第7話 わたしと出会いと知らなかったこと
誠泉女学院高等科に、裏口というものはない。
けれど、生徒の間で語り継がれる、秘密の裏口というものは存在する。それは学校をぐるりと覆う生け垣の、校舎裏側にある小さな穴を抜けて、さらにその先にある鉄格子状の柵の、腐って抜け落ちたところをくぐり抜ける、という方法だ。身体が小さい女の子だからこそ、できる技ともいえるだろう。
ともあれ無事に裏口から出たわたしたちは、身体についた葉っぱをお互いに払いあって、エンデバーに向かって歩きはじめた。
エンデバーというのは、学校から歩いて五分のところにある喫茶店だ。ゆったりと流れるジャズと、マスターの入れるコーヒー。その味と雰囲気は格別で、あまり広くない店内では常連客が読書や、ひそひそしたおしゃべりや、ただコーヒーの味をじっくりと味わうなど、思い思いのことをして過ごす。わたしの大好きな、居心地のよい空間だ。学校からほど近くとはいえ、住宅地のなか、裏道のところにあるので、うちの生徒でも知らないひとは多い。むしろ、知っている生徒など一握りいるかいないかくらいだろう。わたしたちがこの場所を知っているのは、ただ単にわたしのうちが近所だからだ。まだ小さかった頃に美代さんに──いや、あれはママだったかもしれない──連れていかれてから、わたしはマスターにずっとかわいがってもらってきた。
中等科三年で篠塚を初めてエンデバーに連れていったとき、篠塚は「なんでもっと早く教えてくれなかったんだ」とわたしをなじり、そして目を閉じてジャズとコーヒーをゆったりと楽しんでいた。それから篠塚も、エンデバーの常連だ。
マスターは、はっきりと聞いたことはないが、断片的に常連さんたちから教えられた情報を総合すると、幼い娘さんを亡くして、それが原因で離婚をしたらしい。だからだろうか。小さな頃から、お金も持っていないのにこっそり入り込むわたしに、マスターはクッキーやパウンドケーキになどの簡単な焼き菓子にはじまって、カスタードたっぷりのタルトやもっちりしたベイクドチーズケーキなどの手のかかるケーキのたぐいまで、笑顔でごちそうしてくれた。エンデバーは完全にコーヒー専門店で、お菓子などのメニューは一切置いていないというのにだ。そんなマスターのことがわたしは大好きで、エンデバーを第二の家のように思っている。
「今日の、おやつは、なにかな〜」
妙な節をつけて篠塚が歌う。篠塚も、最初は「余計な菓子を食って舌を鈍らせるなんざ、このコーヒーに対する冒涜だ!」だなんてキャンキャン言っていたくせに、わたしのお皿から少しずつ掠めとっていくうちに、すっかりマスターのお菓子のファンになってしまった。そうして今では自分もお菓子を出してもらって、「菓子の甘さがコーヒーをひきたてる」だなんて、調子がいいことを言うようになっている。
「学校のまわりはうるさいから、ちょっと遠回りしないとね」
「そうだな」
「ついでに、僕もご一緒していいかい?」
わたしと篠塚は、ビクッと弾かれたように立ち止まり、同時に振り返った。
いつの間にか、わたしたちの後ろに男のひとが立っていた。年齢は、二十代半ばくらいだろうか。細いフレームの眼鏡をかけて、自然な茶色の髪がふわふわとしていて、細い身体のわりに背が高い。ひとによってはハンサムだというだろう顔は、警戒心を与えさせない、自然な笑顔を浮かべていた。好青年のように見えるが、実際のところはわからない。わたしは篠塚に、つねづね「ひとを見る目がない」と言われているから。
「あんた、誰だ」
わたしを後ろに庇うようにして、篠塚が低い声で唸った。細いけれどちゃんと鍛えられた筋肉質の腕が、いつでも殴りかかってやる、という意思表示のように、鞄を掲げている。
青年は、「いや、怪しいものじゃないんだ」と苦笑すると、ポロシャツの胸ポケットから名刺をとりだした。わたしも篠塚の肩越しにそれを見る。
「ジャーナリスト、大貫浩輔……」
「先生から、取材は受けないように厳命されてるんで」
名刺を一瞥するなりそう言い放つと、篠塚はくるりと振り返り、わたしの手をつかんで、有無をいわさぬ速度で歩き始めた。
「それが、取材はもう終わってるんだよ」
どんなに篠塚が足を早めても、大貫さんは長い足でひょいひょいとついてくる。紐でできた足がぶらぶらする、こんな体型の人形ってあったな。そう思って笑ってしまったわたしは、篠塚に「菱川!」と怒られて肩をすくめた。
「取材が終わってるなら、なんで声かけてきたんだよ」
