第8話 わたしと迷いと変化
結局、今日は篠塚にうちまで送ってもらってしまった。いつも通り、ママはいなかった。わたしひとりの家。いつものように美味しそうな夕飯を用意してくれていたけれど、今日はなにも喉を通る気がしなかった。お風呂に入る気力すらなかった。でも、昨夜も入っていないのだ──多分。明日が休みだったらよかったのに。わたしは仕方なくお風呂に入って、パジャマに着替えた。そうして自分の部屋に戻ると、髪も乾かさず、すぐにベッドに潜り込んだ。
パパは、殺人鬼さんだ。
布団の中で、そうつぶやいてみる。
パパは、殺人鬼さんだ。どういう経緯でそうなったのかはわからないけれど、殺人鬼さんになることが決まって、殺人鬼さんになるために、どうしようもなく、わたしとママの前から姿を消した。
それは、生真面目で、誠実で、穏やかでやさしいひとがなにも言わずに行方をくらましてしまう理由として、少しは信憑性があることのように思えた。だって、殺人鬼さんだもの。わたしはごろりと寝返りを打つ。だけど。
パパは、殺人鬼さんだ。これまで、罪のないひとたちを、指定された巡回地域の中で、夜九時以降に外出していたひとを、それだけの理由で、いっぱいいっぱい殺してきた、殺人鬼さん。もしかしたら、夜九時以降に外出するためのどうしようもない理由があったひとだって、あっさりと殺してきた、殺人鬼さん。
そんなのはイヤだ、と黒いもやもやが胸を押しつぶす。わたしのパパは、生真面目で、誠実で、優しくて、おだやかで──そうあってほしかった。けれどそれは、殺人鬼さんでは、ない。
ごろり。もういちど、布団の中で寝返りを打つ。
……でも、もし、パパが殺人鬼さんなのだとしたら。
本当に助けてくれたの、パパ。今日はベッドに入るとき、外さずに身につけていたペンダントを、ぎゅっと握りしめる。
あのとき。なにかがなければ──例えば殺人鬼さんであるパパが来てくれていなければ、わたしは紙沼さんたちに残酷なことをされるところだった。もしもあんな──あんなことをされていたら、今頃こんなふうに穏やかにベッドに入ってはいられなかっただろう。
紙沼さんは、ひどいひとだった。紙沼さんたちは、ひどいことをしようとした。それでも、パパ。
パパは、紙沼さんたちを殺したの?
まだ十八歳で、あるいは十七歳で、未来があって、将来の夢とか希望とかも持っていたかもしれない、そんなひとたちを簡単に殺したの?
まだ九時になってなかったのに、巡回時間になっていなかったのに、パパは紙沼さんたちを殺したの? わたしのために、殺したの?
そんなのってない、と思う。その一方で、でも、よかった。そんなこと思う冷血なわたしもいる。だってパパが、たぶんパパが、もしもあのとき来てくれていなければ、わたしは今、ぬくぬくと自分のベッドに潜り込んではいられなかった。もしも紙沼さんたちにおぞましいことをされていたら、うちを一歩も出られなくなっていたかもしれない。
でも。
だけど、それでも。
わたしはペンダントのふたをあけた。そこには二十歳前後の、生真面目そうな、誠実そうな、穏やかで優しそうなパパが、満面の笑みを浮かべている。
──わたしは、どうしたいんだろう。
今日の大貫さんと篠塚の話を聞いて、どうしたいんだろう。そう考えてみた。
この国はおかしい。カルケーを手にとってみる。今まで考えたこともなかった。この国は、おかしい。だけど、それをわたしが変えられるわけでもない。そうではなくて、わたしがしたいのは。
パパに、会ってみたい。
ペンダントをとじて、ぎゅっと握りしめて、わたしはそう思った。
「寝てないみたいだな」
翌日。合うなり篠塚の第一声は、そんなものだった。
たしかに眠れなかった。ペンダントをにぎりしめて、ベッドの中で一晩中、ずっと考えていた。しかし出かける間際に鏡でチェックしてみたけれど、目が腫れたりだとか、赤くなったりだとか、そんなことはなにもなかった。だから安心して登校したというのに、どうして篠塚にはひとめでわかってしまったのだろう。不思議に思って尋ねると、
「バーカ、どんだけ付き合ってると思ってんだよ」
だなんて、拳でわたしのお腹をぐりぐりと小突きながらも、嬉しい言葉が返ってきた。篠塚は口が悪くて性格も悪いけれど、本当のところはいつだって優しい。
「それで、あの話……どうすんだ?」
篠塚がわたしの机に腰をかける。スラックスに収まったすらりと長い足をなんとなく見ながら、わたしは考え考え言った。
「本当に、パパが……そうなのかは、わからない。わからないけど、大貫さんの言うとおり、確率は高いんじゃないかと思う。あの日のことを考えると」
「そうだな。それで、どうしたい?」
「……パパに、会ってみたい」
