三「悪夢」
東雲の空のような靄に覆われた場所。ぽつりと迷子の幼子のようにして佇むツァイホン。レイレイはその正面に姿を現した。
『こんばんは、ツァイホンさん』
警戒されないように微笑を浮かべてレイレイは挨拶する。ツァイホンはぼうっとしていた。虚ろな目がレイレイに向く。寝ぼけているような、恍惚とした表情だった。
『うん? あんたは天女かな? 兄の妾たちの中にもあんたほどの美人はいないよ』
と、予想外の賛辞をもらった。けれどここで照れている場合ではなかった。レイレイはなるべく心の動きをツァイホンに読まれないようにして口を開く。
『ツァイホンさん、あなたはずっと科挙に受かるために勉学に励んでこられましたよね』
すると、ツァイホンは現実を思い出した様子で、最初に見かけたあの薄暗い表情を浮かべた。レイレイは初手を誤ったかと、そのことに焦りを感じてしまう。けれど、今さら引けない。
『ここまでがんばってこられたのです。あとひと息ではないですか。お兄様にもう一度、自分を信じてほしいとお願いしてみてはいかがでしょう?』
レイレイが言葉を選びながらそっと告げると、ツァイホンの唇がわなないて、そうしてその奥から笑い声が零れた。その声に、レイレイは夢の中だというのに寒気を感じるようだった。それほどにツァイホンの笑いは暗かったのだ。
『兄にどの面下げて頼めと? あんたはなんだ? 私の心が読めるのか?』
『あの……』
『私には自力で科挙に合格することなどできないと見限られた。悔しいに決まっているだろう? けれど、これだけの歳月をかけてもできなかったことだ。私自身が不安になっていないはずがない。私には兄に意見することなどできないんだ』
卑屈に歪む唇。どうしたらツァイホンを立ち直らせることができるのだろうか。レイレイは必死で考えをめぐらせた。
『けれど、もし不正が発覚すればあなたもお兄様も人生を棒に振ってしまいますよ。そんなことになったら悲しいでしょう?』
すると、ツァイホンは薄暗さの中に狂気のような熱を帯びた。カッと黄ばんだ眼球を見開き、口角泡を飛ばす勢いだった。
『黙れ! 知った風な口を利くな!』
『わたしは――っ』
うるさい、とひと際大きな声が発せられたかと思うと、レイレイの喉にツァイホンの墨に汚れた手が伸びた。その指先がレイレイの喉に食い込む。
『何が天女だ、この女狐が! 私が退治してくれる!』
そのまま後ろに倒され、ツァイホンは馬乗りになってレイレイの首を絞めた。夢の中での出来事である。痛みも苦しみも何もない。レイレイはただ、ツァイホンの悪鬼のごとき顔を見上げながら夢から覚めたのであった。
● ● ●
ヒッと短く悲鳴を上げて目覚めた。室内は暗かった。夜明けにはまだ程遠いようだ。
尋常ではない冷や汗が体中から噴き出す。寝台の上で目覚めたというのに、まだツァイホンの指先が迫ってくる感覚が拭えなかった。レイレイは震える脚で寝台から降りると、手燭も持たずに部屋を出た。壁を伝いながら必死で進むと、中庭を越える辺りには目が慣れてなんとか歩けた。そのままルーシュイの部屋を目指して急ぐ。
そして、その扉を夜間にも関わらず必死で叩いた。
「ルーシュイ!」
ダンダン、と連打すると、ルーシュイが戸の向こうで飛び起きた気配があった。
「レ、レイレイ様?」
戸が開いた時、起き抜けのルーシュイが立っていた。いつもはどこにも乱れのない彼だが、今は髪の後ろがはねていたし、寝衣の襟も少し乱れていた。
寝起きの開ききらない目がレイレイに向くと、レイレイはほっとしてルーシュイにしがみついた。真夜中、唐突に胸に飛び込んできたレイレイに、ルーシュイが戸惑わないわけがなかった。
「あの――」
けれど、レイレイがひどく震えていることが伝わったようで、ルーシュイはレイレイの肩にそっと手を添えた。
「何かをご覧になったのですね?」
優しい声が耳元でした。レイレイはやっとうなずくと、声を絞り出す。
「うん。でも今は言いたくない。思い出すのも、怖い……」
カタカタ、と歯が鳴った。そんなレイレイにルーシュイはどうしていいものか困惑した様子だった。それから気遣うように言った。
