三「施し」
部屋に差し込む朝日を遮るようにして、眠っている自分を覗き込む人物の陰が落ちる。
「――レイレイ様」
まぶたの裏側で、それが自分の名だと認識している。だからレイレイは僅かながらに返事をした。
「ん……」
それに満足しないのか、その声は更にレイレイを呼ぶ。
「レイレイ様」
「うん?」
声の主はルーシュイ。レイレイの護衛だ。
そのルーシュイに名を呼ばれ、レイレイは覚醒した。夢は見ていなかった。ただの朝寝坊である。スヤスヤと眠る乙女の部屋にルーシュイは堂々と入り、無防備な寝姿を覗き込むようにして平然と呼びかけているのである。
「あ、る、るーっ」
舌を噛んだ。さすがにこれはないと思う。
けれど、ルーシュイは呆れ顔だ。
「何度も外から起こしましたよ。けれど一向に起きられる気配もありませんでしたし。いいのですよ、別に無理をして出かけずとも」
そんなことを言って、ルーシュイはにこりと微笑んだ。町へ連れていってほしいと言いながら寝坊をしたのはレイレイである。
その上、本来なら優しく起こしてくれただろう女官を、シャオメイのために置かないと決意したのもレイレイである。ぐうの音も出なかった。
「わ、わかったわ。すぐに支度するから……」
レイレイが何も言えないのをルーシュイなりにわかっている。ルーシュイの温和そうな笑顔が実はとんでもなく意地悪な笑みだと、レイレイにもようやくわかった。
「町へ行くのは構いませんが、お立場はご内密にお願い致します。あまり豪奢な装いは控えられますように」
「うん」
ルーシュイが部屋を出ると、レイレイは急いで身支度を整える。不思議と水が湧き出す瓶から水を桶に移して顔を洗うと、衣を物色した。なるべく落ち着いた色合いのものを選ぶ。渋みのある梅色の衣にした。これならば目立たないだろう。髪は結わずに下しておく。町に行くだけならルーシュイも細かいことは言わないだろう。
「できたわ」
レイレイが広間で食事の支度をしてくれていたルーシュイのもとへ行くと、ルーシュイはにこりと笑った。
「はい、では朝餉を済ませたら向いましょう」
こうして毎朝粥を炊いてくれる。ルーシュイには苦労ばかりかけているのだとあらためてレイレイは思った。粥の甘い湯気を吸いながら、レイレイはぽつりとつぶやく。
「ルーシュイ、いつもありがとう」
すると、ルーシュイは複雑な顔をした。そうした素直な感謝が苦手なのかも知れない。
「いえ、これも私の勤めですから」
そうは言うけれど、だからといって当たり前だとは思いたくなかった。ルーシュイがしてくれることのひとつひとつに感謝したかった。
レイレイは笑って席に着く。
「それでもありがとう。いただきます」
少し意地悪で、けれど職務熱心なルーシュイの粥は優しい味がした。
● ● ●
この鸞和宮は朋皇国城市中の東側に位置するという。鸞和宮の近辺に用のない者は近づかない。つまり、ここにいてはほぼ誰とも新たには知り合わないのだ。
レイレイはまず、市民の暮らし振りが見たいと思った。それを告げると、ルーシュイは天井を眺めるようにして暫し考え、そうしてつぶやく。
「では市場にでも行きましょうか」
市場には商人や商品を求める民が集う。たくさんの人に会うことができるだろう。
「うん、お願い」
そうして行き先は決まった。牛車を用意すると貴人が来たと騒ぎになるので歩いていくことになった。表ではなく、目立たない裏口を使って外に出る。
外から見上げる鸞和宮は白壁の塀に囲まれ、反った軒の藍鼠に輝く瓦が美しい。楼閣ではないものの、天井が高いためか外から見ると随分と大きく感じられた。
そうして、ルーシュイと並んで城市の風景を楽しみながら歩く、それもまたレイレイには楽しかった。やはり国の中心というだけあって道行く人々も多く、老若男女、貧富の差も様々である。それでも日々を謳歌する生命力とでも表現すべきものが民からは感じ取れるのだった。