それだけ。
一晩中考えて、一晩中ぐるぐるして、結局たどり着いた答えは、それだけだった。わたしはパパに会ってみたいのだ。たとえパパが、殺人鬼さんなのだとしても。たとえパパが紙沼さんたちや──罪もないひとたちを、たくさんたくさん、殺していたのだとしても。
それでも会いたかった。生まれてからずっと会ったことのないパパ。行方不明になったわたしのパパ。生真面目で、誠実で、優しくて穏やかな、一枚の写真しか残されていないわたしのパパ。大切なわたしのお守り。わたしのパパの写真。
うーん、と篠塚が唸った。
「気持ちはわからなくもないけどな。だけど相手は──あれだろ? そう簡単に会えるはずもねえよな」
さすがに内容が内容なだけに、篠塚も焦点をぼかした言い方をした。ぺったんこの胸の前で腕を組み、そのまま片手でカリカリとこめかみを掻く。
「巡回地域に行ってみるってのも、結局は賭けだろ。もしも親父さんがあれじゃなかったり、何人いるのかは知らねえけど、ほかのヤツに会っちまったりしたら、こっちがお陀仏だぜ」
「そうなんだよね……」
ため息をついて、わたしは机に突っ伏した。わたしのまっすぐで黒い髪の毛が、さらさらと肩から流れる。その頭を、甘やかすように篠塚が撫でくれた。
「……なんか変。篠塚が優しい」
ぽつりとこぼすと、篠塚は鼻で笑った。
「なに言ってやがる。俺はいつだって頼りになるだろ」
「頼りにはなるけど、こんなふうにただ優しいだけなんてことはなかったよ」
「そりゃ、お前が今は弱ってるからだろ。紙沼のことから大貫まで、この二日でいろいろありすぎだ。だからたまには、飴だけくれてやろうって思うこともあるさ」
「うん……ありがと」
言って、再び机に突っ伏した。こっそりくちびるに笑みが浮かぶ。そんなことを言いながらも、わたしは篠塚が単にわたしの髪の毛を気に入っているだけだということも知っていた。篠塚はいつも丸坊主だが、本来は茶髪に近い明るい色で、伸ばせばふわふわした天然パーマになるそうだ。だから強情なほどまっすぐなわたしの髪が珍しくてうらやましいのだと、以前ぽろりと言っていたのを覚えている。夏の暑い頃、背中まで届く髪があまりにも暑くてうっとうしくて、もうバッサリ切っちゃおうかなとこぼしたわたしに、絶対に切るなと血相を変えたのも覚えている。
「これから、なにをしたらいいのかなあ……」
「大貫は、協力しろっつってたな」
「そっか、大貫さんに協力して、パパの情報を──」
「菱川」
ふいに、篠塚が真面目な声をだした。わたしは顔を上げて、首をひねって、篠塚の顔をまじまじと見た。声と同じように、篠塚はやたらと真剣な表情をしていた。
「お前、大貫にひとりで会いに行ったりするなよ。あいつ、なんか胡散臭い」
そうかなあ、わたしにはいいひとに見えたけど。
そう思ったが、口には出さなかった。篠塚は、相手がただ男性だというだけで評価をガクンとさげる節があるけれど、それだけではなくて、ちゃんとひとを見る目を持っている。対してわたしのほうはというと──言わずもがなだ。
篠塚がそう感じたからには、大貫さんには胡散臭いところがあるのだろう。こくりとうなずいて、篠塚のブレザーの袖をくいくいと引っ張った。
「篠塚、一緒に行ってくれる?」
「乗りかかった船だしな。行ってやるよ」
篠塚の頼もしい返事にほっとして、わたしはふたたび机に突っ伏して目をとじた。昨日眠れなかった反動だろうか、急激に眠気が訪れてきた。
「明日は『人口管理委員会を考える会』の活動日だから」と昨日別れるとき、大貫さんは言った。「こっちの方からも、攻められる部分は攻めてみるよ」
『人口管理委員会を考える会』っていったいなんだろう、と思いながらも、わたしは素直にはい、とうなずいた。
「とりあえず、毎日エンデバーに──そうだな、明日はともかくそれ以降は、顔を出すようにしてくれないかな。そうしないと、情報交換もままならないからね。まったく、君たちが携帯電話を持っていないのが恨めしいよ。メールも電話も簡単にできないなんてね」
「そんなの俺らのせいじゃねえだろ」
篠塚がばっさり切り捨てて、昨日の大貫さんとの初会合はお開きになった。
さて、そうして翌日になった。それじゃあ、今日はなにをすればいいんだろう。もどかしい気持ちはある。なにか行動しなければいけないという焦りもある。けれど、具体的な手段となるとなかなか思い浮かんでくれない。学校で篠塚とも相談してみたけれど、篠塚も「今のところは手詰まりだ。なにができるか、考えてはいるんだけどな……」ということだった。そのままいつものように授業を受けて、学校が終わって、そのままわたしはうちに帰ってきてしまった。けれど、これからどうしよう?
