ゆびわ
その指輪を再び手に取ったのは、なんとなく部屋の掃除をしていた時だった。プラスチック製の、安物の指輪。幼い頃、君と二人で一緒に駄菓子屋で買ったものだった。
「これは『けっこんゆびわ』なの! おおきくなったら、けっこんしようね、やくそくだよ!」
そんな子どもじみた約束をしたのは、もうどのくらい昔のことだろう。少なくとも、そんな約束をした記憶もあやふやになってしまうくらいに、月日は流れてしまっていた。
僕と彼女は家が隣同士の幼馴染で、いつも一緒に遊んでいた。彼女の方が四つ年上だったけど、そんなことはあまり気にしていなかった。
彼女はいつも優しく僕の手を引いてくれた。彼女が「楽しいね」と言って笑いかけてくれたから、目に写る全てが輝いて見えた。
僕にとって、彼女と一緒にいることが何よりも楽しくて、嬉しくて、傍に居ることが当たり前だった。
そんな彼女との間に距離を感じ始めたのは、僕が中学生で、彼女が高校生の時だった。
ある日、近所を適当にぶらついていると、前を歩く彼女を見つけた。声をかけようとしたけど、隣を歩く人の存在に気付いて思い止まった。
彼女は、僕の知らない男の人と並んで歩いていた。僕と違って背の高い、頼りがいのありそうな人だった。彼女は、今まで見たことのないような、幸せそうな表情をしていた。
その時だった。僕が自分の気持ちに気付いたのは。彼女が僕を見ていないことに気付いたのも、その時だった。
今まではずっと、君が幸せそうに笑うと、僕も幸せだった。だから、どんな形であれ、君が幸せでいることが、僕の幸せなんだと思っていた。
――そう、思っていたのに。
いつからだろう。君が幸せそうに笑う度、その笑顔を壊してしまいたいと思い始めたのは。いつか不幸になって泣き崩れればいいと、願うようになったのは。君が僕に優しく笑いかける度に、後ろめたさを感じるようになったのは。
そうして僕は、いつからか、彼女を避けるようになった。
彼女が大学生になり、一人暮らしをするようになってからは、ますます会うことは少なくなっていった。僕は必死に彼女のことを忘れようとした。約束の指輪は机の引出しの奥底に仕舞い込んだ。何人かの女性と恋仲になったりもした。それでも、彼女への想いが消えることはなかった。忘れようと思うほど、彼女の笑顔が、会いたいという気持ちが、ぽつり、ぽつりと、浮かんできた。
僕が高校を卒業してしばらく経ったある日、数年ぶりに彼女に会った。大学を卒業して、地元に帰ってきたらしい。彼女はすっかり大人っぽくなっていた。でも、久しぶりに話してみると、やっぱり変わっていないな、と思った。彼女からも、「昔と全然変わってないね」と言われた。それが嬉しくもあり、少し悔しくもあった。
そして彼女は、昔と変わらない笑顔で、僕に笑いかけながら、こう言った。
「私、来月に結婚するの」
――――世界が、止まった気がした。
彼女の左手には、僕の持っている紛い物とは違う、本物の、宝石のついた綺麗な指輪がはめられていた。
僕は空っぽの心のまま、「おめでとう」と、それだけ告げた。我ながら、ぎこちない返事だった。でも、それを聞いて彼女は、「ありがとう」と、嬉しそうに笑った。
ああ、お願いだから、君の幸せを心から願えない僕に、気づいてくれよ。叱ってくれよ。
そんな嬉しそうにされたら、言えないじゃないか。
ずっと前から、好きだったなんて。
僕は自分の部屋に戻って、捨てられないままの安物の指輪を、壊れないようにそっと、指にはめようとしてみた。だけど、昔よりも成長してしまった僕の指には、入らなかった。
きっと君は覚えていないだろう。あの日に交わした約束なんて。きっとこの思い出は、これから先も消えることなく、ずっと一人で抱えていくものなんだろう。捨てていくには、あまりにも長い時間が経ちすぎた。
いつか、この痛みを越えていけるだろうか。いつか、君とまた心から笑える日を迎えられるだろうか。
どうしようもない悲しみを忘れられるように、そして、またいつでも思い出せるように、叶えられなくなった約束は、もう一度引出しの中にしまった。