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約束を守った水曜日

昼休み。昼食を終え、いつものように教室の自席に座りながら窓の外を見つめていると、誰かに声を掛けられた。


「おーい、どうしたよ、何か今日変だぜ、お前」


そう声を掛けてきたのは、同じクラスの梶間迅太(かじまじんた)だった。全ての教科で五段階評価における四段階以上を取得するという非凡な頭脳と身体能力を持ちながら、オール三というある意味自慢できそうな超平凡な俺に関わる奇妙な男だ。

それにしても、失敬な。平常な学校生活を送ることが取り柄の俺が、変がられるだなんて早々ない。

だが、少し浮いているかと聞かれたら、確かに今日の俺はイエスを挙げる。窓の外を見ているのはいつものことだが、顔がにやけてでもいたかもしれない。

何と言ったって、俺は神様と約束を交わした。例えどんな神様であっても、相手は神様だ。俺は全人類の中でも、類い稀なる経験をしているのだ。

と言うことを纏めて、少し得意気な顔をしながら、神様に会った、とだけ言ってみると、迅太は顔をしかめた。


「神様だあ?んなもん、いるわけないだろ。ましてや自称超平凡男のお前の前に現れるのはおかしい」


そこで俺は、遂に彼女に対して疑問を抱いてしまった。一昨日の月曜日、俺は彼女の不思議さに気を惹かれて、何者かと声を掛けた。彼女は、疫病神だと答えた。

俺は、それまで経験したことから、彼女の言葉をそのまま信じることができてしまった。

俺には、どうして神様ともあろうものがこうして人間の棲む地上に降りてくるのだろうか、そもそも神様なんて本当に実現するのか、有り得ないのではないか、という考えが、微塵も浮かんでいなかった。

彼女は疫病神と自称している人間なんじゃないのか、という不吉な疑問が頭の中を駆け回りだした。そうだとすると、彼女の仕事、つまりお祓いはなんの意味も成さないはずだ。人間にそんな力はない。

ーー病は気から、と言うこともなくはない。祓ってもらったからもう不幸は訪れない、と思うだけでも少しは変わるのかもしれない。

だが、人間は疑り深い生き物だ。噂の神社に来て、厄を祓ってもらう。そこで完全に祓われた、と盲信する人は早々いない。

だから、もし彼女がお祓いをしても何の力も出せない人間だったならば、幾度かに渡って神社に訪れて不服を申し立てる人が出てくる。

しかしそれを裏返してしまうのが、やはりこの俺の経験だ。八十数日は通い詰めている俺だ、何度か参拝に来ている客が目に付かないわけがない。

やはり、間違いなく、彼女は神様だ。

俺の経験だけで言っていることだが、それだけで充分。彼女は、神様だ。


「あ?女の子なの?」


「彼女」という言葉に反応したのか、迅太は問い返してきた。神様に性別があるのかは分からないが、とりあえず外見とか声とかは女で間違いはない。恐らく、と俺は答え返す。


「ほおー、やっぱおかしい。お前の前に、あろうことか神様が、ましてや女の子が現れるわけがない」


俺もとても不思議だと思っている。超平凡な高校生活、ひいては人生を送ろうと思っている筈の俺だが、どうしてかこの明らかにおかしな状況から抜け出したくない、と思っているようだ。

それでも、昨日と一昨日、俺がこの目と耳で見て聞いたことは間違いなく真実だ。俺は平凡な人生を送るにあたり、嘘は付かないようにしている。嘘を付いて人間関係が壊れてしまうなど、それこそ平凡ではない。


「ふっ、そこまでお前が推すなら、その神様とやらに会ってみたくなるな」


さっきまで神様とかいない等と否定をしていたというのに、なんて男だ。

しかし、俺は迅太を彼女に会わせたくない、と希望を告げた。


「なっ、なんでよ……まさか、独り占めする気か!」


どうしてそうなる。まあ、迅太のことだから少しは予想できたことだが……。

迅太は昔から成績が良い。というのも、俺と迅太は、小学校三年生の頃からの知り合いなので、小さい頃の彼を少しは知っている。成績がよかったのと同じように、性格の本質が昔のまま変わっていない。

頭脳、身体能力、外見、どれを見てもいわゆる二枚目である。しかしそんな彼の性格を、俺はあまり好ましいとは思わない。

口も態度もとにかく軽い男で、側にいると鬱陶しいことこの上ない。加えて欲望に満ち満ちている。学生だというのに金や女に目がなく、周囲から「強欲な二枚目」などと呼ばれて避けられている始末だ。小学生の頃は、さすがにここまでではなく、割と許容可能なくらいだった筈なのだが……。

