第15話 わたしと真実
そういえば、昨日は徹夜だった。今日だってもう、真夜中を大きく過ぎている。けれどいろいろなことがありすぎて気分がたかぶっているせいか、わたしはこれっぽっちも眠くはなかった。それでも、限界まで酷使した身体は疲れきっていた。次々に起こったいろいろな出来事にパンクしそうな頭も疲れきっていた。早くベッドに横になって休みたかった。……あれ、これって眠いってことになるのかな。そんな他愛のないことを考えながら、足をひきずるようにして、わたしはうちに帰った。鈍い頭で無意識にドアノブを回すと、なんの抵抗もなくくるりと回った。玄関の鍵があいている。なぜだろう、と不思議に思う。泥棒? でも、うちにはとられて困るようなものはないはずだけど。
そっと扉を小さくあけると、玄関にミュールが脱ぎ捨ててあるのが見えた。このミュールには見覚えがある。美代さんだ。でも、美代さんが、こんな夜中に、わたしの──ママのうちで、なにをしているの?
それに、とわたしは疑問に思う。こんなふうに靴を脱ぎ捨ててあるのも美代さんらしくない。美代さんはいつも、きちんと靴をそろえるひとなのに。
玄関の扉をあけると、すぐにリビングが目に入った。そこに、美代さんがいた。美代さんがリビングにいるのは、うちでは普通の光景だ。だけど、今日に限ってその光景は、まったく普通ではなかった。なぜならリビングが、まるで台風でもきたかのような有様になっていたからだ。ママの部屋のドアまで開けっ放しになっていて、部屋の中が見える。わたしが今までいちどものぞいたことのなかったママの部屋も、動物が百匹大行進をしたかのような様相を呈していた。
「……なにしてるの、美代さん」
テレビボードの引き出しの中をのぞきこんでごそごそしていた美代さんが、びくんと背を揺らして、こちらを見た。
「あら、セイちゃんおかえりなさい。遅かったわね。てっきり今日はもう帰ってこないものだと思ってたわ」
「なにをしてるの、美代さん」
この、わたしとママのうちで。
今すぐこの場で眠りこんでしまいそうなくらい疲れていたけれど、考えていたよりも強い口調で言えた。そして、気づいた。今日の美代さんは、やっぱりおしゃれな薄いオレンジ色のスーツを着ている。けれどいつもツヤツヤと美しく巻いているはずの髪はぐしゃぐしゃになっていて、お化粧もところどころはげ落ちていた。あの、いつも完璧な美代さんが! わたしは驚いて、まじまじと美代さんをみつめた。美代さんががしがしと乱暴に頭を掻く。その爪も、いつもならばきれいに塗られているはずのマニキュアが、ところどころはげ落ちていた。
わたしはなんだか怖くなる。怖くなったけれど、今夜以上の、さっき体験したこと以上の怖さなんて存在しない。だから、語気も荒く、ふたたび美代さんに詰め寄ることができた。
「これ、全部美代さんがやったの? ママの部屋も?」
そう言って、わたしはリビングを指さした。荒らされて散らかったリビング。ママの部屋だって、もともとあんなふうだったはずはない。わたしはこれまでママの部屋をのぞいたことはなかったけれど、ママはいつもリビングもキッチンもお風呂もトイレも玄関も、こまめにきれいにお掃除している。そんなひとが、自分の部屋だけぐちゃぐちゃだなんて、そんなことは考えられない。
ハーア、と美代さんがため息をついた。
そうして、白い小さなバッグから、タバコをとりだして火をつけた。わたしは目をみはった。美代さんがタバコを吸うなんて、ちっとも知らなかった。
「ねーえ、セイちゃん。このうちに、宝石とか、貴金属とか、そういうものってないかしら?」
フウ、と白い煙を吐いて、美代さんが言った。
「なんだったらもう、預金通帳とかキャッシュカードでもいいんだけど」
「……美代さん、泥棒しようとしてたの?」
うちから? わたしの、わたしとママのうちから? あの美代さんが?
いつもわたしのうちを朗らかで、楽しくて、にぎやかにしてくれる、あの美代さんが?
わたしは目を丸くする。そんなわたしを見て、美代さんは笑った。「アッハハ!」と声をたてて笑った。その笑いに、わたしは背筋がぞっとなった。その美代さんの笑いかたが、なんだかとても大貫さんの笑いに似ていたからだ。ふたりの笑いの共通点は、底が知れない悪意を秘めていることだった。
「ねえ、セイちゃん。なんでわたしがこのうちで、タバコを吸ったことがないのか、わかる?」
どこか遠くを見るような目になった美代さんが、白い煙をくゆらせながら聞いてきた。わたしは首を横に振る。美代さんはもういちどあの笑い方をすると、タバコの煙をふーっと顔に吹きかけてきた。初めての経験に、わたしはコホコホとむせる。目が痛い。
「それはねえ、姉さんが、セイちゃんの身体に悪いから、それに制服に匂いでもついたら学校で疑われるから、うちにくるときはやめろ。そう言ったからなのよ」
──ママが。あのママが、わたしのことを思って?