春先の爽やかな空気と風にそよぐ木花。時折、通りかかった道の塀の上から春の花がレイレイたちの上に零れ落ちる。なんとも雅な道行だった。
そうして二人は程なくして市場へ辿り着くことができた。
市場では買い物に来た客に店主がにこやかに商品を勧め、客は金銭を払って買い求める。レイレイのその考えが誤りであったわけではないけれど、それが至るところで行われているだけで市場は喧騒の坩堝だった。
暮らし向きにゆとりのない庶民の買い物は、上流階級と違ってそう優雅ではない。値切る、買い叩く、店主との間に怒号が飛び交う。天幕を張っただけの出店で乱雑に並ぶ商品は、店主が気を抜けばかっぱらいに遭うのだ。
あまりの人の多さと熱気に、到着したばかりのレイレイは卒倒しそうだった。人が押し寄せて、ぶつかると思った瞬間にルーシュイに庇われた。ルーシュイは自分の体を盾に、レイレイを懐に収めるようにして立つ。
「この人混みの中でぼうっとされては危険です。それで、満足されましたか? よろしければもう戻りましょう」
到着早々、至近距離でそんなことを言われた。ルーシュイはさっさと帰りたいのかも知れない。警護対象のレイレイを人混みにさらすのは、ルーシュイにとって大変なことなのだろう。
けれどまだ来たばかりだ。帰るには早すぎる。
「ごめんなさい、もう少しだけ見て回りたいの」
正直に言うと、ルーシュイは軽く嘆息した。
「わかりましたが、お気をつけください」
しかしこの人混みだ。ルーシュイとはぐれたら大変なことになる。レイレイなりにそれだけはわかったので、ルーシュイの腕にしがみつきながら進むことにした。ルーシュイは一瞬戸惑ったものの、レイレイの好きなようにさせてくれた。
人に揉まれながら市場を歩く。
レイレイの食事はルーシュイが上質な素材を使って調理してくれているから、ここの市場に並ぶような代物が売り物になること自体が驚きだった。瓜は曲がって、点々と茶色く煤けているし、あまり美味しそうには見えない。
これが普通なのだとしたら、やはり自分は贅沢をさせてもらっている。そのことを少し心苦しく思いながら感謝した。
そうしていると、道の先から一層大きな怒声が轟いた。
「部外者が口を出すな!」
「だからって、行きすぎは行きすぎだ」
返す声は幾分落ち着いていたけれど、そのそばで甲高い子供の泣き声が響き渡る。レイレイは気になってルーシュイの腕を放すとそちらの方に吸い寄せられるようにして向かった。ルーシュイは幾分慌てて、ちゃんとついてきてくれた。
人垣の隙間から覗き込むと、そこには店主らしき大男とまだ少年と青年の中間くらいの男性が対峙していた。その少年のそばに小さな男の子が泣き崩れている。男の子は痩せ細っていて、衣服はひどく粗末だった。膝と肩に継ぎが当てられている。
「このガキがうちの商品を盗もうとしたんだ。殴られて当たり前だろうが! とっとと刑部に突き出してやる!」
大きな傘の下、店先の大蒸籠に肉饅頭がぎっしりと並んでいる。空腹の子供には耐えがたいものがあったのだろう。それでも、盗んだことに変りはないと店主は言うのだ。
その男の子を庇う少年は、黒い短髪に勝気な瞳、活発そうな雰囲気を持っていた。身なりはごく有り触れた服装で、身分などは窺えないけれど、それなりに裕福な家庭の息子ではないだろうか。
正義感に溢れる少年は、厳しい顔をして店主を見上げた。
「確かに褒められたことではないけど、腹が減ってどうにもならなかったんだろ。金は俺が払うから、今度だけは勘弁してやってほしい」
すると、店主はそんな少年の青臭さを鼻で笑った。少年は何故笑われたのかが理解できないふうだった。
「坊主、国中の腹が減った子供にそうやって施せるのか? 目の前の一人を一度助けるくらい、思い上がりでしかないんだぞ」
レイレイには少年の行いが間違っているとは思えなかった。あのまま放っておいたら、店主は気が済むまで男の子を殴ったかもしれない。
