下宿戦闘編 1
九月下旬のある朝、遠くで大きな爆発音がした。
私は何事かと急ぐようなことはあえてせず、だが野次馬的な興味はあったので玄関を開け、外へ出た。
「……いい天気だ」
誰も聞く事の無い独り言。晴天の空には一線の飛行機雲しか見えず――いや、何かがある。あれは……人!?
その日、空から少女が降ってきた。
驚き焦りながらも私はとっさに腕を出し、その少女を受け止めることに成功した。
「あ、あの……」
通報されないうちに立たせよう。しかし今時の少女はこんなにも軽いものなのか?
「ご、ごめんなさい。あの……ごめんなさい」
大焦りで涙目になりながら謝ってくる少女。年の頃は十四〜十五くらいだろうか。身長は百四十センチくらい。少し赤みがかった丸い目をし、染めたにしては綺麗な赤い髪の毛を二つに結んで垂らしている。膝丈ほどまである長い髪だ。服装は肩や足を出した季節に合わない薄着……金属的なアクセサリが色々と付いている。何かのコスプレか? 私はそういうものには疎い。
「どうした?」
「あの、えね……が、えっと、えんぷ……で、それで……」
全く分からん。所々が聞こえないほど声量を下げるので余計に分からん。
「あの! ……質問、よろしいでしょうか?」
次は彼女の番のようだ。
「ここはどこなのでしょうか?」
ここ数年で最大の驚きかもしれない。まさか、朝っぱらから記憶喪失少女の相手をすることになろうとは……。しかしここで私は、涙目になりながらも強くこちらを見つめる彼女を、少しからかってみようかと思い始めた。
「長月荘」
「ながつきそう……という世界なのですか」
いや違う。長月荘は私の背後にある、私が所有し経営する、正確には”していた”下宿の名だ。確かに長月荘は私の世界の一つではあるが、この世界の名前ではない。
「世界の名前は知らないが、ここは銀河系に属する太陽系第三惑星の地球、そこにある日本国、菊山市東町十二丁目にある長月荘という私の所有する建物、下宿だ」
目を丸くして聞いていた彼女は不意に険しい表情で考え込み何かぶつぶつと喋っている。
「……の名前を……ってことは技術レベルも……武器も……」
「あの、武器はありますか?」
「は?」
どこのゲームだ、とツッコミを入れたくもなる唐突な一言であった。
「あ、あの……ごめんなさい。まだこの世界の事をよく理解していなくて」
よく謝る子だ。しかし後半は何だ、まるで自分がこの世界の住人ではないと言いたげだ。からかおうとした私の思考を読んでやり返したとでもいうのか? それとも本当にSFの世界に片足を突っ込んでしまったのだろうか。
「あの、げしゅく……ってなんですか?」
「月極めの宿泊施設」
「……休憩所みたいなものですか?」
心の休憩所……なんてアホな事は言えず、とりあえずそうだと答える。
「寄っていけば回復するかなぁ……」
ぎりぎり聞こえるほどの音量でそう言うと、突然彼女は何かに気づいたかのように辺りを見回し、私に頭を下げた。
「時間を取らせてごめんなさい。でもありがとうございました。また来ますね!」
きびすを返すように走り去ってしまった彼女を見送りつつ、すっかり錆び付いてしまった愛車を横目に、私も家へと戻る。
今日は雲ひとつ無い青空だ。絶好の――日和、だったのだが”また来る”という単なる社交辞令であろう彼女の最後の一言により、私は不用意に外出出来なくなってしまった。私がいない間に彼女がここへ寄り、誰もいない事に不安を抱き涙目になる情景が、さもありありと想像出来てしまうからだ。偶然にもこの日の予定は先ほどキャンセルされたばかり。どうせ、と思いつつも、心のどこかでは彼女がまた現れる事を期待し、彼女と話をしてみたくなっている事に気づくには、そう時間は掛からなかった。
……あれから数時間。既に外は暗く、時刻は夜の七時を回っていた。
一人の夕飯を終え、そろそろ風呂でも入ろうかと思っていると、カーテンの隙間から覗く月明かりの路上にあの赤い頭があった。「勝った」と、誰と賭けをしていた訳でもないが呟き、玄関ドアを開け、彼女の元へと歩み寄る私は、少しにやけた表情であったに違いない。
彼女の前に立つと、私は数秒前の自分の表情に後悔しつつ、うなだれる彼女の頭にそっと手を置いた。アスファルトに残る涙の跡は、表情を見るまでもない事を物語っていた。彼女が一体何者かは分からないが、彼女が我が長月荘の住人としての、その条件をクリアしている事だけは確実だ。
「夕飯を作り過ぎたんだが、食べていくかい?」
声を出さずに泣く彼女の頭がかすかに縦に揺れた。これだけで充分なのだ。小さな彼女の、更に小さく縮こまってしまった背中に手を沿え、我が長月荘へと導く。
「……おじゃまします」
全く、礼儀正しい子である。玄関の敷居をまたぐ前に言った何気ない彼女の一言に、我ながら酷い話であるが、所謂Sっ気というものが疼いてしまった。
「お邪魔します、ということは、お前さんはここに夕飯を食べにだけ来たのかい? もう半年前に畳んでいるとはいえ、曲がりなりにもここは下宿だ」
「……ぃ」
もう声を発する元気すらないか、それとも泣き崩れるのを必死に堪えているか、そんな彼女のごめんなさいの一言に続いて、私はこう問いかける。
「ただ一夜の宿としてならばそれでいいが、当てはあるのか? もし無いのならば、下宿人としてここを君の家にすればいい。その場合、君が言うべき言葉は何だ? 家に帰ってきたら何と言う?」
遂に膝を着いて泣き崩れる彼女から発せられた次の一言に、私は自分の性悪さを最大限評価してしまう。
九月下旬のこの日、彼女は長月荘201号室の住人となった。