昨日までのわたしなら、きっと信じられなかっただろうと思う。一時間前のわたしでも、信じられなかったかもしれない。でも、いまのわたしには信じられた。だって、ママはすごく、心の底から、わたしのことを想ってくれている。
「それにしても……ったく、どこにもなんにもありゃしない。がっぽり溜めこんでるはずだってのに、どこに隠してるっていうのよ」
「美代さん、本当に……泥棒しようとしてたの?」
「なによ、ちょっとぐらいもらってもいいじゃない、姉妹なんだもの。今までセイちゃんの面倒もよくみてあげたことだし」
そう言うなり、美代さんはそれが面白い冗談だったかのように、突然大声で笑った。
「まったく、理解しがたいわよね。占い、占い、占いもいいところだわ。おかげで楽しかったけどね」
楽しかったって、なにが?
大貫さんとおなじような笑いかたをする美代さんに、わたしはその言葉をそのまま受け取ることができなくなっていた。なにか裏がある。発言の裏になにか嫌なことが潜んでいる。今までずっとお世話になってきた美代さんが相手だというのに、そう勘ぐってしまう。わたしの面倒をみることと、占いと、どう関係があるの? わたしの面倒をみることで、なにが楽しかったの?
美代さんは意地悪く笑って、言った。
「そういえば、あの写真。お父さんの写真、ペンダントにして身につけてるんですって?」
「え……あ、うん」
わたしは制服ではないシャツごしに、小柄な黒マントさんにもらったシャツごしに、胸のペンダントに触れた。わたしのお守り。わたしのパパ。
しかし、そんなわたしを見て、美代さんはますます笑いをこらえられないようだった。しばらく大声で笑ったあと、一転して美代さんは猫なで声になった。
「セイちゃん、預金通帳のありかを教えてくれたら、わたしもいいこと教えてあげる」
けれど、わたしは首を横に振った。いいこと、というのは気になるけれど、できないことはできないのだ。
「そんなの、知らないよ」
なぜなら、うちの貴重品の管理はママの独占管轄だからだ。わたしはまったく手を出したこともなく、手を出そうと思ったこともない。美代さんはわたしの顔をじっくりと眺めて、嘘ではないとわかったのだろう。チッと舌打ちをして、ふたたびタバコを吸った。わたしはまたしてもびっくりした。美代さんが舌打ちをするなんて、聞いたのは初めてだったからだ。どんなに開けっぴろげでも、わたしの知っている美代さんはあくまでとことん女性らしかったのに。
「……美代さん、お金に困ってるの?」
とたんに美代さんが振り返る。そうしてわたしは、自分が美代さんの地雷を踏んでしまったことに気がついた。美代さんの瞳が、こんな小娘に自尊心を踏みにじられた屈辱と、怒りに燃えている。美代さんは、ドンッとわたしを突き飛ばした。わたしは悲鳴をあげる間もなくソファに倒れこんだ。美代さんはマニキュアがはげかけた爪を噛みながら、ぶつぶつとつぶやいた。
「……で……が……してなければこんなことにはならなかったのよ。ええ、ええ、そうですとも、わたしはお金に困ってるわよ。それで? それがどうしたっていうの? どんな仕事をしているんだか知らないけど、姉さんはお金を持て余してるんだから、ちょっとぐらいいただいたっていいじゃない」
「うちには、そんなに、お金はないよ」
「なに言ってるのよ、誠女なんかに通わせてもらっといて! アンタあそこの学費がどんなもんか知らないの? ……まあ、家が近いって理由だけでぼんやり通ってるだけのアンタには、学費のことなんてわかるわけないわよね。ついでに言うなら、このマンションだって分譲で即金一括払いなのよ、知ってた? つまり、どこかにあるはずなのよ、このうちには、お金が──お金が!」
そう言いながら、美代さんはぐるぐるとリビングを歩き回る。今のわたしの目に映る美代さんは、小さい頃から見てきた美代さんとはぜんぜん違っていた。とことん明るくて、朗らかで、優しい美代さんとは、なにもかもが違っていた。
「……美代さん、楽しかったってなにが?」
わたしは小さな声で尋ねた。さっき美代さんが言ったことを思いだしながら。美代さんは足を止めて、すさんだ眼差しでわたしを見た。
「ママが占い嫌いだから、わたしの面倒をみるのが楽しかったって、どういうこと?」
わたしは胸のペンダントに手を伸ばしかけて、そしてやめた。たとえば今夜コウキ君が大貫さんの思惑に気づいていたのと同じように、今のわたしにも、すでに美代さんの答えが見えかけていた。
美代さんは、笑った。それはまるで無邪気に残酷な遊びをする子どものような笑いかただった。これから蟻の巣に水を入れたり、トンボの羽をちょんぎったりしようとしているような、そしてそれを心から楽しみにしているような、そんな笑いかただった。