それなのに一体どうしてこんなごく平凡な男に関わるべしと勇んでくるのか。こちらから話し掛けたことは一切なく、小三のときの初めての会話も迅太からである。

金にも女にも全く縁の無さそうな、いやはっきりと無いと言えるこの俺に、どうして声を掛けてきたのだろうか。今になって、改めて疑問に思う。

とにかくそんな性格なので、彼女に、と言うよりも誰にも迅太を紹介したくない。そもそもこんな奴と関わっていると思われたくない。

俺は断固として、迅太を引き離す。俺の態度は、それはあまり好ましくない辛辣なものだったかもしれないが、相手が迅太であることを踏まえれば、そんなことは問題ではなくなる。

というか、俺は帰ったらすぐに会いに行きたいのだが。お前には部活だかバイトがあるだろう、と返答する。


「待ってはくれないのか……」


誰が待つか。そう言われて迅太を待った人間はこの世にいるのだろうか、いやいないだろう。迅太は女子はおろか、同じ男子にも少なからず嫌悪感を抱かれている。当然俺も抱いている。


「はいはい、分かりましたよ。今回のことは諦めるとしよう」


迅太が自分の席に戻ったことを確認すると、ほっと息をつく。

自分でもどうしてあんな人間と関わっているのか不思議になるくらいである。こちらとしてはとても鬱陶しいので早くどこかに行ってほしいのだが、なんの縁なのか、自称超平凡人生きっての珍事かつ不幸である。

しかしここで、迅太の家庭事情を思い浮かべる。

迅太の高校での成績を鑑みるに、どう考えてもこんな地方から離れて他の高校に行くべきなのだが、実は梶間家には、他所に行けない理由がある。

梶間夫人、頼子さんは体が弱く、妻思いの夫、甚助さんが彼女の体調を慮り、空気の澄んでいるこの大岩井市に越してきて、過ごしているのである。

迅太も、そのせいで自分が都市部の高校へ行けないことを了承しており、こちらの高校を卒業したのち一人で自立する、と両親に話しているらしい。

これを思えば、仕方ない、残りの高校生活のみの辛抱だ、と強引だが、自分の中で納得させることができる。この方法はよく使う。というよりもう数えきれないくらい使っているのだが、そろそろ俺はこの方法に飽きないのだろうか……。


残りの午後の授業が、そしてホームルームが終わり、放課後に入る。掃除の当番でこそなかったものの、日直だった俺は、日誌の提出やらで少しだけ時間を食ったが、そそくさと教室を、そして正面玄関を出、校門をくぐる。

澄んだ空気が俺を迎える。俺の体を涼しい風が打つ。快晴の空を見上げて、意気揚々と走り出そうとしたとき。

右肩を掴まれた。この掴み方には覚えがある。というより俺の肩を掴んできた輩はこの世に一人しかいない、そして恐らくこれからの人生でも肩を掴むのは一人しかいないだろう。もう決まっているようなものである。

俺は、恐る恐る後ろを振り向く。そこには、息を切らした男が頭を垂れていた。顔を確認しなくても分かる。

迅太だ。頭が垂れていることで彼の髪が大袈裟に俺の顔の前に据えられている。清楚とした黒髪、前髪もしっかりと整えられており、少し鼻を動かせば芳しいシャンプーの香りが漂う。

彼は顔を上げる。清い頭部が持ち上がり、出てきてはいけないところが現れてしまう。

だが顔が悪いとかではなく、むしろとても良い。イケメンである。別に妬ましいとか思ってはいない。それらの要素すべてをぶち壊す発言が、俺の耳に入ってきた。


「これから、神様に会いに行くんだろ?おれにも紹介してくれよ。女の子と聞いちゃあ黙っちゃいれねえからな、はっはっは」


酷い。あれだけ突っぱねたはずなのに、まだ来るか。

仕方ない。彼女には勝手に付いてきた、って言い訳しようか……もしこいつが彼女に変な事を仕出かそうものなら、さすがに罰を与えてくれるだろう。それはそれで良い気味だ。

とりあえず肩の手を振り払って、何時にどこへ行けばいいかを伝える。このまま行っても彼女の仕事が終わるのを待たなくてはならないからな。

まあ、俺はすぐに行くが。


「厄神神社?っていうと、あの巫女さんが!?」


迅太は驚きの表情を露にする。

なんだ、知っているのか……って、知ってるのかよ。俺も迅太のように驚きを顔に浮かべながら、体を後ろに少し反らす。


「今思えば、あの巫女さんは変わってるかも。まさか神様だとは思わなかったが」


まさか知っているとは思わなかった。厄神神社は迅太の家とは逆方向だから赴くことなんてあるのか。

一体何の用事で彼女に会ったんだ、と聞く。


「いや、そりゃあお祓いよ。三年になってクラス替えがあったけど、やっぱり皆がおれを避けていくから、なんか不幸なのかなってさ」


確かに彼女はお祓いを仕事にしている。噂を聞き付け、それ目当てで行ったのなら、納得がいく。だが、その不幸の元凶はお前だ。お前のその性格が自分の不幸を産み出してるんだ。つまり自業自得、その歪んだ性格を直さない限り、彼女がいくらお祓いしてもお前に不幸は降りかかる。というよりも自分で不幸と考えているだけでそれは不幸じゃないと思われる。

