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第5話 わたしと悪意

 人口管理委員会からの発表です。本日調布市第三地域が巡回地域に指定されました。部活は中止し、生徒はすみやかに帰宅してください。

 学校からの通達は、朝にそんな放送が一本と、ホームルームで先生からの同じような注意がひとつだけだった。

 ──あと数時間後に、殺人鬼さんがこの一帯にやってくる。そんなことなど信じられないくらい、今日も学校の授業はいつも通りだった。

 違う、とわたしは思う。これはただ、先生たちがあえていつも通りにしようとふるまっているだけだ。生徒たちはといえば、あちらこちらでひそひそと、殺人鬼さんについての内緒話を繰り返していた。コロサレルとか、ナイフデヒトツキとか、トモダチノトモダチカラキイタンダケドとか、いろいろな内緒話が校舎のなかに蔓延している。調布市外から通っている生徒は怖いから今日は早く帰ろうと言い合い、調布市に住んでいる子は地域の別なく怖い怖いと震えては、友人たちに「外に出なければいいんだよ」「九時以降には家の鍵を開けちゃダメだよ」となだめられ、助言されていた。自分の家の周辺が巡回地域になったことがある生徒はその経験を語り、時間が経つにつれて内緒話は内緒話ではなくなっていった。

 学校中が、殺人鬼さんを恐れている。

 わたしは、なんとなくそれが怖いと思った。もちろんわたしだって、殺人鬼さんは怖い。今日ははやく帰って、家に閉じこもろうと思っている。みんなと一緒だ。一緒のはずだ。けれどわたしは、学校の雰囲気もなんだか怖いと思った。皆が皆、得体の知れない殺人鬼さんに踊らされているみたいだ。

「集団ヒステリーの前兆じゃねえの」

 カバンの中に手早く荷物を詰めながら、篠塚が言った。

 放課後、足早に生徒たちが帰宅していく。繰り返しスピーカーから、『本日の巡回地域は調布市第三地域です。部活は禁止です。生徒はすみやかに下校してください』という放送が聞こえていた。放送委員の女の子は大変だなあ、とわたしは思った。はやく帰りたくても帰れない。校舎に最後に残る生徒は、放送委員の子になるのかな。

「殺人鬼さんがいるぞ! って叫んで誰かを指差してみろよ。パニックが起きて我先にと逃げ出すか、もしくは集団暴行に発展するぜ」

「……そんなの、怖いよ」

 たった一歩先のところで、真っ暗闇の穴がぽかりと口を開けて飲み込もうとしているような恐ろしさを感じて、わたしはシャツ越しにペンダントを握りしめた。わたしを守ってね、パパ。心の中でつぶやくだけで、少し落ち着く。そんなわたしを呆れたように一瞥してから、篠塚はカバンをパチンと閉めた。

「じゃ、帰るか」

「うん、そうだね……え?」

 自分の名前が呼ばれたような気がして、わたしは顔を上げた。スピーカーから、さっきまでしきりに下校を呼びかけていた放送委員の女の子の声が、違う言葉を紡いでいる。

『……室まで来てください。繰り返します、一年C組、菱川さん。生徒指導室まで来てください』

 わたしは篠塚と顔を見合わせた。

「なんかやったのかよ、お前」

 篠塚の問いに、わたしは考えてみる。今日も遅刻せず、それどころか普段よりもはやく登校して、いつも通りに授業を受けた。昨日や一昨日はどうだったろう。ううん、考えるまでもない。なんの事件も変わりもなかった。先生に注意されるようなことはしていない……と、思う。わたしは首を横に振った。

「なんにもないと思うけど……これ以外は」

 そう言って、自分の胸元を指差した。しかし篠塚は、「それはもう片付いたことだろ」と一蹴した。

 心当たりはまったくない。でも、違うのだろうか。わたしは篠塚のブレザーの裾をつまんで引っ張った。

「ねえ、篠塚。わたし、なにかしちゃった?」

「いや、今日もお前は普段通りのぼんやりちゃんだったよ。……なんか嫌な予感がするな。待っててやろうか?」

「ううん、いいよ」

 篠塚の心遣いを嬉しく思いながらも、わたしはふたたび首を横に振った。篠塚の家は、学校前のバス停から最寄り駅まで二十分、それからさらに電車で三十分かかるところにある。対してわたしは徒歩十分だ。殺人鬼さんがやってくるこの日に、長い時間をかけて登校している篠塚を、ひきとめることなんてできない。