そんなことを考えながら、マンションのエレベーターに乗り込んだ。わたしはエレベーターが好きだ。エレベーターが狭くあればあるほどいい。定員二名くらいのの狭い狭いエレベーターに乗り込んで、そうしてちょっとした密室に閉じこめられて、ぐーんとのぼったりさがったりして、最後に扉がゆっくり開いていくのが好きだ。そう篠塚に言ったことがある。すると篠塚はなんともいえない顔で、「ジェットコースター的な乗り物感覚……いや、公的なパーソナルスペース……いや」などとぶつぶつ分析を始めていた。けれど、その分析の結果がどうなったのか、そういえばまだ聞いていない。
わたしひとりを乗せたエレベーターが、ぐーんと動きだした。そして、ノンストップで七階までたどり着いた。それだけのことでも、なんだか嬉しい。扉がゆっくりと開いた。足を一歩踏み出した。そこで、
「……美代さん?」
わたしのうちの扉の前で、ぼんやりと立っている美代さんをみつけた。美代さんはこちらに気づいていない。そしてなんだか──なんだかとても、美代さんはくたびれているように見えた。
「美代さん!」
わたしは声をあげた。美代さんがギクッとする。そしてわたしを見る。目があう。にっこり笑う。
「あらセイちゃん、早かったわね。おかえりなさい」
わたしは美代さんへと──うちの扉の前へと近づいた。美代さんは今日は薄紫色のスーツ姿で、お化粧も髪型もばっちりで、いつものように溌剌として、活力に満ち溢れていた。そう見えた。──もしも、さっきの美代さんを見てさえいなければ。あの、負のエネルギーをもうもうと背負い、背中を丸めて、どんよりとした瞳でうちの扉を見つめていた、美代さんを見ていなければ。
けれどわたしは、さっきの美代さんは見なかったことにしよう、と思った。美代さんだって、お仕事をしている大人だ。きっと疲れることだって、大変なことだって、いっぱいあるに違いない。それをわたしやママにはに見せまいと、うちの中ではあくまでも陽気に明るく振る舞ってくれる。だからこそ、美代さんには感謝をしているのだ。
「どうしたの? 入って待ってればよかったのに」
言いながら、鞄からキーホルダーを取り出した。美代さんにも、うちの合い鍵は渡してある。
「ああ、うん……そうね。そう思ったんだけど」
美代さんは困った顔で、首をかしげた。そんな子どもっぽい仕草すら色気たっぷりになるのだから、美代さんは偉大だ。
「仕事のことで、ちょっとトラブルがあって。急に戻らなきゃいけなくなっちゃったの。ちょうどセイちゃんの顔が見られてよかったわ。それじゃあね」
わたしに口を挟む隙も与えずに一気に言い終えると、美代さんはぐいぐい昇ってくるエレベーターに向かって歩いていった。
「頑張ってね!」
美代さんは肩越しに振り返ると、いたずらっぽい笑顔で小さく手を振って、ちょうど着いたエレベーターに乗り込んでいった。
仕事でなにかトラブルがあったから、美代さんはあんな雰囲気だったのかな。わたしはそう考えてから、それにしても、と思った。あんな美代さんは初めて見た。真っ黒いオーラのようなものを身にまとった美代さん。まるで、人生のすべてを投げ出そうとしているひとのようだった美代さん。どんよりと濁った瞳を思い出す。底が知れない深い沼のような瞳。相手が美代さんだというのに、わたしはなんだか──怖かった。
「セイ?」
突然声をかけられて、今度はわたしがびくっと飛び上がった。
顔をあげると、そこには驚いた顔をしたコウキ君がいた。
「なにやってるんだよセイ、廊下でぼーっとして」
そういえば、とわたしは思う。美代さんはエレベーターを呼んだそぶりはなかった。けれどエレベーターは下から昇ってきて、七階で止まって、美代さんは自然に乗り込んでそのまま降りていった。ということはわたしが降りてから、いちど誰かが下でエレベーターを呼んで、やってきたエレベーターに乗って、七階のボタンを押していたというわけで──ああもう。