しかし、一度お祓いに来ているなら、ほぼ常に厄神神社に張り付いていた俺が気付いてもいいものだが、恐らく私服で見分けがつけにくかったかもしれないし、もしかするとどうやっても俺の来ることのできなかった時間に訪れていたことも有り得る。

……まあいい。校門から既に俺と迅太の帰宅方向は逆。じゃあ、さっき言った時間に厄神神社で、と、手を挙げながら冷たく言い放つ。

おう、と迅太が、握った拳から親指を突き立てるポーズを取った。途端、「お兄ちゃーん!」という澄んだ女子声が校門付近に響く。その声は、どうやら俺たちに放たれたようだが、俺には妹などいない。では、迅太に向いているのか。

俺と迅太はその声の方を向く。俺たちのように帰宅する生徒が何人もいて、その内何人かが俺たちと同じようにその方向を向く。

外見から察するに、恐らく四月に入学した一年生の少女ーーこの高校では女子はリボンを着ける決まりがあり、その色は学年で異なっている。彼女は一年生を示す緑のリボンだ。男子はリボンではなくネクタイを着ける決まりがある。色は女子のそれと一緒だーーが、こちらに向かってきている。


「げっ!じゃ、じゃあさっきの時間にな!!」


迅太が物凄く慌てながら言い放ち、その場を駆け出していく。そんな彼の後を、先程の一年生の少女が追いかけていく。

お兄ちゃん、と呼んでいたか。迅太が家族のことを話したのはずいぶん前のことになる。思い出せないのかも知れないが、妹がいると言う話は聞いたことがない。

彼が慌てて逃げたところを見ると、色々と不肖の妹なのかもしれない。それならば、俺が誰かに迅太を紹介したくない気持ちと同じように、妹のことを話したくないのかもしれないことは、容易に想像できた。

しかし、あのように迅太を追っているところを見ると、やはり不肖の妹で間違いはなさそうである。迅太は学校中……とまではいかないかもしれないが、とりあえず酷い性格で噂になっている。今の光景は、同級生である三年生の目には全てが嘘だとしか見えていないようだ。俺と同じように、迅太と彼の妹が走り去っていくのを見ていた。

二年生と一年生は、何事もなかったのように既に歩き出していた。

俺も、彼らのように歩き出すことにした。


家の中の、自分の部屋に帰り着く。携帯で時刻を確認すると、まだ四時にもなっていない。ここから厄神神社までは徒歩でも十分程度の距離。今から行ってもかなり長いこと待たされるのは明白だった。

今までは、学校が終わればすぐに神社へと向かっていたが、それは彼女と話さずしてその正体を探るためで、今となってはそんなことをする必要はない。

では少し時間を経たせてから行くかと思う。しかし、暇を潰してくれるものが思い浮かばない。彼女を見に行くことは、俺にとって暇でしかなかった放課後をガラリと変えた、何かだったのかもしれない。

本当に少しなら、無くもないか……確か今朝、冷蔵庫にチーズケーキが入っているとかなんとか、親が言っていた気がする。そうだな、ケーキをゆっくり味わってから行くとするか。

迷いもなく自分の部屋を後にする。基本的にこの時間には誰もいないリビングに颯爽と入り込み、ガラリと音を立てながら冷蔵庫を開け、躊躇いもなくケーキを取り出してテーブルの上に置く。戸惑うことなくケーキを食べるのに適するフォークとナイフを一つずつ、食器棚から選びとる。

椅子に座ると、チーズのほのかな香りが鼻を刺す。ケーキを見ていると思わず涎が垂れてしまいそうなほど、美味しそうだ。

いただきます。両手を合わせて、虚空に声を響かせる。

部屋を出るところから椅子に座るまでの軽快且つ爽快な動作からは想像もできない、とても慎重なスピードでフォークを持ち、ナイフを握る。

中央付近を三叉の槍に抑えられた二等辺三角形が、銀の刃によって尖端が切り取られることで、台形へと変化する。切り取られた三角形は、抑えていた槍に突き刺されて、口へと運ばれる。

味わう、という行為は、ただゆっくり噛んで食べるだけではない。食物に対して神器を扱うことまでも、緩慢な動作であることも必要だ、と思う。

刃によって台形に変えられた二等辺三角形は、数十秒の時を経て、今度は直角とも元の形に相似しているとも言えない、微妙な三角形となった。切り取られた欠片は、先の切り取られた三角形と同じ道を辿る。やがて、元々二等辺三角形だった三辺の不揃いな三角形も、槍に刺された。

俺は三口でチーズケーキを平らげる。最後の一噛みになるまでそれを味わっていた。たかがチーズケーキ、されどチーズケーキ。俺はこのチーズケーキに五分の時間を掛けた。

両手を合わせて、ケーキに感謝。ごちそうさま。

それにしても、貰い物だと聞いているが、よくもまあこんな高そうなものを貰ったものだ。しかもそれを俺に食べさせてくれるとは、なんたる幸運。人に言ったことは一度もないが、俺は割と甘党なのでこれは嬉しい。ちなみに聞かれたことも一度もない。