一時的な救いでしかなくとも、すべての大人に見放されるよりはずっといいのではないだろうか。そうは思うのに、ルーシュイもまたどこか冷めた横顔でつぶやく。
「他人が施そうが咎めようが、そんなことはあの子供には大した問題ではありません。食べ物が手に入りさえすればどちらでもよいのです。あんな風に泣くのも、騒ぐ外野に合わせてやっているだけなのですよ」
ルーシュイの言葉の意味がレイレイにはわからなかった。店主と対立する少年にレイレイの心は近かったのだ。ルーシュイが止める前に、立場も忘れてレイレイは騒動の渦中へと踏み込んだ。
「他人の優しさにそういう言い方ってないと思うわ」
ムッとして店主に言うと、大男の店主は面倒くさそうな顔をした。
「なんだ、お嬢ちゃんまで。若いうちはすぐ可哀想だとかそういう甘い考えを持つが、それが世の中で通用するなんて思っちゃいけない」
「でも!」
言い返そうとしたレイレイのそばにルーシュイが慌てて駆け寄ると、レイレイの肩を引き寄せた。耳元でぼそりとささやかれる。
「騒ぎを大きくしないでください」
ルーシュイは店主に向けて友好的な笑みを見せる。
「すみませんでした。よく言って聞かせますので」
店主はやれやれと言った様子で嘆息する。その時、少年が懐から数枚の銭を出した。それほど持ち合わせは多くなかったのだろう。色々なところを探っていたけれど、探し出せたのは三枚だけのようだ。それを店主に差し出す。
「これで足りるか?」
店主はその三枚の銭をひったくると、肉饅頭をふたつ油紙で包んだ。それを少年に手渡す。
「三つ分の代金だ。ひとつはこのガキが駄目にしたからな」
「そうか、ありがとう」
少年はにこりと笑った。そうして、そのふたつの肉饅頭を少し泣き止んだ男の子に手渡す。
「これも食べろ。でも、もう店のものを勝手に盗るなよ。どうしようもなくなったら、まずは頼んでみるんだ」
後払いになってもいいと言ってくれる店主も中にはいるかもしれない。店の手伝いでいいと言ってくれる人もいるかもしれない。
男の子は大きくうなずくと、ぺこりと頭を下げて肉饅頭を大事そうに抱えながら走り去った。大男の店主は茶番劇でも見終えた後のように鼻白み、営業を再開した。
レイレイと少年の目が合った。どこかやんちゃそうな瞳だけれど、行いは優しかった。少年は急に人懐っこく笑う。
「ああ、援護してくれてありがとな。俺はシージエ。君は?」
「わたしはレイレイ。こっちはルーシュイ」
ルーシュイには他人への、警戒心剥き出しの刺々しさがあった。だからシージエも彼には絡むつもりがなさそうだった。ルーシュイをまるで空気のように扱う。
「そっか。まあ、あの店主の言うこともわからなくはないんだ。根本から変えていかなくちゃ、こんなことはザラにあるからな」
根本から変える。鸞君であるレイレイにならその手助けができるのだろうか。困窮する民を知り、皇帝にそれを伝えれば、改善策が練られるだろう。
「そうね。子供たちが飢えない国にしていかなくちゃね」
レイレイがそう答えると、シージエは嬉しそうに笑ってうなずいた。
「うん。じゃあ、俺はそろそろ帰るから。レイレイも気をつけて帰れよ」
同じ年頃に見えるのに、シージエはそんなことを言って手を振って去った。足取りは飛び跳ねるように軽やかだ。いい子だな、とレイレイは思った。けれど、ルーシュイはそうでもないらしい。
「さほど持ち合わせもないのに他人に施すなんて愚かなことですよ。自分が盗賊になりかねませんね」
ひどく手厳しい物言いである。ルーシュイはああした目に見える善意が嫌いなのかもしれない。そういえば、シャオメイにも慈悲は示さなかった。主のレイレイは例外として、ルーシュイは他人に厳しい。
「ルーシュイ、優しさが国を救うのよ」
優しくない国が幸せな国であるはずがない。優しさはどこにでもあふれていてほしい。少なくともレイレイはそう思う。
ルーシュイは一瞬、は? という表情になった。声こそ出さなかったけれど、耳を疑っていた。