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第3話 わたしの幼馴染み

 マンションのエントランスで、わたしはばったりコウキ君に会った。

「あ……おはよう」

「あれ、おはよう。今日はずいぶん早いな、セイ。ちょっと待っててくれるか、チャリ出すから」

 屈託無く笑って建物を出ると、コウキ君は自転車がぎっしり詰め込まれた駐輪場に入っていき、黒い一台の自転車の鍵をガチャガチャと外した。その背中を見るわたしを、戸惑いの渦中に取り残したまま。

 コウキ君とわたしは、同じマンションの同じ階、隣の隣に住んでいるご近所さんだ。どうやらママ同士で交流があったらしく、物心つくまえからわたしとコウキ君はいつも一緒に遊んでいた。ときにはコウキ君の家で、ときにはわたしの家で、ときにはマンションのすぐ前にある公園で。広いマンションの建物も、わたしたちにとっては巨大なアスレチックだった。マンション屋上庭園の花がいつ咲くのかも、葉っぱについた虫の名前も、非常階段の滑り降りかたも、公園の木の登りかたも、鳥の巣がある場所も、逆上がりのしかたも、ひらがなもカタカナも、ぜんぶコウキ君に教えてもらった。コウキ君はわたしより一歳年上で、身体も大きくて、あの頃のわたしにとってぐいぐいと引っ張ってくれる兄のような存在だった。同時にコウキ君は、なんでも知っているヒーローだった、

 けれど、彼が小学校高学年になった頃だろうか。突然コウキ君はわたしと距離をとりはじめた。遊びに誘っても、いままでのように一緒に笑ってくれない。お話をしようとしても、つまらなそうにぷいと横を向いてしまう。どうして、と泣きながら尋ねたわたしに、コウキ君は

「女はすぐ泣くから嫌なんだよ」と突き放すような声で言った。それから「いつまでも女とばっか遊んでらんねえよ」と言い捨てて、クラスメイトだろう男の子たちのところに駆けていってしまった。その日の晩、わたしは一晩中、布団にもぐって泣いた。わたしにだって学校の友達はいた。それでも、わたしにとってコウキ君は、わたしの小さな世界で、一番近くにいてくれる、大切な存在だったのだ。どうしたらいいのだろう。どうすればコウキ君はもとのコウキ君に戻ってくれるんだろう。泣きじゃくりながら必死に考えたけれど、答えは出なかった。

 一年早くコウキ君が中学生になると、わたしたちの距離はいっそう遠くなった。コウキ君はわたしを「菱川」と呼ぶようになり、わたしにも彼を「和久井君」と呼ぶように強要した。優しく「セイちゃん」と呼んでくれたコウキ君が懐かしくて、その日もわたしは布団にもぐって一晩中泣いた。

 それからはもう、わたしはコウキ君とどう接すればいいのかわからなくなってしまった。わたしが誠泉女学院に入学してからは、接点もほとんどなくなった。マンション内でときどき会っても、目が合えば逸らされる。勇気を振り絞って話しかけても、「ああ」「いや」「別に」などというぶっきらぼうな返事だけしかない。近づこうとすると、そのぶん離れられる。そんな中学の三年間を過ごすうちに、わたしの心はひび割れていき、そうしてわたしはこう思うようになった──コウキ君はもう、死んでしまったのだ、と。

 いま考えれば、そうでも思わなければ耐えられなかったのかもしれない。その頃にはわたしにも、ほかに大切な友達ができていた。けれど、それでも数少ない、大切な大切なうちのひとりを、喪失してしまったのだから。

 状況が一変したのは、わたしが高等科にあがった頃だった。コウキ君のわたしへの態度が、あからさまにやわらかくなったのだ。会話をするときにきちんと目が合う。その会話だって、以前のように一言二言では終わらない。冗談を言って笑ったりもする。そしてコウキ君は、昔のことを忘れたかのように、わたしを「セイ」と呼ぶようになった。それも、以前のように親しみを込めて。さらには顔を合わせるたびに、他愛ないことでも必ず話しかけてくれるようになった。

 死んでしまったコウキ君。やんちゃで、物知りで、いたずらっ子で、腕白だった、わたしの大切な兄。わたしのヒーロー。

 そのコウキ君と、身長もうんと伸びて、声も低くなって、落ち着いた笑顔を浮かべて、すっかり大人っぽく──まるで男のひとのようになってしまったコウキ君を、わたしはなかなか結びつけることができなかった。それに、いまのコウキ君は、格好良くて、背も高くて、部活の剣道でもいい成績を残していて、人望もあって、自校他校問わずに人気者だと聞いたことがある。

 ──どうして、また仲良くしてくれるの?