神社前の階段に行き着いたのは、四時二十分だった。正直、どれだけ食事を味わうことで時間を潰そうと思っても、限りがあるからそこまでの時間が食われない。

ここに来るまでも、なるべくゆっくりと歩いて来たつもりだったが、残り一時間は待たなくてはならない。

階段前で一度来た道を振り返り、他に人が来ているかどうかを、いつもやっているように確認したが、やはりこの町には、人は早々来ないらしい。


ここ大岩井(おおいわい)市は、土地が広く緑豊かな地だ。都心から離れてこそいるが、しかし不便なことだらけではない。

都心へ続く鉄道はしっかり整備されているし、広い土地と坂の多さに合わせて、バスもきちんと運行している。大手のスーパーだってこの地に手を伸ばしている。

ただ、大学や専門学校といった、高校卒業後の進路と呼べるものが就職以外になく、その高校も市内に三つくらいしかない。小学校中学校もその程度で、幾度も合併を繰り返してきた。それに、いくら鉄道やバスが走っていても、一日に走る本数はかなり限られている。

大岩井市は鉄道によって中央を分断されていて、特徴とも言える広大な農地が南側にある。もちろん、農地しかないわけではない。

ーーではない、が、何かめぼしいものがあったりする訳ではない。学校は小中の一貫がたった一つ、高校は無いし、デパートはおろか小さなスーパーすらもない。販売店舗は、コンビニエンスストアが駅のそばにあるのみ。

けれども、そこでしか何かを買うことができない、ということはなく、農家が直接販売している、無人店舗がいくつかある。利用しているのは、ほとんど南に住んでいる人たちだけだが。

北は南と対象に、都会のような高層のビルこそないものの、家々が立ち並び、農地はほとんどない。道幅が広く、車が容易に通行できる。しかしそんな環境とは裏腹に、あまり車は通らない。

乗用車を運用する上で無くてはならないのが、ガソリンスタンドであるが、北側には二つしかなく、南側にはそもそもない。それに、都心から離れてもいるし、都心との間にちょっとした山があって、トンネルが開通しているのは鉄道の線路のみ。つまり面倒なことに、車両は坂道を上っては下らなければならないのだ。


厄神神社は、そんな市の南東にある。南東と言っても、鉄道の踏切の中で最も東にあるものからちょっと歩いた辺りなので、東側と言っていいかもしれない。農地のそばにある赤い鳥居が目印で、そこから神社へ階段が続いている。

階段は鬱蒼とした林を貫いている。段数は約七十段。それらの随所を深緑が覆う。途中で右や左を向けば、小動物が闊歩する姿が見られるかもしれない。俺は今まで何度かリスを見掛けたことがある。基本、すぐそばの樹に登っていた姿だけなので、注意深く見渡せばもっと見つかるかもしれない。

残り十五段くらいになると林が開け、境内と階段を隔てる、これまた赤い鳥居がお目にかかれる。階下のそれとは違い二回りほど大きく立派なので、その向こうの社自体もそれは荘厳なのだろうと思わせる。

実際見てしまうとそんなことはない。


ときどき、この神社に人が並ぶときがあるが、それらは火曜日に見たような連れ立った者たちがほとんどで、彼ら以外の列を見るのは、ごく希だった。最近は、ただでさえ少ない参拝客が、減ってきている気さえする。

仕方がないことだろう。恐らく、今まで来ていた客は大抵が大岩井市の住民だろうからな。それに、彼女のお祓いの効力が高いことによる、二度目の参拝が無いのも、お客の減少にかなり関わっていそうだ。

参拝客がいなくなってしまったら、彼女はどうするのだろうか。もしかすると、他の地へ行ってしまうのだろうか。人のいない寂れた神社なんていくらでもある。お祓いやってます、なんて聞けば、神社はとても賑やかになるだろう。この町のように人の少ない町でなければ、であるが。

という心配をしながら、階段を上りきる。昨日と一昨日も、それ以前もずっと見ていた彼女は、今まさにお祓い中で、お客は、彼女からお祓いを受けている人以外は見当たらない。

次の客は、と鳥居から顔を出して階段を見下ろすと、一人の男がゆっくりと上ってきていた。俺が階段下の鳥居辺りから見たときには人が来る様子はなかったのだが、まあ階段はゆっくりと上ったし、と納得する。