 篠塚は肩をすくめて、

「お前はぼんやりしてるわりに頑固だからな」

 だなんて、褒めているのかけなしているのかわからないことを言った。



「失礼します」

 わたしが生徒指導室に呼び出されるのは、中等科のときから数えてこれで二回目だ。一回目は、パパの写真が入ったペンダントが、先生に見咎められたからだった。あのときは結局、先生が見逃してくれることで決着がついた。それじゃ、今度はいったいなんなんだろう。

 ドキドキしながら、高等科に入ってから初めて生徒指導室のドアをノックした。「入れ」という先生の厳しい口調に深呼吸して、それからそっとドアをあける。高等科の生徒指導室のつくりは、中等科のものとよく似ていた。窓際に置かれた先生用の机。その手前に置かれたソファのセット。それから、わたしは気づいた。生徒指導室には、四人の姿があった。

 ひとりは机の向こうに座っている、生徒指導の先生。

 もうひとりは、机のこちらがわに立っている紙沼さん。そして、そのお友達がふたり。

 紙沼さんとそのお友達──ふたりは名前がわからない──は、三年生のひとたちだ。わたしと紙沼さんは知り合いではない。これまでいちども話したことがなく、接点はなにもない。それでもわたしが紙沼さんのことを知っているのは、紙沼さんが篠塚と同じくらい、学校内でとても有名だからだ。理由は、篠塚とは全然違うけれど。

 紙沼さんがリーダーの三人グループは、わたしたち普通の生徒とは一線を画していた。彼女たちは率先して制服を改造し──学校指定のものとは違うシャツを着て、スカーフは結ばずに、上のほうのボタンを外して、アクセサリーをつけている。スカートは膝の上まで短くしている。髪を染め、お化粧もしているらしい。他校の男子とつるんだり、そればかりか深夜まで繁華街で遊んだり、タバコを吸ったりお酒を飲んでいるところを目撃したという噂まである。といってもそれが本当なら、一発で停学になってしまうはずなので、あくまで噂は噂なんじゃないかな、とわたしは思っていた。なかでも目鼻立ちがくっきりとした華やかな紙沼さんは、どこの学校の誰と付き合っているとか、どこの学校の誰と一緒にいるところを見たとか、男性関係の噂に事欠かないひとだった。

 四つの視線がいっせいに突き刺さってくるのにたじろぎながら、なんとか声をあげた。

「一年C組の菱川ですけど……」

 さあ、それで、なんでわたしは呼び出されたの?

 そう思いながら先生に目を向けると、奇妙な顔をしていた。拍子抜けしたというか、完全にあてがはずれたというか、そんな表情だ。そして先生は、ハア、と大きくため息をついて、視線をわたしから紙沼さんに移した。

「紙沼、話が違うじゃないか」

 すると、先生とは意味合いが違うけれど、こちらも奇妙な目つきで──敵意というか、威嚇というか、そんな感じのどこか攻撃的な鋭さのある視線でわたしを見ていた紙沼さんは、先生に向き直って、くるくると茶色い髪の毛の先を指先でいじりながら、甘い声を出した。

「すみませぇん。ほかのコと勘違いしちゃったのかも」

 まったく悪びれたところのないその返答に、先生はもういちど大きなため息をつくと、生徒指導室に入ったところで立ち尽くしているわたしに苦笑して、ようやく声をかけてくれた。

「すまんな菱川、こんな日に呼び出して。今日は月一の服装検査だったろう、こいつらを注意していたら、紙沼が『一年の菱川って子も茶髪でパーマをかけているのに』と言い出してな」

 それを聞いて、思わずわたしも苦笑してしまった。それはまた、人違いもいいところだ。わたしだってふんわりした髪に憧れたりすることもあるけれど、校則違反をしてまで手に入れようとするほどじゃない。だからわたしの背中まで伸ばした癖のつきにくい強情な髪は、生まれつきのまま針金のようにピンとまっすぐで、カラスのように真っ黒だった。

