二十四「最後の日」
春の柔らかな光、花咲く庭を眺めながらレイレイは大きく深呼吸をした。
今日はこの鸞和宮から去る日である。
前日、ここでレイレイが使っていたものでどうしても引き取りたいものはあるかとユヤンに問われたけれど、これといって必要なものはないと思えた。
レイレイにとって必要なのはルーシュイだけである。だから、ルーシュイがいるなら身を飾る物も必要ない。
何もないと答えると、ユヤンは笑っていた。
「そうだね、これからは彼に買ってもらうといい」
隣のルーシュイを見上げると、ルーシュイも微笑んでいた。
贅沢をしたいというわけではないから、そこは安心してほしい。
宮の中はルーシュイがすっかり掃除して綺麗なものだ。次の鸞君が決まるのかどうかはわからないけれど、もし誰もいなかったらこの宮はこのまま打ち捨てられるのだろうか。せっかくの美しい庭が荒れてしまうのは悲しい。
レイレイがこれからどこに住むのかはまだ決まっていないけれど、この庭にはまた来たいと思ってしまう。多分それはもう叶わないことだけれど。
ルーシュイの荷物はここにあったものではなく、ルーシュイ自身の持ち物なのだそうだ。荷造りをし、その荷を担いで庭先のレイレイのそばに立った。
「レイレイ様、こうしてこの日が来てみると感慨深いものがございますね」
その言葉に、レイレイは無言でうなずいた。
とっさに声が出なかった。感情の波が声を詰まらせる。
右も左もわからない、何も覚えていない目覚めから二年。色々なことがあった。
ルーシュイと二人だから乗り越えてこられたのだと、間違いなくそう思う。
「うん、二年は長いようで短かったわ。至らないことも多くて、これでよかったのかなって思いもなくはないのだけれど。でも、鸞君に選ばれなければ、わたしはルーシュイと出会えることもなかったから、わたしを選んでくれた鸞に感謝しなくちゃね」
すると、隣にいたルーシュイがレイレイの手に指を絡め、そうして力強く握った。
「ええ。私も鸞君護に選ばれて幸運でした。初めの頃はその、邪な理由でそう思っていましたが、今はただ純粋にそう思えます」
「ありがとう、ルーシュイ。これからもよろしくね」
にこりと微笑む。ルーシュイも優しく笑ってくれた。
「ええ、こちらこそ」
ルーシュイの妻になる。それを堂々と名乗れる。
レイレイは楽しみで仕方なかった。
幼少期に悲しい別れをしたルーシュイだから、レイレイはルーシュイの子供をたくさん産みたい。それから、ルーシュイより先に死なない。大好きなルーシュイを見送るのはつらいけれど、ルーシュイがレイレイを見送るのもきっとつらいから、ルーシュイより一日でいい、長生きしようと思う。
最後の最後にルーシュイを見送って、ルーシュイの人生にレイレイがいてよかったと思ってもらえたら、レイレイは何よりも幸せだから。
「じゃあ、行きましょうか」
ルーシュイの手を引いて急かす。ルーシュイは感慨にふけっていたのか、少し複雑な目を垣間見せ、そうしてからいつものように微笑んだ。
「わかりました。行きましょう」
そうして二人は共に二年を過ごした鸞和宮を後にした。
レイレイは太極宮にて解任の儀を執り行う予定である。鸞の力を抜き、そうしてレイレイはただの娘に戻るのだ。
その儀を執り行うのはユヤンであり、皇帝であるシージエも同席するとのことだ。
儀式の間は何もない白いばかりの部屋であった。以前もここに来たことがあるのかもしれないけれど、その時のことは覚えていない。だから初めて来たのと変わりはなかった。
部屋の壁際に控えていたシージエは皇帝の装束で、若いながらにどこか威厳を感じさせる。けれど、冕旒(飾り)の奥から笑いかける瞳は少年らしさを残していた。