が、そこで俺は思う。階段の上から見下ろしているので、上ってくる男の頭くらいしか見えないが、むしろその頭だった。

彼は客ではなかった。なぜならーー


「おーす、先に来てたか」


迅太だ。どうしてこんなに早くに来たのか、と言うことが甚だ疑問ではあるが、そんな疑問を一時的に鎮める。

俺の隣を、お祓いを受け終えた参拝客が通り過ぎ、そのお客に向かって、彼女は礼をして、手を振る。やはり、その動作も、彼女の声も、昨日から何も変わらない。


「ありがとうございました。また来てくださいね~」


そう言えば、火曜日も月曜日もその前の日も、恐らくいつでも彼女は「また来てくださいね」と言っていると思うが、俺の記憶によれば一人も二度目の来訪がない。

その事について尋ねてみようかと思ったが、当の本人が、階段を上っている迅太に気付いて、参拝のお客様ですね、と言葉を掛けたことで、それは一時的に取り止めになった。


「いやいや、お祓いじゃなくて、君に用があるんだ、厄神神社の可愛い巫女さん」


「ふえっ?」と不意を突かれたように彼女は首を傾げる。


「こいつと目的が一緒ってことさ」


「えっと、ということは……?」


全く面倒な言い方だ。神様が困ってるじゃないか。仕方がないので俺が話に入って、事細かに説明する。そこまで細かく説明する必要のないことだったけれども。

彼女は事情を解ってくれたようで、俺は安堵する。それに、何だろう、その話をしたとき、嬉しそうな顔にならなかっただろうか。月曜日に確認したように、興味を抱かれることが、とても嬉しいのだろうか。

「ちょっと待っててくださいね、すぐ来ますから」と彼女は言い、駆け足で社に入っていった。参拝客が来たときどうするのかと思ったが、今のところ客は来ていない。

それにしても、迅太はどうしてこんなに早く来たんだろうか、いやそれを言えば俺も早く来ているが、まあ何もすることがないからだ。

というより、迅太には部活とかバイトがあったはずだ。


「んや、バイトは今日はない、部活は、まあ、あったけど」


あったのかよ。なぜ休んでまで彼女に会いたいと思うのだろうか、俺にはさっぱり分からない。初対面ではないにしろ、それでもたったの一回しか会ってないだろう。


「だってよ、ごくごく平凡な奴の前に現れるほどの女の子だ、しかもお前が言うには神様と、こんなの会わずにはいられまい」


改めて呆れる。だが確かに、彼女は何か、不思議なものを感じさせる。俺がそれの虜になっている……と言ってしまえばそうなのだろう。ましてや、俺は超平凡であることを自称しているくらいなのだ。異性への運など持っての他。やはり、彼女はーー

そう言えば、校門前で見かけた、迅太の妹のことがふと気になり、聞いてみることにした。


「ん?珍しいな。お前から質問してくるだなんて」


……思えば、そうだ。俺たちが今まで会話してきたのは基本的に迅太からふられた物だった。俺から会話を切り出すこともなくはなかったが、しかし所詮それは、その場で起きたことやついさっきの、バイトがあっただろうといった疑問の解答を求める物だけだ。

今回のように全く繋がりのないところから会話を切り出してしまうというのは、極めて珍しい。そうとすらも言えないかもしれない。これが初めてなのでは、とさえ思ってしまう。

原因は恐らくーーと考え始めると、迅太が口を開いたので、考えるのをやめた。


「まあ、別にいいか。話してやるよ、妹のこと」


立ち話もなんなので、と、鳥居のすぐ側に据えられている粗末なベンチに腰かけることにした。

ちょっと長くなるが……と迅太は言う。構わない。俺は隣に座る迅太に顔を向けて頷く。


「名前は苑葉。おれの二つ下で、見てたと思うけど一年生。春からおれたちと同じ学校に入学。成績は……どうかは知らない。って言うのも、小さい頃は一緒にこの辺りに住んでたんだけど、あいつが小学校に入学するときに、えーと叔父さんのとこかな、都市部のとこ、とにかくそっちに移っちまったんだ。母さんがほとんど仕事できない体なのは知ってるよな。そんなんだから、家計とかの問題であっちに行ったんだと思う。

んで、こっちに来たのは春からで、家計が安定してきたとかそう言うわけではなくて、贅沢できないぞーとか、バイトしてくれよーとかって条件付きらしい。そんな訳で、おれは小学中学時代のあいつのことは全然知らない。まあ聞けば教えてくれると思うんだけど、なんかやたらにくっ付いてくるから逃げるので精一杯だし……。小さい頃は、ってもそんな長い間じゃなかったけど、こんな酷かったことはなかった。あんまり思い出せることはないけど。小中で何かあったのかなあ」


迅太は深くベンチに腰掛け、少しずつ赤みを帯びていく空を仰いでいる。

なるほど、そんな事があったのか。いつになく真面目に、迅太の話を聞いていた気がする。にしてもこの兄妹は、年を重ねるにつれて性格がねじ曲がっていくのだろうか。


「まあおれもなんでそんなことになってんのか気になってるし、何か聞いたら、話してやるよ」


俺から話し出したのは、この迅太の妹の話題だけだった。以降全て、迅太が作った話題だった。

今までの会話として成り立っていた話し合いは、いつも迅太から振られた話題によるもので、つまりいつものことなのだが、迅太が話題を振り、俺が適当に返して終わりだった筈の俺たちの会話は、不思議と弾んでいた。

