約束を交わした火曜日
ーー疫病神、災厄を招いたり、病を流行せたり、といった行為を平気で行う神様のこと。数いる神様の中でも、そんな行いから人間から恐れられている神様だ。果たしてそんな神に「様付け」なんてする必要があるのか、という疑問に駆られる。当然する必要なんてないだろう。
しかし、今こうして俺の視線の先にいるこの疫病神には「様」をつけるべきだと激しく思う。何故かは、彼女の行いを日頃から見ていれば分かる。それにしても、彼女は常識で考えられる疫病神ではないんじゃないか、と言うことを、今日ここに来るまで考えていた。
俺は昨日交わした彼女との約束通り、学校から帰宅し、すぐに私服に着替えてこの神社に来た。今日で八十と一日目だ。何人かの参拝客が列を作っている。
彼女の仕事ーーお祓い業とでもいうべきかーーの時間は、午後三時から午後五時半までという短い時間の間だけだ。冬でも雨でも雷が鳴っていても行っている。当然ながら天候が悪い日には人はまず来ないので、仕事をしているとは言いがたい。
土曜や日曜に休むことはなく、時間帯さえ合っていれば年中無休で一日一回お祓いを受けられる。もっとも、一度彼女のお祓いを受けた客がここに再び来たことは、俺の経験からはほとんど無いと言える。
階段と境内を区切るかのように建っている鳥居を背もたれにして彼女の仕事の終わりを待つ。残りの参拝客は、今彼女が祓っている人を入れて四人。この日は珍しく、同時刻帯に人が並んでいる。小声だが、話しているのを見ると、どうやらツレらしい。
上着の胸ポケットから携帯を取り出し、時刻を確認すると、五時二十六分を示していたデジタル時計が、丁度二十七分へと変わった。鳥居から顔を出して、新たな参拝客が階段を上ってきていないことも確認する。
彼女の仕事である「お祓い」は、一見簡単なものだが、しかし効き目はバッチリなもの。参拝客に二度目の来社が無いのは、あまりにも彼女のお祓いの効果が高いから、と勝手に推測する。
お祓いは、一人に三十秒も掛からない。菱形の白い紙が数枚繋がれた木の棒を両手でしっかりと持ち、前後左右、そして上下に何度か振る。そして、変わらない声で、言う。
「その体にまとわりつく疫病、今討ち祓わん!」
既に残り二人になっている参拝客にお祓いする彼女の仕事は、もうまもなく終わるだろう。
まずは何を話そうか、纏めておこうと思った。一分しかないが、されど一分、充分だ。
と思いながら考察に励んだが、全然足りなかった。俺は彼女のことを知らなさすぎた。聞きたいことはたくさん浮かんでくるが、浮かびすぎて纏まらない。
頭の中で苦悶に叫んでいるうちに、俺の横を最後の参拝客が通り過ぎた。その少し後ろに彼女がいる。彼女は、本日最後の参拝客に昨日と同じように手を振り続ける。
客が完全に林に消えたのを、俺も彼女も確認した。俺たちは向き合った。
俺は、混乱しないよう先に何を話すか纏めようとして、結果、纏まることはなく余計に混乱してしまっていた。そのせいでなんだか恥ずかしくなって、階段と、麓の林へと目を背けてしまった。
彼女はその仕草を気にも止めず、言った。
「とりあえず、上がってください。ここで話すのもなんですから」
見事に倒置法を使っているが、やはり声は変わっていなかった。
俺は彼女と目を合わせずに頷き、恥ずかしさに口を歪ませ、頭を掻く。先に参道を行く彼女に着いていき、その流れで、いつも彼女の後ろにそびえていたお社を見据える。思えば、ほとんど俺はこの建物を注視したことはない。
厄神神社の外装は至って普通で、どこの神社でもこんな感じだろうと思う。だから俺の目には止まらなかった、と言うわけではない。彼女が目当てだったので存在しているのをあまり気にしたことはない。
彼女に先導されて、賽銭箱の横を通りすぎ、結果として拝殿を通過する。そのまま、拝殿の奥、神社の本殿とでも言うべき建物の中へと足を踏み入れる。
人生のうちで、境内に入ることはあっても、お社には入ったことがない、という人は多いと思う。俺もその一人だ。入ったことがないのでお社の内部がどうなっているのか分からないが、それでも、サブカルチャーに手を出している人ならば大方見たことがあるのではないだろうか。