「レイレイ、ご苦労だったね。君には命まで救われた。鸞が君を選んでくれたことに感謝したい」
「いいえ、とんでもございません」
恐縮してかぶりを振るレイレイに、シージエは手を差し出した。
「本当にありがとう。これからは幸せになってくれ」
その手を握り返すのはさすがにためらわれる。それなのに、シージエはそんなレイレイに構わず、レイレイの手を取って握り締めた。にこりと快活に笑って、そうして手を離す。
ユヤンもまた、レイレイに苦笑してみせた。
「鸞君、世話になったね」
「そんな、こちらの方がユヤン様のお手を煩わせてばかりで……」
「いいや、君でなければ成し得なかったことが多くある。ありがとう」
「いえ、わたしもお世話になりありがとうございました」
尊い二人から、こう続けざまに感謝を告げられると、レイレイは身の置き所に困って後ろに控えるルーシュイを振り返った。
ルーシュイはそっとうなずく。
「……では、儀式を行おう」
ユヤンの声が部屋の中に響いた。その途端、場の空気が変わった。
「鸞君は部屋の中央へ」
「は、はい」
「力を抜く方が楽なものだ。そう緊張しなくともよい」
と、ユヤンが柔らかく告げてくれた。そういうものなのかと、レイレイはほっとして部屋の中央で膝を突いた。
手を組み、祈るようにまぶたを閉じた。
まぶたの裏からでも部屋の中に眩い光が溢れているのがわかった。そうして、全身がカッと熱くなる。熱が、レイレイの頭を蕩けさせるような感覚だった。
ただ、閉じたまぶたの裏に美しい翼を持つ鳥の姿を垣間見たような気がしたのは、その熱のせいであったのかもしれない。その鳥は大きく羽ばたき、天へと昇っていく。
そうしたら、レイレイの意識も一緒に運ばれていくように薄れていた。あの鳥と離れがたいような気がして、無意識に手を伸ばしていた。大切な何かをあの飛び去った鳥と共に失うような不安が押し寄せる。
心細い、虚ろな寂しさ。
母親の手を放してしまった赤子のよう。
戻って、どうか、ここへ。
もう、考えられなくなる。
自分を保てない――
伸ばした手の平に、ふわりと蒼い羽毛がひとひら落ちた。
● ● ●
白い部屋の中央でレイレイの体が崩れ落ちた。ルーシュイは胸に杭を打たれたような痛みを感じた。
終わったのだと、ユヤンの敷いた術式の跡が消えたことで感じた。あの術式はレイレイには見えていなかっただろう。方術の心得のあるルーシュイでさえ、かろうじて何かがあるとわかる程度だった。
就任の儀にルーシュイの参列は認められず、ルーシュイが鸞君であるレイレイと対面したのは鸞和宮で寝かされているところであった。
ルーシュイは倒れたレイレイに近づき、そうしてその体を抱き起した。眠るレイレイの頬には何故か涙の跡があった。ルーシュイが指でそれを拭うと、皇帝とユヤンがそばに立った。
「……レイレイに、記憶が保てないということを告げなかったのか?」
皇帝がぽつりと寂しげにつぶやいた。ルーシュイはうつむいたまま答える。
「はい。残り少ない日々を悩みながら過ごさせたくなかったのです……」
そうか、と言ったきり、皇帝はもう何も訊かなかった。
「では、彼女が落ち着いたら君のもとへ嫁ぐ手配をしよう。鸞君護を務め終えた君もこれからは配属が変わって何かと忙しくなるから、双方の都合のいい日取りを選ぶ。その日を楽しみに待つように」
ユヤンが気遣うように微笑んでくれた。出会った頃は何もかもを見通すようなユヤンが苦手であったけれど、今は感謝しかない。
「はい。よろしくお願い致します」
「ああ。これからも彼女のために精進するようにな」
「はい。ありがとうございます」
ルーシュイは腕の中のレイレイをユヤンに託した。
次に会える日はいつのことか――
それでも、ルーシュイは二人で過ごした日々を胸に顔を上げて歩み出した。