ともあれ、美代さんとすれ違いでエレベーターから降りてきていたらしいコウキ君が、そこにいた。
「……ぼーっとなんてしてないよ」
「してるだろ。なんで鍵持って廊下で考えごとしてるんだよ」
言われてみれば、たしかにわたしはキーホルダーを握りしめたまま、自分の家の扉の前で、美代さんのことについて考え込んでいた。思わずわたしは赤面する。こんなふうだから『ぼんやりちゃん』なんて言われるんだ。
「セイ、暇なのか?」
コウキ君にふいに聞かれて、わたしは首をかしげた。
「暇だけど、なんで?」
「どうせ今日もおばさんいないんだろ。うちに寄ってけよ。母さんもセイに会ったら喜ぶし」
「いいよ!」
だってそんなことをしたら、また噂になってしまう。あれからまだ三日しか経っていない。あの噂だって、まだまだ下火になっていないのに。そう考えてあわてて首を振ってから、わたしは、あの交差点とは違ってここには見ているひとなんていないんだから、新しい噂になんてなるはずもないことに気がついた。
だからといって、コウキ君のうちに行く?
まるで知らないひとのようなコウキ君のうちに?
あ、でもおばさんんにはちょっと会いたい気がする。
悶々と考え込んでいると、ふと、ある考えが閃いた。
「コウキ君のうち、パソコンある?」
「まーあセイちゃん、大きくなって! 本当に久しぶりねえ、遊びに来てくれて嬉しいわ。それにしても昔はあんなにちっちゃかったのに、すっかりかわいらしいお嬢さんになっちゃって、まあでもまだちっちゃいわねえ、それにしてもまったくコウキもやるときゃやるもんねぇ」
「あの、お久しぶりです、お邪魔します。でも違うんです」
コウキ君のおうちにお邪魔すると、扉を開けてコウキ君が「母さん、セイ連れてきた」と叫ぶなり、どこからかすっ飛んできたおばさんの怒濤の攻撃が待っていた。身の置きどころがなくて、わたしはちいさくなって挨拶する。そんなわたしの背をコウキ君が軽く押してきたので、わたしはあわてて靴を脱いで、コウキ君のうちにあがりこんだ。
「セイはそんなんじゃないよ、昔の延長みたいなもんだろ。悪いな、セイ」
「まあまあ、そんなうまいこと言ってちゃっかり連れ込んじゃって、あんたがうちに連れてくる女の子なんてセイちゃんだけじゃない。ねえねえセイちゃん、これを期にどーお? コウキはこんなんでも顔もそこそこ見られるし、身長もニョキニョキ伸びたし、部活では表彰状もらってくるような成績だし、学校では生徒会になんか関わりはじめたらしいし、母親から見てもまあ性格もひねくれてはいないんじゃないいかなーなんて感じだから、そこそこお買い得だと思うのよ」
「だ、か、ら、そんなんじゃないって。セイはパソコン使いに来たんだよ」
「あの、そうなんです、お邪魔します」
わたしはこの数年で、コウキ君のおばさんのものすごいパワーのことを忘れてしまっていたらしい。洗濯機の中の洗濯物のようにぐるぐるとおばさんの言葉に翻弄されながら、わたしは思い出していた。そういえばおばさんはいつもこんな感じで、最後にはコウキ君に「うるさいからあっち行ってろ!」と怒られるようなひとだった。
「あら、パソコン? セイちゃん、宿題の調べものでもあるの? うちのでよければじゃんじゃん使ってちょうだいね。いつ来てもいいんだからね。でもねえ、ただひとつ残念なことに、うちのパソコンってば居間にあるのよ。部屋に連れ込めなくても残念だったわねえ、コウキ?」
「ああもう、うるさいからあっち行ってろ!」
懐かしい光景が繰り返されて、わたしは鞄を胸の前で抱えたまま、くすりと笑った。死んでしまったコウキ君と、知らないひとのようなコウキ君が、少しだけ噛み合った気がした。
おばさんを追いやったコウキ君が、憮然とした顔で戻ってくる。
「悪かったな、セイ」