「本当に悪かったな、帰っていいぞ菱川。紙沼、大野、宮地は、制服と頭髪! いい加減もとに戻せ。これ以上減点がついたら停学だぞ」

「はぁい」

「はーい」

「はい」

「はい、失礼します」

 わたしは頭をさげ、くるりと方向転換してドアを開けて、生徒指導室をあとにした。篠塚が言っていた嫌な予感というのは、どうやら空振りだったらしい。

 さてと、用事が終わったのだから、あとは帰るだけだ。今日の巡回地域は調布市第三地域。この学校のある地域。わたしのうちがある地域。だからすぐにうちに帰って、きちんと戸締りをして、はやく寝てしまおう。

 そんなことを考えながら昇降口に続く階段に向かいかけた腕が、いきなり、ぐい、と掴まれた。

「え?」

 振り返ると、紙沼さんがわたしの腕をがっちりと掴んでいた。全体がピンク色で、先の部分が白く塗られた形のいい紙沼さんの長い爪が、わたしのブレザーに食い込んでいる。

「あの、紙沼さん……なにか」

「しっ、先生に聞こえちゃうでしょ」

 砂糖菓子で作られたような甘い甘い声とは裏腹に、長くて黒々としたまつげに縁取られた紙沼さんの、猫みたいな形の瞳は、厳しくわたしを見下ろしていた。生徒指導室でほんのり感じた攻撃的な色は、いまやはっきりとそこに浮かんでいた。けれどわたしは、お化粧してるって噂は本当だったんだ、そんな場違いなことをとっさに思っていた。

「ほぉら、こっち」

 言うなり紙沼は、わたしの腕を強く握ったまま、すたすたと歩き出した。小柄なわたしは蹴躓いて、引きずられるように紙沼さんについていってしまう。紙沼さんがどこに行こうとしているのかはわからなかったけれど、昇降口でないことだけは確かだった。なんとか紙沼さんの手を振り切ろうとしたり、立ち止まろうとしてみたりする。けれどそのたびに、後ろからついてきた紙沼さんのお友達──大野さんと宮地さんが、ニヤニヤ笑いながらわたしの背をカバンで小突くように押してきた。どんどん進む紙沼さんは、迷いなく非常口を通って、室内履きのまま外に出た。

「さっきのは前哨戦でぇ、本番はこっちなのよ」

 ようやく紙沼さんが立ち止まったのは、校舎裏の片隅にある焼却炉の前だった。わたしが生まれるはるか以前に、生徒への健康被害が問題になって、使用が廃止された焼却炉。いまは使われていない焼却炉。誰もやってこない焼却炉。──校舎の死角にある焼却炉。

 とても悪いことが起ころうとしているのではないか。ここにきて、ようやくそう思い至った。違う、連れてこられる途中で気づいていたのに、ただ信じたくなかっただけだ。わたしは誰かに敵意を向けるのも、敵意を向けられるのも、すごく苦手だったから。

 けれどもすでに、わたしは相手のテリトリーに引きずり込まれていた。そしてテリトリーの主である紙沼さんはもう、わたしへの害意を隠していない。

「放してください!」

 掴まれている手を振りほどこうともがいた。すると、爪が食い込んで痺れるほどに痛かった腕が、ようやく解放された。同時に、頬に衝撃がはしった。ぶたれたのだ。紙沼さんに。でも、なんで?

 呆然と紙沼さんを見上げる。相変わらず毛先をくるくるもてあそびながら、もう片方の手を──わたしの頬を叩いた手をぶらぶら揺らしながら、紙沼さんがにっこり笑った。

「生徒指導室へのご招待。アッタマいいでしょ? なんせ呼び出したのは先生だもの、そりゃ来るしかないわよねぇ。これでもいろいろ考えたのよ。フツーに呼び出したんじゃ、どうせあんたの王子様がついてきちゃうでしょ? それじゃ都合が悪いもの」

「王子様……って、篠塚、ですか?」

「そうよぉ、いっくら女子校だからって、しょせん同じ女だっていうのに、まるで理想の男みたいに崇拝してるコたちの気がしれないわ。男なんて誠女の制服みせただけでホイホイついてくるようなバカなのに。ま、そんなバカでも、やっぱ生身の男のほうがいいじゃない。あんただってそう思ってるんでしょ?」