わたしをひきずってずんずん歩きながら、篠塚が尋ねる。「それがだね」と大貫さんは言って、ポケットからもう一枚の名刺を取り出した。さすがにこの速度で歩きながら読むのは難しい。それに、どんなに歩いても、走ったとしても、このひとはどこまでもついてきそうだ。同じように判断したのか、篠塚はようやく足を止めた。自然にわたしの足も止まる。わたしはこの急激な運動で、息も絶え絶えになっていた。それでもなんとか顔を上げて、大貫さんが差し出した二枚目の名刺を見る。
「『人口管理委員会を考える会』……?」
「そう。そして、その二枚両方の名刺が理由でお話を伺いたいのが、菱川さん。君だ」
嫌な予感がした。ギクリと身をすくめて、思わずわたしは一歩さがる。手をつないだままになっていた篠塚が、不思議そうな表情でわたしを見た。しかし、激しい運動で呼吸が乱れたまま、怯えた表情になったわたしの様子を見て取ると、すぐにわたしを背後に隠して、大貫さんに対峙してくれた。
「つまりあんた、ハナっから菱川狙いで待ちかまえてたってわけかよ。なにが目的だ?」
わたしも篠塚も受け取らなかった名刺を残念そうに仕舞いながら、大貫さんは篠塚に向かって問い返した。
「そういう君こそ、彼女の友達なのに、なにも聞いてないのかい? 昨日の放課後。生徒指導室。呼び出されたのは四人。それから四人は焼却炉へと移動して──」
「やめて!」
わたしは叫んだ。耳をふさいで叫んだ。胸がドクドクとおかしな音をたてている。背中が痛い。昨日紙沼さんに捕まれた腕が痛い。今朝見てみたら、昨日紙沼さんに捕まれた腕は、爪が食い込んだところを中心にして、濃い青あざになっていた。
「……なんで、知ってるんですか」
絞り出した声は細かった。篠塚が気遣わしげにこちらを見ている。篠塚を心配させたくない。でも、昨日の記憶がよみがえる。今朝の困惑がよみがえる。大貫さんは苦笑した。
「幸い、僕は女の子に警戒心を持たせない容姿らしいから──おっと、君たちは違うみたいだけどね。でも、朝のうちから聞き込みをしていたら、いろいろな噂が聞けたんだよ。君のこととか、昨日の放課後のこととかね。そしてひとつひとつは小さな情報でも、繋げあわせれば重要なものになり得る。それで、本人に──君に、話を聞きたかったんだ。怖がらせるつもりではなかったんだ。ごめんよ、菱川さん」
それに、と大貫さんは続けた。
「この話はお父さんのことについても関連しているかもしれない、と言ったら?」
パパの、こと?
なんでここで、急にパパのことがでてくるの?
まだ恐怖に支配されていた頭の中で、ぽんと投げ込まれた疑問がぐるぐると回る。
わたしは顔を上げた。胸元のペンダントをぎゅっと握りしめる。大貫さんの顔は真剣だった。わたしは篠塚を見る。篠塚は、お前の好きなようにしろ、というように肩をすくめた。
「お話、聞きます。──エンデバーで」
重厚な飴色の木の扉の中に広がるエンデバーの世界は、ことのほか大貫さんのお気に召したようだった。きょろきょろと、でもじっくりと店内を見回した後で、大貫さんがカウンターに立つマスターに向かって言った。
「この辺りにこんなお店があったなんて知らなかったな。マスター、そのうち雑誌に載せさせていただいても構いませんか?」
いいえ、とマスターは首を横に振った。
「同じ場所にひっそりとあり続け、ご縁のあったお客様をお迎えする。それがこの店のやりかたですから」
そろそろ初老にさしかかろうかというマスターの声はどっしりと落ち着いていて、それ以上食い下がることなどできないものだった。しばらく名残惜しげにぐるりと店内を見回すと、気を取り直したように大貫さんは笑った。
「そうですか。だったら僕は彼女のおかげで、このお店とご縁がつながったというわけか。光栄ですね」
わたしと大貫さん、そして篠塚の三人は、内緒話に適したお店の奥の四人掛けのテーブルに座った。いつも篠塚と来るときはカウンターを使うので、初めての席はどうも居心地が悪い。適度にやわらかいソファにお尻を乗せると、妙に身体がうずうずした。
マスターは大貫さんにだけ注文をきいた。大貫さんが頼んだのはアメリカンだった。コーヒーがくるまで、わたしたちは無言だった。ほどなくして三人分のコーヒーが運ばれてきたが、わたしと篠塚の前には一緒にスコーンも並べられた。クロテッドクリームがたっぷり添えられた、わたしと篠塚の大好物のひとつだ。ちなみに篠塚のコーヒーはいつも同じキリマンジャロ。わたしにはマスターが、お菓子にあうコーヒーを煎れてくれる。
大貫さんはわたしたちの前のお皿を見てあからさまにうらやましそうな顔をしたけれど、それでも大人らしく諦めたようで、まずはアメリカンをひとくち啜った。そして、唸った。