「……レイレイ様、もしご不快でしたら仰ってください」
え、とレイレイが小さく声を漏らすと、ルーシュイは震えるレイレイの体を抱き締めた。見た目の優美さからは窺えない力強さがある。レイレイの震えを止めるためか、わざと強めに抱き締めてくれているのかもしれない。
以前もこういうことがあった。冷えた身体をあたためてくれた、ただそれだけのことだったけれど。あの時の記憶はおぼろげでも、今ははっきりと感じる。
レイレイは夢の恐ろしさから少しずつ解き放たれる気分になれた。恐怖に縮んだ心がほぐれていく。
昔の記憶も何も持たないレイレイにとっては今しかない。その今の中で一番身近な存在はルーシュイである。
最初は上辺だけで仕えていたルーシュイに腹も立てた。けれど最近は、徐々に心で寄り添ってくれていると感じる。
だからこそ、レイレイもルーシュイがそばにいてくれると、こうして恐ろしさが和らぐ。それだけの信頼がお互いの間に芽生えているのだろうか。
どれくらいかそうしていて、レイレイの体の強張りがほぐれたのをルーシュイが感じたのか、ぽつりと言った。
「……落ち着かれたなら、そろそろお部屋にお戻りになられますか? ちゃんと眠られないとお体に障りますので」
まだ辺りは暗い。レイレイはかぶりを振った。
「ルーシュイはついてきてくれるの? 一人で戻されるのは嫌」
見上げたルーシュイの顔は極端なほどに真顔であった。
ルーシュイもきっと眠たいはずだ。真夜中に叩き起こされて駄々をこねられて、いい迷惑なのだろう。
レイレイは頭ではわかっていたけれど、暗闇の中でどうしても一人になりたくなかった。
「ルーシュイは寝ていてくれて構わないから、部屋にいていい?」
「は?」
気が抜けている時間のせいか、いつもほど完璧に取り繕えていないルーシュイは引きつった顔を見せた。やはり、迷惑だったようだ。それでもレイレイが捨て犬のような目を向けたせいか、ルーシュイはひどく困っていた。
「それはさすがにどうかと……。それで眠れるほど、さすがに私も図太くはないのですが」
「じゃあ、明日の朝餉は要らないわ。一緒に朝寝坊しましょう」
レイレイは真剣に言ったけれど、ルーシュイは深々と嘆息した。
「あの、そういう物言いは控えてください」
「わたし、おかしなこと言ったかしら?」
「ええ、とても」
レイレイはルーシュイと話しながら徐々に冷静さを取り戻してはいた。怖いけれど、なんとか朝まで耐えられるだろうか。
すると、ルーシュイは苦笑する。
「では、こうしましょう。レイレイ様が寝つかれるまでそばに控えております。どうぞお眠りください」
「今日はもう寝ない。だって、続きを見たら困るから……」
「レイレイ様の眠りは私が護ります。どうぞご心配なく」
そう言って、ルーシュイは手燭に火を灯すと、レイレイの手を引いてレイレイの部屋まで誘った。レイレイを室内へ納めると、ルーシュイは手を離して軽く一礼する。
「ここに控えておりますので、ご安心ください」
そう言って戸を閉めようとしたので、レイレイは慌ててルーシュイの寝衣の袖を引いた。
「外っ? お願いだから中にいて!」
「いや、しかし……」
「いいから!」
レイレイに押しきられ、ルーシュイは複雑そうに中へ入った。
「そこまで恐ろしい目に遭われたのですね。鸞君とは、レイレイ様のような女性には酷なお役目なのかもしれません」
そんなことをぽつりと言った。かと思うと、慈しむように優しい目をしてレイレイを寝台の方へ押しやる。
「もう心配は要りません。ですから、ごゆっくりお休みください」
「……わたしが寝ても部屋に帰らない?」
「ここにおります」
「絶対よ?」
「はい」
それを聞いて、レイレイはようやく床に就いた。ルーシュイはそんな彼女の寝台のそばに座り込んだ。ルーシュイがそこに腰をすえたことを見届けると、レイレイは気が抜けたのか、すぐに意識を手放した。
あれだけ恐ろしかったことが嘘のように和らぐ。不思議だな、とレイレイはぼんやりと思った。
ルーシュイは駄々っ子の相手は疲れると呆れたかもしれないけれど、レイレイは安心感に包まれた。




