかけると、ツァイホンは親の仇のごとくレイレイを睨みつけた。体が強張り、夢から逃げ出したくなるけれど、レイレイは懸命に踏みとどまった。

 ルーシュイが言うように、絶望の淵に立つツァイホンにはレイレイの綺麗事が疎ましくあるのだろう。けれど、ツァイホンの兄と一緒に彼を諦めてはいけない。レイレイはそのために再びここを訪れたのだ。


『科挙に合格することがあなたの夢だとするのなら、余計にその夢を汚してほしくはないのです。それで合格しても、あなたは生涯暗い影を背負って生きるしかなくなるのです』


 言葉以上に心でぶつかるつもりでやって来た。今日は恐ろしくても言える言葉はすべて吐き出すつもりだ。

 ツァイホンはやはり激怒した。


『黙れ!』


 けれど、怒鳴られたくらいで引くつもりはない。レイレイも厳しい面持ちで対峙した。


『次の科挙に自力では合格できないと仰るのですね? それならば、科挙そのものを受けるのを止めておしまいになったらいかがですか?』


 はっきりとそう告げると、ツァイホンの怒りに燃えていた瞳から熱が逃げた。


『な、何を――』

『ご自分を信じられないのでしょう? でしたら、科挙などやめて違う道を進んでください。そうしたら、ずっと楽になりますよ。あなたも、お兄様も』


 人生の大半を捧げたものを諦める。それができるのならば、とっくの昔に決断していただろう。


『私は……』


 虚ろな、怯えた瞳。足元の道が突如消えてしまったかのような不安を感じている。そんなツァイホンにレイレイは言った。


『どうぞ、諦めてください』

『わ、私は……』


 ツァイホンは墨に染まった指先を見た。勉学に励んだ歳月を彼なりに思い起こしているのだろう。ふと、レイレイは表情を和らげた。


『できませんか?』


 その問いに、ツァイホンはぽつりと、それでもはっきりとした声で答えた。


『できない……』


 わかりました、とレイレイはうなずいた。

 墨に染まったツァイホンの右手をレイレイは取った。首を絞められた恐ろしさはもうなかった。これは夢に向かってひた向きに努力した者の手なのだ。


『それほどまでに焦がれるのでしたら、次の科挙を最後として臨んでください。ただし、実力で勝ち取ってください。他の誰でもないあなた自身のために。費やした歳月はあなたをきっと支えてくださいます』


 そっと微笑むと、ツァイホンは憑き物が落ちたかのように涙を滲ませた。

 大丈夫だと、あなたならできる、とたったそれだけの言葉が何にも勝る薬となる。レイレイはそれに賭けてみたかった。

 そうして、その夜、もうひとつの夢へと飛んだ。




『――吏部侍郎様』


 夢の中でも堂々と佇む吏部侍郎。レイレイの姿を見ても鷹揚に微笑む。


『うん? あなたは神仙の類でしょうか? 私の前に現れてくださったのは瑞兆と捉えるべきか……』 


 レイレイは正体を語ることをやめた。勘違いされたままの方がよいかもしれない。


『わたしがあなたのもとを訪れましたのは、お願いがあってのことです』

『ほう。それはなんですかな?』


 と、彼は片眉を跳ね上げた。


『ツァイホンさんのことです。彼がもう一度だけ自分を信じて自力で科挙を受けさせてほしいと言われたら、どうかそのようにさせてあげてほしいのです』


 レイレイは真剣にそれを告げた。けれど吏部侍郎は一笑に付した。


『あれにそのような気概はございませんよ。受からぬと端から諦めておるのです』

『今まではそうだったかもしれません。けれど、あと一度だけ。最後と決めたのならば全力で打ち込んでくださるはずです』


 すると、吏部侍郎は嘆息した。


『そうだとよいのですが』


 まだ、レイレイの言葉を完全に受け入れている風ではなかった。弟の普段の姿を知るからこそなのだろう。 


『どうか、よろしくお願い致します』


 レイレイができるのはここまでだ。後は当人の問題である。もしこれで努力を怠り、不正に甘んじることになるのなら、処罰を免れずとも仕方がない。今ならばまだ、最悪の事態を回避できる。そうレイレイは思うのだった。


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