「いちジャーナリストとしては、世界中にこんな店があるんだと発信したいけれど、個人としては誰にも秘密にしておきたい、そんな店だね」
わたしは誇らしい気持ちで、ほかほかと湯気がたつスコーンをかじった。篠塚も細い指でスコーンを割ると、クリームをたっぷりつけて口の中に入れる。合間にコーヒーを飲んで、そして一息。しばらく、そんなふうに穏やかな時間が流れ、コーヒーの量が減った頃。
「わたしから、話していいですか」
口火を切ったのは、わたしだった。いまから言うのは、最初からここで篠塚に話すつもりだったことだ。大貫さんは、おそらくなにがあったのか察している。だったら自分からさっさと全部言ってしまって、ふたりの知恵を借りたほうがいい。それに、なによりも、わたしは誰かに聞いてほしくて仕方がなかったのだ。自分が置かれた謎の状況について。
わたしは話した。いちど話し始めると、あとは奔流のように口から言葉が溢れでた。生徒指導室のこと。紙沼さんたちのこと。焼却炉に連れ出されたこと。そこでされたこと、言われたこと、されそうになったこと。それから──今朝のこと。
「わたしにあったことは、これで全部です」
篠塚は話が進むにつれて、次第に鬼のような形相になっていった。美人が怒ると夜叉になる。四人掛けテーブルにはわたしと篠塚が並んで奥に、その向かいに大貫さんが座っていた。つまり大貫さんは、篠塚の表情の変化を真正面から見てしまう羽目になった。……だいぶ怖かったのだろう。大貫さんは、次第にじりじりと篠塚から身体を離していった。しかし、突然、ぽん、と話が今朝に飛んで、篠塚の表情は一瞬で怒りから驚きに変化した。問いかけるようにわたしを見る。わたしは篠塚にうなずいた。間違いない、これが昨日から今朝まで、わたしの身にふりかかったことの全てだ。
篠塚の様子を警戒するように伺いながらも、うん、うん、と時折あいづちをうちながら聞いていた大貫さんは、「取材結果とも一致しているね」と言った。
「取材ってのは、結局なんだったんだよ」
コーヒーを啜って、篠塚が尋ねる。
「本当に些細な噂、お喋りの一貫だよ。生徒一の証言、放送で菱川さんが呼び出された。生徒二の証言、紙沼、大野、宮地の三氏も呼び出されていた。生徒三の証言、菱川さんは調布二高の和久井君と付き合っているらしい。生徒四の証言、紙沼さんは和久井君に最近ふられた。生徒五の証言、放課後、菱川さんが紙沼さんたちに連れて行かれるところを見た。生徒六の証言、紙沼さんたちは、気に食わない生徒を焼却炉で脅すらしい。それぞれはちょっとした噂話のようなものだけど、これだけ情報が揃えば、パズルを組み立てるのも簡単だと思わないかい?」
「まあ……そりゃそうだな」
あっさりと手品のタネをあかしてみせた大貫さんに、毒気を抜かれたように篠塚が頷いた。それにしたって、なんだってうちの生徒はどいつもこいつもそんなに口が軽いんだ。そんな悪態をつくことは忘れずに。そうして篠塚は、呆れたようにソファに深くもたれた。
反対にわたしはテーブルに身を乗り出した。自分の身にふりかかった出来事を話していたときにも、ずっと心の隅で気になっていたことを、大貫さんに問いただす。
「それより、パパのことってなんなんですか? パパに関係することって──」
「そのことを話すためには、今度は僕の話を聞いてもらわないといけないね。そうだな、まず、少し昔話をしてもいいかい?」
大貫さんはそう言って、机のテーブルの上で手を組んだ。
「君たちは平成時代に、少子高齢化が進んでいたことを知っているかな?」
「知ってるさ」
答えたのは、社会科も得意な篠塚だった。社会科だけではなくて、篠塚は全科目得意なのだけれど。大貫さんが、促すように篠塚に右手を差しだす。篠塚は挑むような表情で、言葉を続けた。
「少子高齢化は、年金問題や福祉問題を困窮させるまでに進んでいった。出生率はとうとう0.5を割り、このままでは日本の国民は半分以下になって、かつその大半が高齢者になってしまうと憂慮されていた。だけど、平成時代の終わりに第三次ベビーブームがおこって、問題は解決した」
「その通り。そうしてそのあと、是改時代におこった第四次ベビーブームを経て、平成時代には出生率が大幅に低下して困っていたはずの日本は、いつの間にか、膨大な数の国民を擁するようになってしまった」
「地方都市や過疎地への人口の分散だとか、出生率のコントロール政策を打ち出してきた政府も、結局は関東近郊に密集する国民を止められなかったってんだろ。──そして、東京を中心に関東全域に広まっていった地価の上昇やら、食料に始まる物価の高騰。人口増加にともなう犯罪率の増加。──そんなの小学校で勉強することだ。それがどうしたよ」