もちろん、俺も少しはそれを手に取ったことがある。だから、だいたいこんな物だろう、と頭の中で内部の構造を組み立てられる。
しかし、今回ばかりはその想像を越える必要がある。サブカルチャーではない、現実にあるお社だ。ましてや、拝顔の対象である神様が実際に使っているお社なのだ。だからきっと中は、俺が考えているよりも遥かに上をいっているに違いない。
しかし、それはものの見事に裏切られた。
外装とまるまる同じであった。外から見たお社がどこの神社へ行っても見ることができそうならば、この内側もどこのお社でも見られそうである。
質素な横長の五段ほどの箪笥に質素な座布団がーー以降質素という単語は省くーー東西に一枚ずつ、それに挟まれるように円卓、天井には糸で吊るされている蛍光灯。厄神神社の四畳半には、たったこれだけの家具が揃っている。
西向きの神社のため、南側が入り口で、東側と北側に廊下が見える。外から見た感じでは、四畳半の部屋一つでは余りある大きさはあったはずなので、恐らく他の部屋に続く廊下だと思うが、それにしてもこの部屋は普通すぎる気がする。
彼女に勧められて、俺は西側の座布団に座り込んだ。相手は神様、普段していない正座に勤しむ。少し辛い。彼女はそそくさと、北側の廊下へと出て行ってしまった。別に聞く必要もなさそうだったから、戻ってくるまで待つことにした。
三分は掛からずに彼女は戻ってきた。両の手で、二つの湯飲み茶碗が載せられた木製の茶卓をしっかりと支えている。茶碗という見た目の通りにお茶を淹れてくれたのだろうか。
先に俺の前に茶碗を置き、向かいに自分の茶碗を置きつつ、座り込んだ。細かい種類までは分からないが、彼女の持ってきたものは予想通りお茶だった。北側の廊下はキッチンにでも繋がっているのだろうか。それにしても、神様が淹れたお茶。果たしてどんな味なのか……。
いやいや、今はそんなことは関係ない。頭の中の雑念を振りほどくかの様に、頭を左右に二回ほど振る。今度こそ、彼女としっかり話をするときだ。先程はまったく失礼を犯してしまったもので、しゃきっとせねば。
しかしそんな前向きな気持ちとは裏腹に、彼女と目を合わせた瞬間、体がビクッと震えて唾を飲むことになってしまった。
俺は今まで神様を見て、昨日、初めて神様と会話をし、今日神様の家に入り、神様の出した茶を頂き、そしてこうして神様と向かい合って座っているのだ。一人間としては、相手がどんな神様であろうと、一度は経験したいものではないだろうか。
生来、人間とは神様が創り出した存在である。もちろん人間だけではなく、動物や虫、微生物、植物も創り、果ては俺たち「生物」が生きる、この世界そのものも創ったのだ。
……と言われている。実際、人間は神様に出会ったことなど一度もないのでそれは真実ではないのかもしれないのだが。
つまり神様に対していったいどのような対応をとればよいのか、ということが限りなく未知であることは間違いない。言ってしまえばこの状況が未知の世界だったのだが、もうこの瞬間、未知ではなくなってしまっている。
とにかく、何でもいい、何でもいい、と頭の中から掴み出した一つの質問は、それはごく普通の質問で、この場には適してはいなかったかもしれないが、妥当な質問だとは思う。
ーーお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか。
相手はーー未知の生物、と言ってはいけないかもしれないが、人間にとっては未知であり、少なくとも人間よりも高位の存在であるのは間違いはないーー神様だ、これくらいの礼儀は弁えようと思う。混乱する頭の中で精一杯に敬語を絞り出した。
しかし、和を尊べば自分から名乗るのが普通である。この時の俺の頭の中はどうなっていたのだろうか。
「え?疫病神ですよ?」
彼女は困ったように答え返してきた。
と言うと「やくびょう がみ」さんでよろしいのかな。