 紙沼さんの顔から笑みが消えた。敵意に満ちた空気があたりに張り詰めて、思わずわたしは後ずさる。と、いつの間にか後ろに回り込んでいた大野さんと宮地さんに、肩を掴まれた。

 紙沼さんがわたしの髪を鷲掴みにして、ぐいっと吊り上げるように引っ張った。痛い! もがくわたしを、ピンに止めた虫でも見るような眼差しで、紙沼さんは眺めていた。

「朝からこっそり噂になってるわよ。あんたが二高の和久井君といい雰囲気だったって。まっさか、マジじゃないわよね?」

 反り返らされた喉を震わせて、紙沼さんから言われたことを必死に考えて、わたしはようやく理解できたひとことを繰り返した。

「コウキ君、は……」

「コウキ君!」

 紙沼さんはわたしの髪を掴んだまま、弾かれたように声をたてて笑った。今朝、わたしは篠塚にも同じように笑われた。けれど、その意味合いはぜんぜん違う。わたしへの理解と友情があるから、篠塚の笑いは暖かかった。けれど紙沼さんの笑い声は、冷たい悪意に満ちていた。

「コウキ君、コウキ君ね。ずいぶん仲良しでいらっしゃること!」

 そのまま、ぐっと顔を寄せられる。背の低いわたしは爪先立ちになっていた。間近に見る紙沼さんは、つけまつげもアイラインも口紅も、すべて美代さんみたいに完璧に仕上げた美人だった。──美人のはずだった。こんな、憎しみにゆがんだ表情でさえなければ。

「このあたしが付き合ってあげるっ言ってんのに簡単に振ってくれちゃって、こんなオコサマといい雰囲気とか、どういう趣味だってのよ。ロリ入ってるってこと? それとも遊んでる女は範疇外とか? どっちにしたって冗談じゃないわよ、このあたしが付き合ってあげるって言ってんのに!」

 不意に頭の痛みから解放された。と思った次の瞬間。わたしは焼却炉にむかって突き飛ばされていた。あまりに唐突で、とっさに手をつくことも身体をひねることもできずに、わたしは背中を思い切り焼却炉にぶつけてしまった。衝撃で息がつまる。

「──そんで紙沼、どうすんの、コレ」

「ふっふっふ、じゃーん、こっれは、なんでしょーお」

「うわ、ケータイじゃん! すっごい、どうしたの」

「兄貴の名義で買ってもらっちゃったんだぁ。あたしが認証パスできるの、すごいでしょ」

 逃げなきゃ。ここから逃げなきゃいけない。咳き込みながら、なんとか身体を起こす。

「それでぇ、これから、このコのぉ、はっずかしー姿の撮影会をしようと思いまぁす」

「あっはは! 誠女だったら高く売れるってか?」

「売れるわよー、だって実際ガッコのやつらの着替えとか撮ったの、マジでよく売れてるもぉん」

「ちょっと紙沼、そんなことしてたの? 極悪ぅ」

 逃げなきゃ。逃げなきゃ。このひとたちから、この残酷なひとたちから、少しでも遠くに。立ち上がろうとしたわたしのお腹が、ぐっと強く踏まれた。そのまま焼却炉に押し付けられる。

「逃げちゃダメだよ、オコサマちゃん」

「抵抗するとかウッザ。どうする?」

「こういう時にぃ、護身用のぉ、これでしょ?」

「ウッソ、そんなん過剰防衛すぎない?」

「あたしみたいな美人になるとぉ、これくらい持ってないと不安なんだもぉん」

「そんでマジで使っちゃうんだ、こっわ」

「さっすが紙沼、やるねー」

 まるで現実味のない楽しそうな会話に血の気が引く。片手に携帯電話を持った紙沼さんが近づいてくる。もう片手が、そこに握ったものが、火花を散らして無造作に近づいて来る。あまりの恐怖に身体が震える。ペンダントの細い鎖がシャラリと鳴る。

 ──助けて、パパ。

 そして、わたしの意識は途切れた。

2012.01.21:誤字脱字他修正

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