そんな事実は、俺にとっては屈辱でしかなかった。まあしかし、この会話が誰かに聞かれている訳ではない、ということでもう諦めることにした。


だいたい十分くらいだっただろうか。彼女が戻ってくるまで、いつもとは全然違う雰囲気の会話を続けてしまっていた。

何故だか、俺はその会話を止めるのが嫌になってしまっていた。いつもならば、もう話し掛けられることすら嫌がっていた筈なのに……。


「お待たせしてすみません、それでは、お願いします」


彼女は、宣言通り戻ってきた。俺は迅太と話をするためにここに来ているのではない。けじめはしっかり付けねばならない。

しかし、迅太との会話が自分でも恐ろしくなるくらい快適に進んでいたので、待っていた、という感覚はない。

それで、今日は何をするのかな。俺たちは、何をお願いされたんだろうか。


「昨日言いそびれてしまったんですが、私、この町に来てからずっと神社にばっかりいて、町のことあんまり知らないので、その……」


「なるほど、案内してほしいって訳だな、了解。おれもこいつも小さい頃からここにいるから、何でも教えてやれるぜ」


そうなんですか、ありがとうございますっ。と一礼した彼女は、満面の笑みで嬉しさを表現している。

迅太が言った通り、俺も迅太も幼少期からこの町に住んでいるので、知りたいと言うならお安いご用だ。

じゃあ早速、と迅太は既に階段を降り始めている。彼女は、それに続いていた。

あれ、と思う。まだお祓いを受け付ける時間の筈だ。もし迅太との会話時間が体感十分であったとして、しかし実はかなりの時間が経っていたのでしたーなんてことがあっても、終了時刻の五時半にはさすがに及ばないだろう。俺が迅太と話始めたのは少し盛ってみても四時半。一時間も経とうものか。

これは聞かねばなるまいと、彼女に追い付いて問い掛ける。


「そのことなら、さっき人払いの力を掛けたので、問題ありません」


人払いの力……聞いたことがある。その力を張った場所には人が寄り付かなくなる、という名の通りのものだろう。もちろんそれはサブカルチャーの知識に過ぎないが、それくらいでしか知識を蓄えるところが無いのも、事実だ。

ついさっきお社に戻ったのは、人払いを掛けていた、ということになるだろう。改めて、彼女が神様であると認識させられる。

もちろん、効果があれば、だが。仕掛けていた現場を見ていた訳ではないし、もし見ていたとしても参拝客が来ていては意味がない。

おっと、俺は彼女を疑うつもりなど毛頭ない。参拝の客が来なくなったのならば、それで充分。安心して俺も二人に続いて階段を降り始めた。


所々に緑が生える階段を降りていく。辺りは、微風によって囁く木々の音と、俺たちの足が階段を踏む音にのみ包まれている。

森の静寂、田舎の静寂と言えるそれが破られたのは、階段が貫く林に入って、十段ほど降りた辺りでのことだった。


「なあ巫女ちゃん」


神様に向かってなんと言う呼び方をしているんだ。いや確かに彼女は巫女さんと呼んでくださいとは言っていたが、さすがにどうかと思う。

しかし、彼女は何も気にしていないようだった。なんでしょう、と迅太に返事をする。


「その服装で町に出るのかい?」


彼女は完全に巫女装束をしている。それには俺も、薄々気になっていたところだ。

俺の経験上、神社ではほぼ毎日この服装をしていた。もちろんその服装でお祓いを行うことには何も問題がないし、むしろ雰囲気も出て良いことだろう。

けれども、今は町を歩き回るのだ。かなり目立つだろうし、動きにくいのではなかろうか。


「大丈夫です。それに、こうして巫女の服装をしてたらお客さん増えるかもじゃないですか」


彼女は笑顔で、いつまでも変わらない声で言う。

確かに、そんな服装に「厄神神社の巫女です」と一言添えるだけでも九割方信じられることだろう。

少しでも参拝客を増やすため、ということか。なんと懸命なのだろう。

平凡人生を送りたいと思う俺は、目立つ人の側にいることをいつも嫌うが、今回はそんな彼女に心を揺り動かされ、不思議と自然に我慢してみようと思えた。


「そうか、なら、そうするといい。中々可愛いと思うしな、その服」


彼女は、変な言葉で、だがいつもの声で驚く。「そんなこと……」と両手を頬に当てる。

俺は一度拝めているが、神様の照れた仕草なんてそう拝めるものじゃないからな。そんな喝を、視線だけで迅太に送る。

迅太はその視線には気付かずに、新たに話題を仕入れたようで、話を始め出す。

その話とは、迅太がひたすら彼女の良いところ、言ってしまえば可愛いところを挙げていくというものだった。

俺は心中で、しつこいよなー罸受けないかなー受けてほしいなー、と心底呆れながら、階段を降りていった。


周りがざわつき始めたのは、ちょうど踏切を越えた辺りだった。


「やっぱその服目立つよなー、しかもこんな色男も付いてちゃあ、仕方ないか」


そんな二人に付いていけていない冴えない俺を除きつつ、そんなことを迅太は呟いた。けれども、二人よりも遥かに地味な俺がいるということで、より目立っているかもしれない。