ううん、とわたしは首を振る。だって、楽しかった。そうだ、わたしは小さい頃、コウキ君のうちが大好きだったのだ。わたしのうちと同じ母子家庭でも、このうちには賑やかさがあり、笑いがあり、わたしはおばさんの明るさと、コウキ君とのやりとりを見ているのが大好きだった。
「で、パソコンはこっち」
コウキ君に促されるまま、リビングに入る。うちの隣の隣にあるコウキ君のうちの間取りは、わたしのうちとそっくり同じだ。
うちだったら飾り棚が置いてあるスペースに、パソコンはあった。コウキ君は指紋認識装置に指をのっけて、パソコンをたちあげる。これも『是改青少年保護条例』で決められたことのひとつだ。パソコンをたちあげる時には指紋を照合して、未成年ならば有害なサイト──たとえばアダルトサイトなど──にアクセスできないように、ロックがかかる。
パソコンを起動させたコウキ君はそのままブラウザをたちあげて、検索ページを表示させてくれた。
「使い方はわかるか?」
「うん、授業でやってるから」
わたしはまず、検索フォームに「人口管理委員会を考える会」と入力してみた。検索結果ページの一番上に、公式サイトがあった。そのリンクをクリックする。わたしは大貫さんが所属しているという団体がどういうものなのか、知りたかったのだ。
『人口管理委員会を考える会』は、わたしが思っていたよりも規模が大きくて、真面目な会だった。人口管理委員会の活動──特に「夜九時以降の巡回地域における違反者の確保」が、憲法がうたっている基本的人権や、活動の自由を奪うものとして、厳しく弾劾している。確保されたひとたちの行く末にも言及していて、政府や人口管理委員会の偉いひととの話し合いにも何度も成功しており、所属メンバーには、しょっちゅうテレビで見るような著名人や文化人もたくさん名を連ねていた。いろんな県に支部もある。
「なんだ、こういうのに興味あるのか?」
後ろからのぞきこんできたコウキ君が言う。
「うん。ほら……この間、調布市の第三地域が巡回地域になったでしょ?」
「ああ、そうねえ、イヤねえ、あれは怖かったわ。ふたりとも無事でよかったわよほんっとに。それにしてもずいぶんとまあくっついちゃって、あなたたちってばお似合いだこと」
「母さん!? なんで戻ってきたんだよ!」
「あなたのお母さまは、あなたたちに冷たいお茶と、おいしいお菓子を持ってきて差し上げました。お礼は、コウキ?」
「あの、ありがとうございます」
「あーらいいのよセイちゃんは。おかわりしたかったらいつでも呼んでね」
ウインクなんだろうと思うけれど、どう見ても両目を閉じて、おばさんはパソコンが設置されているテーブルにお茶とドーナツを置いてくれた。
おばさんは、こういう場合にはきちんとお礼を言わなければ、ぜったいにこの場をはなれないひとだ。それをわたしは思い出した。そしてコウキ君はもちろん、わたし以上にそれをよく知っている。だからコウキ君は仏頂面で、
「アリガトウゴザイマシタ」
と言った。
感情はまったくこもっていなかったけれど、お盆を持ったおばさんはくるりとターンしながら立ち上がり、
「それじゃごゆっくり」
と、再びウインク……のようなものをして、わたしのうちでいったらママの部屋に入っていった。きっとこのうちでも、あそこがおばさんの部屋なのだろう。
「……ホント悪いな、セイ」
「ううん、わたし、おばさん好きだよ」
そう答えると、コウキ君は「あれが……?」などとつぶやきながら、なにやら考えごとに突入してしまった。
わたしは再びパソコンの画面に向きなおる。『人口管理委員会を考える会』は精力的に活動しているけれども、政府はのらりくらりと核心的な言明を避けている。難しい言葉がずらりと並んだ議事録などを、ドーナツをかじって糖分を補給しながら、挫けてしまいそうな脳味噌をフル稼働してなんとかななめ読みをして、わたしはそう結論づけた。