「そうねえ、かわいいかわいいセイちゃんだもの。しょうがないからただでも教えてあげるわよ。──実はね、姉さんはね。本当は、セイちゃんのことが大切でかわいくて仕方がないのよ。それに占いが大嫌いなんて笑っちゃうわね、ホントは熱狂的な信者なの。それでねえ、セイちゃんが生まれる前に、信頼している占い師に言われたんですって。『このままいくと、あなたの愛は重すぎて子どもを押し潰す』ってね」
──ああ。
わたしは目を閉じる。
「だから、ちょっとでも嫌いになれる要素を作ろうと、憎い男の名前をつけてみたり、なるべく接触を減らしてみたり、喋らないでみたり、無視してみたり、そりゃあもう見てるだけでかわいそうになるくらい、姉さんは必死に努力してたわ。アンタを少しでも愛さなくなれるようにね。まあ、そんな努力も全然成功してはいないみたいだけど」
わたしは思い出す。
毎日用意されている朝食と、夕食。
ママの仕事時間や睡眠時間と、わたしの活動時間は、本当はまったく違うはずで、毎日がすれ違いでもおかしくない。それなのに、わたしは今までママの顔を見なかった日は一日もない。
お皿を割るかもしれないという過剰な心配。あれは、お皿に対してじゃなくてわたしに対してのもの。
エンデバーに初めてわたしを連れていってくれたのは、ママだという話。そのときに言ったというセリフ。
ペロのときも、ほかのときも、どんなに怒られても、ママはわたしに手をあげることはなかった。
それから、心の底からわたしが疲れていたときに、さりげなく煎れてくれたコーヒーの味。
それから、──それから。
「それにねえ、セイちゃん」
鼠を爪の先で転がしていたぶる猫のように、美代さんは言った。
「アンタのパパは、本当にたいした男だったわ。よそに女を作るわ、金遣いは荒いわ、博打はするわ、お酒を呑んでは暴れるわ、そりゃもうダメ男の見本市みたいな男だったのよ。それで姉さんはもう完全に腹に据えかねちゃって、お腹の中にいる頃からかわいくて仕方がなかった子どもが生まれちゃう前に、子どもに悪影響だからって、さっさと追い出したってわけ。行方不明なんかじゃないのよ、しっかり籍も抜いてるわ。そんな男の写真を、後生大事に抱え込んで、お守りだと思ってたなんて、アンタは本当にかわいいわねえ」
そんなことを、美代さんはニヤニヤと悪意に満ちた声で言った。
目を閉じたまま、わたしは美代さんに尋ねた。
「美代さんは、わたしに本当のことを言ったことがあるの?」
美代さんは、パパのことでわたしに嘘をついた。
美代さんは、ママのことでわたしに嘘をついた。ママがわたしのことが大嫌いだと、嘘をついた。占いのことも。ずっと、ずうっと、物心ついてから今まで、嘘をつき続けてきた。
それに美代さんはさっき、ママがどんな仕事をしているのか知らないと言った。ママは夜のお仕事をしていて、小さなお店で男のひとにお酒を作ってお喋りしている。それもまた、嘘だった。
……ふう、と疲れたようなため息が聞こえた。
「だって、本当のことを言おうとすると、姉さんってば怒るんだもの。……仕方がないじゃない」
さっきまでの意地悪なものとは違って、小さく小さく落とされた美代さんのその声は、やけに頼りなげで、迷子の小さな子どものように聞こえた。
わたしは目を開いて、ソファから立ち上がった。
「それならママも悪いけど、美代さんも悪いよ。……帰って」
でも、と美代さんの目が名残惜しそうにぐちゃぐちゃのうちの中を見回す。わたしは大切な、これまでずっと大切だった、たとえこれまでわたしに教えてくれたことの全部が嘘だったとしても、今でもどうしても嫌いになれない、美代さんに向かって言った。
「お金のことは、ママとちゃんと話して。お願いだから、今日は帰って。泥棒なんかになって、わたしに美代さんのことを嫌いにならせないで」
美代さんが目をしばたたいた。いつもぱっちりと目の周りを縁取っているまつげが、今日はマスカラがよれよれでなんとなく哀れだった。美代さんはわたしの視線を真っ向からうけて、そしてがっくりと下を向いた。女性にしては大柄な身体が、悄然と肩を落として、なんだかいつもより小さく見えた。
「……帰るわ。ごめんね、セイちゃん」
「うん、またね」
美代さんを見送って、わたしはリビングに戻る。そのとたん、どっと一気に、今晩あったできこと──大貫さんのこと、黒マントさんのこと、美代さんのこと──すべての疲労が、わたしに襲いかかってきた。たった数歩のところにあるというのに、自分の部屋に戻るのすらおっくうになってしまった。わたしはそのままソファに倒れ込む。
そうしてわたしは竜巻に遭遇したようなリビングの、ソファの上で眠った。
2012.01.21:誤字脱字他修正