ソファにそっくりかえってコーヒーを飲みながら、成績だけならば優等生の篠塚が言う。大貫さんと篠塚の会話の内容が、曖昧にしか記憶になかったわたしは、その場で身を縮めた。大貫さんは、ここからが重要なんだよ、と言って指をたてた。
「『日本国人口に関する管理調査委員会』、通称人口管理委員会のおおもととなる、『人口管理のための調査研究委員会』が発足されたのは是改二十八年になる。それと同時に、あるひとつの法案が静かに、国民の監視の目をすり抜けて、国会で可決された。それが『是改青少年保護条例』だ。──君たちは、不思議に思ったことはないかな。どうして自分たちは、束縛されているんだろう、って」
わたしはぽかんと大貫さんを見た。大貫さんは柔和な笑顔を浮かべたままだった。わたしの隣で、篠塚がコーヒーをすする。そして、言った。
「……束縛されていることにも気づかせないのが、政府のやり方だろ。なんだって青少年のため、青少年のため、それから国民のためだ。そして、それがそのうち日常になっちまう」
わたしは篠塚を見た。コーヒーカップ片手の篠塚はあからさまに、憮然とした顔をしていた。
「篠塚、どういうこと?」
「例えば、軽携だね」
大貫さんが言った。
「若者の間では、かたかなでカルケーとか、K2なんて呼ばれたりもしてるんだっけ。──君は不思議に思ったことはないのかい? どうして自分は決められたサイトしか閲覧できない、通話やメールも家族や学校や公的機関としかできない、機種変更も自由にできない、位置情報機能つきで親にも学校にもすぐに居場所を特定される、そんな軽携──未成年用軽機能携帯電話を、肌身はなさず持たされているのかって」
「だって、それは……そういう決まりだから」
わたしは考えてみる。カルケーは、物心ついたときからいつもそばにあった。小さな頃は首からぶらさげて、絶対になくしちゃいけないと、ママからも美代さんからも口々に言われた。カルケーを持っているのが普通だった。カルケーを身につけていない子は、学校から厳重に注意されていた。位置情報機能で犯罪から身を守るためだとか、そんなふうに言われて疑問も持たなかった。でも、それがおかしいの? わたしは考えてみる。考えてみても、篠塚みたいに頭がいいわけでもないからわからない。十八歳まではカルケーで、大学に入ったら携帯電話を持てる。それが普通なんだと思っていた。
「『是改青少年保護条例』には、過剰にも思えるほどの子どものネット閲覧制限や、行動の制限が盛り込まれている。けれど、特に子どもを狙った悪質な犯罪率の上昇があったから、誰も疑問の声をあげなかった。それどころか、諸手をあげて歓迎した。──けれどその法案にはひとつだけ、おかしな部分があった」
「──夜九時以降、夜間外出の禁止」
ぽつりと篠塚が言う。大貫さんは大きくうなずいた。
「最初は、子どもの夜遊びを抑制するための法案だと思って見逃された。けれど、法律は変わる。あいまいな部分にはいくらでも特記事項をつけられる。それで、今から十五年前──文和三年に、その『是改青少年保護条例』を根拠に、こんなお達しが出たわけだ。『青少年以外の成年者であっても、午後九時以降午前三時までに、その日政府が指定する巡回地域で外出していた者は、委細かまわず確保する』」
「理由は風紀紊乱、犯罪の抑制。そして捕獲された人間は収容所で再教育。今じゃあすっかり殺人鬼さんなんて呼ばれて受け入れられてやがるけど、どう考えてもおかしいだろ、その法案は。この法治国家で」
吐き捨てるように言って、篠塚はスコーンの最後のひとかけらを口に放り込んだ。その通り、とやはり柔和な笑顔で、大貫さんもコーヒーをすする。
……この国は、おかしい。それは、わかった。
頭の悪いわたしでも、ふたりの会話を聞いていれば、わかったような気がする。青少年を保護するという名目で、法案はどんどん肥大化して、殺人鬼さんを生んだ。子どもたちを囲い込んで束縛した。殺人鬼さんの手は青少年を離れて大人にまで及んだ。けれど。
「それとパパのことは、どう関係してるんですか?」
たしか話の始まりはそのことだったはずだ。疑問に思って大貫さんに尋ねると、大貫さんはあくまでやわらかい笑顔で、言った。
「君のパパがいなくなったのは、今から十六年くらい前らしいね」
「はい、わたしが生まれる、ちょうど直前だから」
「さっきも言ったけど、夜九時以降の『巡回部隊』による巡回地域の巡回が始まったのも、それくらいなんだよ。文和三年だから、今から十五年前だね」
……どういうこと?
