一「乙女の目覚め」
意識が覚醒した。それと気づいたのは、無造作に動かした腕が擦る布地の肌触りのためだった。帛の、なかなかに上質な滑らかさである。
ぼんやりとした頭をもたげると、まっすぐな長い黒髪が肩から滑り落ちた。それがうっとうしくて手で払いのける。今度はその動きをした自らの手に目を向けてみた。白くきめの細やかな肌だ。
起こした半身を捻れば、枕元には丸い青銅の鏡が置かれている。姿を映すことが目的ではなく、魔除けの意味合いかも知れない。何故かそう思った。よく磨かれたその鏡を覗き込むと、そこに顔が映し出される。
鏡に映るのは十六、七歳といった頃合の艶やかな黒髪を持つ乙女である。長い睫毛に縁取られた濃藍色の瞳が何度も瞬く。思わず頬に触れてみた。鏡の中の乙女も頬に触れる。
これは間違いなく自分の姿なのだ。それは不思議な感覚だった。
衣の布地の名はわかるというのに、自身のことが何もわからない。そう、わからないのだ。
何ひとつ、わからない。
薄く白い衣一枚をまとい、それをこれまた白い帯紐で止めている。その出で立ちの意味も、この寝台ひとつしかない部屋のことも知らない。
部屋には帳がかかり、すべてを白く曖昧に包んでいる。それは今の自分の頭の中と同じ不鮮明さだと思った。
それで、自分はどうすべきなのか。自分は何者なのか。その答えをくれる相手は存在するのか。
不安を疑問が凌駕する。
寝台からそろりと素足のつま先を床の敷物に下ろすと、白い帳が向こうでサッと揺れた。そうして、自分ではない誰かの声がする。
「お目覚めになられましたか」
美しく澄んだ声だと思った。体の奥底まで染み渡るような心地よい低さをしている。遮るもののない静かな空間の中、その声はよく響く。
「まずはお慶び申し上げます」
足音もなく帳を抜けて姿を見せたのは、均整の取れた中肉中背の青年であった。
癖のない薄茶色の短髪。けれど少しだけ長めに、最も似合うと思われる長さに洒脱に整えている。声ばかりか顔立ちも美しく、育ちのよさが窺える上品な風貌である。縁に柄のある蒼い袍服もよく似合っていた。
「え、あ、あの……」
戸惑う乙女に彼は訳知り顔で優しく微笑んだ。飴色の瞳が聡明さを映す。そうして、寝台のそばへと歩み寄ると恭しくひざまずく。
「私はルーシュイと申します、我が君」
「わがきみ?」
それが自分の名前かと考えた乙女に、彼は言う。
「やはり、記憶がないのですね」
「ええ、さっぱり」
事実、自分のことは何もわからない。だから正直に答えた。青年、ルーシュイは静かに立ち上がるとゆっくり瞬いてみせた。
「そうですね、まずは順を追ってご説明致しましょう」
「はい、お願いします」
下ろしかけた足を戻し、寝台の上で正座した乙女にルーシュイは苦笑した。そうしていると、とても優しげである。
「そのように畏まらないでください。あなた様は私の主なのですから」
「あるじ?」
「あなた様はこの朋皇国の『鸞君』と呼ばれる存在におなりになったのです」
朋皇国。大陸の中央に位置し、北南は他国に隣接する。とはいえ、最も発展している国がこの朋皇国であり、近隣の国は自然豊かな遊牧国家であったりするのだが。
国はわかる。けれど――
鸞君。
小首をかしげた乙女に、ルーシュイはひとつうなずいてみせた。
「この官職に就くにはこれまで営んで来た記憶を消さねばならぬのです。家族や友人、そうしたものを思うお心が、お役目の妨げになります故。あなた様の記憶がないのはそのせいでございます」
しかし、とルーシュイはぼやく。
「鸞君の役割まで忘れてしまわれるとは。少し行きすぎですね」
「……あの、ルーシュイさん」
「ルーシュイで結構です」
優しいけれど、毅然とした空気がある。きっと優秀な人なのだろう。
「わからないことだらけなんですけど、まずはわたしの名前を教えてくださいませんか?」
それがわからないことにはどうにもすわりが悪い。それほど不思議な願いではなかったはずが、ルーシュイは目に見えて困惑した。
「お名前ですか? 残念ですが私とあなた様は初対面なのです。本来のお名前も、残念ながら存じ上げてはおりません」
名前は過去を思い出すきっかけとなるからだろうか。きっと、そうなのだろう。
「そうなんですか? ところでルーシュイは何者ですか? わたしが主って?」
「私はあなた様、鸞君の補佐を務める鸞君護です」
よくわからない。
そんなことよりも乙女にとって重要なのはこのまま名無しにされるかもしれないという事実であった。
「ルーシュイ」
「はい」
「名前がほしいです」
率直にそう言うと、ルーシュイはやはり困った。この受け答えを想定していなかったのだろうか。
「名前ですか? あなた様は鸞君、と呼ばれる存在です。それが名のようなものでは?」
「それ、名前じゃないです」
ここで引いてはいけない、と乙女は必死だった。
「ないならルーシュイがつけてください」
「そんな、畏れ多い……」
ルーシュイはそうつぶやいて顔を引きつらせたけれど、目覚めてすぐにお前に名前は必要ないと言われる気持ちをわかってほしい。
乙女はじっと彼を見つめた。その視線に耐えかねたルーシュイは乙女を直視せぬように見遣りながらしばしの間を置いてぽつりとつぶやいた。
「――蕾」
「え?」
「あなた様は咲き誇る前の蕾のように初々しいお姿をされていますので、『蕾々』様と。これでいかがですか?」
レイレイ。それが自分の名前。
ようやく自分は血の通った人間になれた。そんな気がした。だから、名をくれた青年に微笑んだ。
「ありがとう、ルーシュイ」
ルーシュイは苦笑しつつ、いいえ、と返した。
それが鸞君レイレイの目覚めであった。