それから、今度は「日本国人口に関する管理調整委員会」と検索キーワードを打ち込んだ。こちらもすぐに、公式サイトがでてくる。
沿革などを読んでみたけれど、だいたいこの間篠塚と大貫さんに聞いた話と一緒だった。平成時代の終わりに起こった、第三次ベビーブーム。出生率の低下を憂慮した政府による妊婦さんや子どもがいる家庭への特別条例、産科医と小児科医に始まるお医者さんの優遇などが効をそうしたといっているが、付け足しのように書かれている「芸能人等による多兄弟姉妹ブームの到来」がいちばん大きい要因だったのだろう。それから出生率は人口を維持できる水準の2.07をはるかに越えたところで横ばいなり、さらに是改時代に第四次ベビーブームが起こった。これは、大きな戦争などが起きそうだという、世界の情勢不安がきっかけになったようだった。それから、是改二十八年に『人口管理のための調査研究委員会』が発足。列島からはみ出しそうなくらい人口が飽和した日本国民を、過疎地等に誘致できないかなどの研究を進める一方で、他国を例に「ひとりっこ政策」などを提案。そして文和三年、『人口管理のための調査研究委員会』は『日本国人口に関する管理調整委員会』と名前を変えて、よりいっそう激しい活動を開始する──。
ふと、わたしは「巡回部隊」でサイト内検索をしてみた。しかし、ヒット数はゼロだった。
今度は検索ページに戻って、「殺人鬼さん」と検索をしてみる。ヒット数は膨大だった。けれど、どれも噂話の域をでないような、他愛のないテキストばかりだった。「殺人鬼さんの真実に迫る!」というホームページなんかものぞいてみたけれど、やはり中心は噂話、噂話だ。「巡回部隊」で検索してみても、結果はやはり一緒だった。
やっぱり、ネットの情報なんてこんなものなのかな。そう思いながらだらだらとページをスクロールしていると、ふいに後ろからコウキ君に声をかけられた。
「悪かったな、セイ」
びっくりして、わたしは振り返る。
そこにはばつが悪そうな、ちょっと困ったような、それでも真剣な、そんな複雑な表情をしたコウキ君がいた。
「悪かったって、なんのこと?」
「ガキのころ、セイを突き放したことだよ」
またびっくりして、わたしはまじまじとコウキ君を見る。コウキ君は、赤い顔をしてふいと横を向いた。困ったような怒ったようなその顔は、やんちゃだった頃のコウキ君が、いたずらを叱られたときに見せていたものによく似ていた。
「友達に、女とばっかり遊んでる女々しいやつ、なんて言われて、それを真に受けてさ。それで、セイの手を離しちまった。あのころのセイには、俺しかいなかったのがわかってたのに。……今更遅いけど、本当に悪かった」
ううん、とわたしは首を振った。
思い出す。コウキ君を失ったときの、あの喪失感を思い出す。びしびしとひび割れて、ぽっかりと胸の中にあいてしまった穴を思い出す。けれど、このまましらばっくれることだってできるのに、今、コウキ君はそこに、暖かくて柔らかい覆いを、ふんわりとかけようとしてくれていた。
ううん。もういちど、わたしは首を振った。
ぼたぼたっと涙がこぼれた。わたしはうつむいて、それでもまた首を横に振った。
ぽん、とわたしの頭に大きな手が乗る。
「ごめんな、セイ」
ぐしゃりと昔のように頭を撫でられて、ぼろぼろと涙がこぼれる。コウキ君。わたしの兄。わたしのヒーロー。死んでしまったコウキ君。けれど、死んでしまったはずのコウキ君が、数年ぶりに帰ってこようとしていた。
──コウキ君に頭を撫でられながら、わたしは泣くだけ泣いた。それから涙でぐしゃぐしゃの顔を、コウキ君に笑われながらティッシュで拭いた。
「ありがとう、コウキ君」
そう、わたしは言った。コウキ君。その呼び方は、今までと同じようで、今までとはぜんぜん違った。わたしは昔のコウキ君を取り戻したような、そんな気持ちになっていた。
2012.01.21:誤字脱字他修正