大貫さんが言いたいことがわからなくて、わたしは眉をひそめる。篠塚はなにかを察したのだろう。隣で身体がこわばったのがわかった。
「ついでに、僕の父が突然姿を消したのも、ちょうど十六年前ほどになる」
大貫さんのお父さんも、姿を消した?
わたしのパパと同じように? 同じような時期に?
混乱するわたしの前で、大貫さんはずいっとテーブルに身体を乗り出してきた。
「君のパパに、姿を消す理由はなかった。それは間違いないね」
こくり。反射的に、わたしはうなずいた。そんなことをするようなひとじゃなかったパパ。それなのに身重の妻をおいて、姿を消してしまったパパ。
「僕の父さんにも、姿を消す理由はなかった。けれど実際、姿を消した。だから、こういう推論をたててみたんだ──」
「菱川の親父とか、あんたの親父が、『巡回部隊』なんじゃないかって?」
篠塚に横からセリフを掠めとられて、大貫さんの眉間に一瞬だけしわがよる。しかし、大貫さんはふたたび席に座り直すと、コホンとせきばらいをして、またいつもの穏和な表情に戻った。
「その通り。だいたい、気にならないかい? 『巡回部隊』とはどのように選ばれた人間で、普段はどのように生活しているのか。一般人にまぎれて暮らしている? 僕はそうは思わないな。万が一にも目撃者がいたときに、それはリスクが高すぎる。それならそもそも政府の庇護のもとにあって、巡回のときにだけ姿を現すと考えたほうが──」
「ちょっと待って!」
悲鳴のような声が口からほとばしった。
言葉を遮られた大貫さんが、呆気にとられたようにわたしを見た。篠塚もわたしを見ている。それがわかっていたけれど、口をついて出る言葉はとめられなかった。
「パパは、パパが、殺人鬼さんだったから、わたしは助かったって言いたいんですか?」
「あ……ああ、うん。僕はそう思うよ。そもそも──」
「それじゃパパは、わたしを助けるために、紙沼さんたちを殺したってことですか? いままでにも何人も、ただ九時すぎても外にいたからって理由だけで、たくさんのひとを殺してきたっていうんですか?」
「それは……」
大貫さんが絶句した。篠塚はわたしを気遣わしげに見ている。机の下で、ぎゅっと手を握られた。篠塚の温かい手がわたしにこう伝えてくる。落ち着け、心配するな、俺がここにいる。
ふと顔をあげたら、カウンターの中のマスターも、心配そうな顔でわたしを見ていた。うん、大丈夫。大丈夫だ。わたしにはこんなにも、心配してくれているひとたちがいる。……でも。
「……大貫さん、ごめんなさい。わたし、混乱してるみたいです……ちょっとだけ、考えさせてください」
「わかったよ。驚かせるようなことを言って悪かったね。だけど──」
大貫さんはしばらくためらって、それからガリガリと頭を掻くと、大きく息をついてうなだれた。
「だけど僕は、父に会いたい。優しくて頼もしかった、父に会いたいんだ。だから『巡回部隊』のことを調べるために、君に協力してほしい」
「……考えさせてください」
篠塚が、わたしの手を握ったまま立ち上がった。つられるように、わたしも立ち上がる。こんなときの、篠塚の頼もしさがすごくありがたかった。わたしがなにも言わなくても、篠塚はわかってくれる。
篠塚とわたしが会計をすませていると、マスターが心配顔で「大丈夫かい、セイちゃん」と聞いてくれた。こくんと小さくうなずいて、わたしは篠塚と手をつないで、エンデバーを出た。
2012.01.21:誤字脱字他修正