 思い切って聞いてみたいけれど、まるで知らないひとのようなコウキ君に、そんな踏み込んだことを尋ねるのは気が引けた。そのまま結局、わたしは今になっても聞くことはできていない。

「そりゃお前、誠女のオンナをカノジョにすりゃ箔がつくと思ってんだよ、馬鹿なオスどもは」

 学校でぽろりとこぼした疑問に、そんな答えを返してきたのは、わたしの親友、篠塚だった。

 篠塚は「校則違反ではないですよね」とうそぶいて、頭を丸刈りにし、スカートのかわりに自転車通学の子達が使うスラックスを履いて、まるで男の子のような言葉遣いをする同級生だ。周囲の生徒たちの評判は、変わり者が三割、格好いいが七割といったところらしい。

 その評価は、どんな先生に対しても物怖じせずにつけつけと意見するところも理由だと思う。けれど、一番は篠塚の外見だろう。篠塚の小さな顔には、スッと目尻の切れ上がった涼しげな瞳と、高く通った鼻筋、なにも塗っていないのに赤く輝くぽってりした唇、それらがバランスよく配置されていて、美形という言葉を人間のかたちにしたらこうなるんだろう、と思わせるほど、完璧な美形なのだ。

 そんな彼女とわたしが友達になったのは、誠泉女学院中等科の入学式の日だった。初めてのホームルームが終わり、あとはもう帰るだけというところで、いったいどこの美少年かと目を疑うような彼女が、もたもたカバンにプリントを詰めていたわたしの席までズンズンやってきて、唐突に言ったのだ。

「なあ、いいなぁお前の名前。俺のと交換してくんねえ?」

 わたしはまず、彼女のあまりの美しさにびっくりして、何度もまばたきして彼女を見直した。次に、ズボンを履いてるってことは男の子なのかな、とぼんやり思ってから、そんなわけないじゃない、と否定した。それから、言われた内容をよく考えて、彼女を見上げて答えた。

「わたし、自分の名前は嫌いだけど、これは大切な名前でもあるから、あげられないよ」

 美少年のようだけれどもちろん違う美少女は、一瞬目を丸くしたあと、なにがおかしかったのかゲラゲラ笑ってわたしの肩を気安く叩いた。あの日から、篠塚との付き合いは、もう四年目に突入している。

「ハクがつくって、どういうこと?」

 わたしは授業で見たことのある、ぺらぺらで破けやすい金箔を思い浮かべながら尋ねた。わたしがこの学校に入学したのは、小学校六年生のときに、珍しくママから直接命令されたからだ。わたしには端的に「中学は誠泉女学院に行きな」とだけ言ったママの真意は「家から近いしエスカレーター式なんだから、呼び出されるようなことがあっても面倒は少ないだろう」というものだったと美代さんから聞いた。当時のわたしは中学受験は面倒だけど、家から近いのは嬉しいと試験を受けて、無事に合格した。そうしてわたしは誠泉女学院の生徒になったのだけれど、ハクってなんだろう。やっぱりペラペラの金箔が、わたしの脳裏にひるがえる。篠塚はニヤリと笑うと、首を横に振った。「ま、お前はそれでいいんだろうさ」

「待たせたな、行こうか」

 わたしが昔のことを思い出しているうちに、ぎゅうぎゅう詰まった自転車置き場から自分の自転車を引っ張り出していたコウキ君が、ハンドルを握って声をかけてきた。わたしたちは一緒に歩き出す。死んだはずのコウキ君と、目の前にいるコウキ君。まるで大人の男のひとのようなコウキ君。わたしはまたその混乱に竜巻のようにさらわれかけて、とりあえず頭に浮かんだことを口にした。

「自転車通学、大変だね。二高だよね?」

「まあ、そっちの徒歩十分と比べればな。それに、学校前のキツいのぼり坂がなあ……。でもまあ、さすがに一年通えば慣れてもくるよ。それより、セイのほうはどうだ? 高校生になってそろそろ二ヶ月だろ?」

「なんにも変わらないよ、エスカレーターで四年目だもん、校舎が違うくらいだよ。コウキ君は、いつもこんなに早く登校してるの?」

「部活の朝練があるんだよ。そうだ、そのうち試合でも見にきてくれよ。敵になっても幼馴染み特権ってことで応援してくれ……って、そもそも誠女となんて当たるはずないか、バカか俺」

「ううん……試合の日、教えてね」

 ぽつりぽつりと話していると、マンションからひとつ目の交差点についた。コウキ君とはここでお別れだ。ほっとするような、少し寂しいような、なぜか複雑な気持ちになる。

「なあ、セイ」

 ふいに、コウキ君が声をひそめた。つられてわたしは背の高いコウキ君を、伸び上がるように見上げた。コウキ君のささやき声が、わたしのまっすぐな髪の毛を揺らす。

「今日、調布第三地域だってな」

 なにを言っているのかはすぐにわかった。

「うん、調布第三地域だって。気をつけてね」

「そういうセイこそ気をつけろよ。ぼーっとしてるんだから」

「ぼーっとなんてしてないよ。それに、コウキ君は部活とかしてる、し!?」

 聞き分けのない子どものように言い返すと、とつぜんぐしゃりと頭を撫でられた。小さい頃のコウキ君にはよくやられたけれど、大きくなってからは全然なかった仕草だ。わたしは耳まで真っ赤になって、その場をとびのいた。

「コウキ君!」

 コウキ君は声をあげて笑った。そして「心配してくれてありがとな」と言うと、自転車にまたがって、ぐい、と力強くペダルを踏んだ。黒い自転車に乗った背中がみるみる遠くなっていく。わたしはくるりときびすを返して、通学路を歩き出した。

2012.01.21:誤字脱字他修正

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