いつもならこんな視線には耐えかねる。もうこの場からすぐにでも離れたいが、なんだかそうした方がより耐え難いものになってしまいそうだし、ついさっき我慢すると決めたのだ。


「この大岩井は、さっきの踏切が真ん中あたりに走ってて、それのせいで南北にきっちり分かれてるんだ。一言で言えば、南には農地が、北は商業地、って感じだな。面積的には北の方が狭いけど、単純に考えて人は多いから、神社の宣伝すんならこっち側だな」


まあ、南側はあんまり案内するとか必要のない場所だから先こっちに来たんだけど、と迅太は付け加えるように小声で呟く。

言ってしまえばそんな感じになる。俺は南側に住んでいるから北に住んでる迅太よりも少しは詳しいと思うが、それでも南側には優先して何か教えておくものがある、というものはない。

それにしても、と思う。

迅太は学校ではいつも、話し掛けにいっては避けられるか、適当な返答をされて会話を切られるかの二択で、今のように話をしているのは、ちょっと記憶にない。

正面から見て、左から迅太、彼女、俺と横に並んで歩いている訳だが、右の二人の掛け合いが、俺にそう思わせた。

学校で、生徒からの評判はとても悪い迅太だが、先生方からはその成績や当たり障りのない性格から割と厚い信頼を獲得している、という話を聞いたことがある。

今の彼女との明るい会話を聞くに「素」の性格は、正義感があって責任もちゃんと果たせる、やはり完璧に形成されているのであろう。

それでも生徒から人気を勝ち取れないのは、成長過程で、そんな誰とでも接することができるのが裏目に出、不純物を取り込んでしまったから、なのだと思う。

それもかなり早い段階で……っと、俺は巫女である彼女に町のことを案内しているんだ。迅太のことは、今はいい。

特筆して何か教えておくべきことはないが、南側を散策しても歩き損になるわけではない。二人の陽気な会話に、南の知識に詳しい俺は混ざろうと思う。

ちょうどよく俺の目に自動販売機が入ってきた。何か飲むか、と一段落したと思われる会話に入り込む。

そこで考える。神様は自動販売機の存在を知っているのだろうか、と。

そもそも何を食べているのか何を飲んでいるのかという疑問にも辿り着く。人間では当たり前の食事、しかしそんな人間を超越した存在である「神様」だ。その辺は一体どうなっているのか。

一度、神様のことを何も知らずに喋り出したことに詫びを入れ、改めて、食事について聞く。


「特に皆さんと違いませんよ。夜に寝て、朝に起きて、決まった時間に三回の食事を摂って、寝るんです。外見も内面もどこも違いません。喉が渇けば飲み物が欲しくもなります」


彼女は当たり前のように、当たり前の声で俺に告げた。


「ほおーん、神様っつっても、おれたちとなんか違いがある訳じゃねーんだなぁ。んじゃ、何か飲みながら行こうぜ」


迅太は既に自販機から飲み物を取り出している。俺は何を飲もうかと考えていると、ですが、と言う小さな声を聞く。


「私、お金とか持ってないので、買えないんです……」


何故かごめんなさい、と謝る彼女。お金がないのは納得できるが、別に謝る必要はない。人間の常識には慣れていないということか。その辺りも、教えておけるだろうか。


「なぁに、おれが買うから気にすんなって。飲みたいの選んでくれよ」


自販機のそばに寄り、顎に手を当てて彼女は何を飲もうかと遠慮がちに考える。

そこで、人間と同じような昼夜のサイクルを神様も回しているのなら、基本的に食べ物は買わないといけないので、お金を持ち合わせていない状態で果たしてどのようにして飢えを防いでいるのか、と疑問に感じる。

さっきの発言は、今は持ってきていないことを意味していたのか、飢えを防ぐだけなら神様の力でなんとかなるのか、と言う考えが頭の中で対抗しあい、自販機から飲み物を取り出した彼女に話し掛けようとする。

しかし彼女が選んだ飲み物が、ちょうど話の種となるものだったので、神様だからなんとかしてるのだろうと軽く踏ん切りを付けることにする。

全く、さっきといい他のことに頭が寄りがちだな、と思いつつ、自分の欲する飲み物を選択する。

俺が選んだのは、彼女が選んだものと同じ「大岩井の林檎」。名の通りのリンゴのジュースである。

どうせ彼女がこれを選ばなくても俺が選んで話の種を持っていくつもりだったが、それはまあいい。

名前の「大岩井」とは、ここ大岩井市のこと。つまり、大岩井市で作られたリンゴのジュースなのである。程よい甘さで全国的に人気を博しており、他にミカンとブドウのバージョンもある。