……ん。ちょっと待ってくれ。それは「疫病神」だよな。つまり「種類」ではないのか。俺は名前を聞いているのだが。
お名前です、と再度聞き返す。しかし彼女は頑なとして疫病神、疫病神と続ける。ひょっとすると、神様には名前などは無いのだろうか。
一種類一神様ならば名前はーーそれならそもそも種類と言う概念が無いだろうがーー要らないだろうから、そういう制度なのだろうか、神様の世界は。
それでは、彼女の名前が疫病神だとして、俺はなんと呼べばいいのだろうか。
そこでふと思い付く。この厄神神社には、彼女のお祓い目当てで連日参拝客が訪れる。彼らにはなんと呼ばれているのか、それを彼女に聞いてみた。しかし聞いた瞬間、この質問の答えが、彼女の返答が来る前に分かってしまった。
「巫女さん、って呼ばれていますよ」
ほうら、その通りだ。俺が噂で聞いたのも、近くの神社に巫女さんが来た、と言うことだった。それならばもう巫女さんだろう。
そうした質問をしたことで、「巫女さん」という単語が頭に張り付いた。これならば、まだ呼ぶには値するのではないだろうか。
そこで、相手は神様、さすがに人間の用語である巫女さんと呼ぶのはマズイのではないかと思う。ここは「神子」などと洒落混むのはどうだろう。そう言おうと思い口を開けようとした。しかし彼女が先に言葉を放つ。
「あなたも、私のことは巫女さんって呼んでくださいね」
先手を打たれた。いやしかし、彼女が呼んでくださいと言っているならもう名前の問題で頭を探る必要はない、と勝手に納得する。
「えーっと、それで昨日言ったことなんですけど……」
そのまま彼女は続けた。昨日の言ったことと言うと、なんだろうか。何の事か分からない、という言葉と共に首を傾げた。
「もうこんな時間なので、えと、明日の十時くらいにここで会えますか?ほんとに短い時間でごめんなさい」
すみません、と携帯を取り出す。鳥居の側で時間を確認してから、実に五分も経っていない。体感的には、その三倍くらいは話し込んでいた気がしていた。
実際の時間で考えると、とても短時間であるが、相手は神様。お祓いだけしている訳ではないことは明白。何か他にするべきことがあるのだろう。
それでは、と彼女の言葉に対する返答を考えたが、常識的に考えてそれは一瞬だった。無理に決まっている。今日は火曜日、ならば明日は水曜日。学生である俺には絶対に無理な話だった。まさか夜の十時ではないだろう。運よく祝日だったーーなんてこともない。
「そ、そうですか、ごめんなさい。じゃあ、またこの時間で大丈夫ですか?」
まあ、学校のある時間帯でなければーー加えて、あんまり夜遅い時間でなければーーいつでも問題はない。部活動は特に入っていないし、アルバイトに励むつもりもない。というかそんな生活を送っているからこそ、八十日もこの神社に通えているのだ。
まあ、放課後に残ってまで作業するような学校行事があれば、さすがに難しいかもしれないが、この五月、近くに何か大きな行事があるわけでもない。
「ありがとうございます。じゃあ、また明日ここで」
了解した、という風に首を縦に振る。出された茶を飲み干してスッと立ち上がる。彼女も立ち上がって、部屋に入るときに使用した南側の戸を開ける。俺は丁寧にエスコートされた。
外に出る。太陽はもう半分くらい身を隠しているが、橙の輝きはより一層増しているようだった。
本殿を抜け、賽銭箱の横を、先程とは逆に通過する。彼女は俺の後ろを付いてくる。俺は赤い立派な鳥居をくぐり、階段を降りていく。
彼女は鳥居の側で止まり、俺の背中に深くお辞儀をして、言った。
「ありがとうございました。明日のこと、約束ですよー!」
俺に手を振る彼女のその声には、依然として変化は聞き取れなかった。
俺は一度階段を降りる足を止めて振り返る。彼女がしているように、少しだけだが、手を振り返す。
俺は神様と約束をした。これを破れば、今度こそ罰を受けられる、そう思った。しかし、破りたいという気持ちは俺の頭の中に浮かんでこそいたが、神社へと続く階段から見渡せる、遥か遠い地平線に今まさに沈み行く夕陽と共に、沈んでいった。