その「大岩井ブランド」の原料である果物が南側で栽培され、市の南西にある大岩井工場に集められ、一気に生産される。

と言うことを、物知りのようになるべくながーく話すつもりだったが、さすがは大岩井、全然時間が掛からなかった。

話の目的としては、とりあえず大岩井の人では知らない人のいない南側の常識を頭の片隅にでも置いておいて貰うだけだったので、それは果たせたと思う。

実は大岩井工場はかなりフランクな工場であり、見に行こうと思えば、誰でもいくつかの設備や製造行程を見学することができる。

今日は北側だけを案内すると迅太は言うので、次の機会にでも南側の工場に行ってみないか、と最後に付け加える。

彼女は、喜びの表情で、喜んで、と言う。神様にとっては、人類の進化した技術を見ることのできる貴重な経験になるのではないだろうか。

そもそも人間を遥かに超越しているのだから、いくら人間の進化した技術であっても、見る必要なんてないかもしれないが、それは置いておきたい。


それからだいたい一時間くらい。その頃には、もう周りの視線や雰囲気など、全く気にしなくなっていた。

所々で休憩を挟みつつ、時には厄神神社の巫女であることを広めつつ、彼女の知らないものにどんどん説明を施していく。彼女の世間知らずはかなりのもので、二人掛かりでも中々骨を折られた。けれども骨折り損にはなってはいない、とは思う。

そして、北側で三番目くらいに大きいとされているスーパーの前を通っている時だった。


「あれ?お兄ちゃん?」


俺たちの右手側から響いてくるその声は、記憶によれば今日校門前で聞いた、迅太の妹のものだったか。


「何でここに……って、お使いにでも来てたのか」


スーパーから出てきた妹、苑葉が両手に持つビニール袋を見て迅太はそう言ったのだろう。


「そうだよ。ちょうど良いからお兄ちゃん、一緒に帰ろ?」


大きなため息と共に大きく頭を落とす。苑葉は既に兄の目の前に立っていた。

そう言うわけで、悪い、と言う迅太には珍しい儚い言葉を残し、進行方向を逆に変え、妹と共にその場を去っていく。

取り残された俺と彼女は、しかし取り残されたとは思わずに、こちらもちょうど良いし、と二人に付いて帰ることにした。


「ああ、なんだ、結局二人とも帰るのか」


迅太のその言葉には力がなかった。そうなるほどまでに妹を毛嫌いしているのだろうか。その割にはちゃんと妹の振る話には付いていっているし、もちろん俺たちに掛けた様に力ない返答だが、本当に嫌いだという訳ではなさそうである。

しかし、いくら兄が相手だといってもここまで露骨なことをすれば簡単に離れてしまうのが分かるであろうに、この妹も中々強情なことだ。

兄妹揃って変なところを持っているんだなあと感心しているうちに、彼らの家の前、正確に言うと住んでいるマンションに着く。

迅太と苑葉は俺たちに軽く挨拶をして、颯爽と階段を上がっていった。

彼女は、お礼を告げて深々と頭を下げる。少しの間、手を振っていた。


賑やかだった一人が消え、交わされていた会話は、いきなり暗雲が立ち込めたようだった。

それもそのはず、賑やかだった迅太は、彼女の質問から始まる会話を除いて、交わされた会話の九割の開始点であり、他の話題への派生も彼の役回りだった。

そんな彼を失った俺たちは、当然のごとくほとんど会話をせずに黙々と歩いていた。

一度来ている道を戻ってきているので、彼女の知らないことがあったりするわけではない。彼女が開始点である会話にも期待できない。

それでも、自宅の前まで俺は脳をフル回転させて会話作りに励んだ。どれも迅太の明るい話題には敵わないものだったと思うのが悔しいが、彼女は何一つ不満をたてずにしんみりと聞いては答えてくれた。

そんな彼女のとても良い性格の甲斐があり、途中からではあったが、少しでも明るい雰囲気を保つことができたと思う。


一軒家である自宅の前に辿り着くと、母がまるで門番のように立っていて、一瞬、顔を見せるのが億劫になる。

母がこちらに気付く。この時間なら、いつもはこんなことはせずに、夕食を作り始めている時間なのだが、今回はどういうわけか門番をしていた。

外出用のフル装備をしており、鍵でも無くして入れないのだろうか、と思ったが、どうやらそんなことはなかったらしい。俺に近寄ってきて、すぐに喋り始めた。

どうやら、話を聞くに、いつもよりも帰ってくるのが遅いから心配になって探しに行こうとしたところだったという。門番っぽく立っていたのは、夕食を作らないといけない、というものとの葛藤によって起きたものらしい。

しかし、俺は高校三年生だ。夜遅くまで遊んでいても心配されるような年ではない。というのを分かっていないらしい、この母は。でもまあ、心配させてしまったのなら申し訳ない。

とりあえず彼女に別れを告げることにする。


「ありがとうございました。その、また明日も大丈夫でしょうか……?」


もちろん。短くそう答えて、それじゃあまた、と同じように短く告げる。

彼女は、迅太にもしたように俺にもお辞儀をして、手を振っていた。

彼女だけに手を振らせているのが癪になり、俺も少しだけだが、手を振り返すことにした。

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