第14話 わたしと、ふたたび、夜
大貫さんの赤い車に乗り込んでから、コウキ君が運転席に片手をかけて、身を乗り出した。
「一旦うちに寄ってもらえますか。母が心配するので」
大貫さんはバックミラー越しに、にこにことコウキ君に笑いかけた。けれどわたしにはもう、大貫さんの笑顔は嫌悪を催すものでしかなかった。そのうえ大貫さんは、こんな言葉を返してきた。
「もちろんだよ。君は本当にいい家庭に育ったんだね。確か、お母さんのパートは月水金だっけ。それなら伝言を残しておかないといけないね。──それにしても、お金には困っていないようでなによりじゃないか。お父さんを撥ねたひとが裕福でよかったね。慰謝料と、そのほかにもいろいろ援助してもらっているんだろう?」
コウキ君の顔がかたくこわばった。コウキ君のお父さんは、確かに飲酒運転の交通事故で亡くなっている。そして本人は服役しているけれど、そのひとの実家は裕福で、家族のひとたちは本当に申し訳なかったといって、なにくれと援助をしてくれていた。だからって、そんな言い方はない。そんなことを、大貫さんが言う権利なんてない。
それとも、これも「僕が調査した中にはコウキ君だっているんだよ」というさりげない主張のつもりなのだろうか。そう考えて、わたしはぞっとする。わたしの交際関係は、いったいどこまで調査されているのだろう。大貫さんいわくの、『取材』という名目で。
マンション前で小さな赤い車が停まると、肩を怒らせたまま、コウキ君が車を降りていった。わたしは車の中に残ることにした。うちに帰ったって、この時間ならどうせママはいない。それに──わたしまでマンションに行くことは、大貫さんが許してくれない気がした。逃げるつもりかと警戒して。けれど大貫さんはそんな様子はおくびにも出さずに、「菱川さん、僕の後ろに移動したらどうだい。コウキ君が乗りにくいだろ」などとのんきな声をかけてきた。言われてみれば今の座り方、わたしが助手席のほうにいたら、コウキ君は車のまわりををぐるっと回って、乗り込まなければならない。わたしは黙ったまま、運転席の後ろへと移動した。
それっきり、コウキ君がふたたびマンションのエントランスに姿を現すまで、わたしたちは無言だった。わたしは大貫さんと話したいことなんてなにもなかったし、大貫さんは大貫さんで、考えることがたくさんあったのだろう。今夜のこと、これからのこととか。
だいぶ長い時間が過ぎたように思えた。そしてようやく戻ってきたコウキ君は、布に包まれた長い棒みたいなものを持っていた。
「それ、なあに?」
隣に乗り込んできたコウキ君に尋ねる。コウキ君はバックミラー越しに挑発的に大貫さんを見ながら、答えてくれた。
「木刀だよ。一応な。──俺は、大貫さんが今晩俺にやらせたい役割が、なんとなくわかったから」
へえ、と大貫さんが声をあげる。小さくて赤い車が、ゆっくりと走り出した。
「それでも逃げる気はないってわけかい?」
「あんたの取材のためじゃない。セイの親友のためだ。──それに、セイが、親父さんに会いたいって言ってるから。俺はそれを手伝いたいだけだよ」
わたしは弾かれたようにコウキ君を見た。コウキ君の口からそんなことが聞けるなんて、考えてもいなかった。けれどコウキ君は気負った様子もなくて、ごく普通に、当たり前のことを言ったかのように、そこに座っていた。わたしは小さな頃のように、コウキ君に抱きつきたくなった。わたしの自慢の兄。わたしのヒーロー。
やっぱりのんびりとした速度で、赤い車は道路を突き進んでいく。対向車線はそこそこ多いのに、こっちの道路を走っている車の数がずいぶん少ない。というか、わたしたち以外にはいない。そう思って、わたしは気づいた。時刻はもうすぐ九時に近づこうとしていた。そして今日の巡回地域、杉並区まではもうすぐだ。
わたしは考える。それで結局、大貫さんはわたしたちになにをさせようと思っているのだろう。コウキ君は、大貫さんがコウキ君に与えようとしている役割がわかったと言った。だから木刀を持ってきた。ということは、コウキ君はなにか直接的な危険にさらされる可能性があることになる。それから、大貫さんが狙っているのはスクープだ。『巡回部隊』についてのスクープ。結局ところ、それってなんなの? なにをすれば、スクープをつかんだということになるの? 窓から見える灯りをぼんやりと眺めながらわたしがそんなことを考えていたとき、車が止まった。あまり広くない道。商店街の一角のようだけれど、ぽつぽつと並んでいるお店の朽ちかけた看板や落書きされたシャッターから、この人気のなさと静寂が、今日だけのものではないことが伝わってきた。
「さあ、降りてくれ」
時刻はすでに九時を過ぎていた。車についている時計を見て、わたしはためらう。すると大貫さんは笑って、「大丈夫だよ」と言った。「まだ、ここは渋谷区だから」
その言葉に、わたしとコウキ君は車を降りる。後部座席の、わたしは運転席側から。コウキ君は、助手席側から。
とたんに、ぐいっと腕をひっぱられた。片足だけ外に出したところだったわたしは、強引に車から引きずり出された。「セイ!」と焦ったコウキ君の声が聞こえる。なに、なにが起こったの?
「ずいぶん警戒していたみたいだけど、甘かったね」
頭の上から声がした。大貫さんの声だった。気がついたら、わたしは大貫さんにがっちりと身体を抱え込まれていた。大貫さんが言葉を向けている相手はコウキ君だった。コウキ君は車の向こうで、木刀を構えていた。歯ぎしりするような表情で、コウキ君が言った。
「ああ、ここまで早くあんたが行動するとは思ってなかったよ」
そのとき、わたしは気づいた。首のところに、喉元に、ひんやりとした感触がある。これだけ隙間もなく密着していれば、わたしの身体が急にこわばったのもすぐに伝わる。大貫さんは爽やかな笑い声をたてた。
「ああ、菱川さん。動かないほうがいいよ。もしも首にナイフがささったりしたら、僕は殺人鬼さんのせいにして逃げなくちゃいけない」
つまりわたしは、大貫さんに拘束されて、首にぴったりとナイフをつきつけられているのだ。背筋がぞっと凍る。わかっていたはずなのに。このひとが、目的のためなら手段を選ばないひとだっていうことは。なんでわたしは、言われるままに、運転席の後ろに座ってしまったのだろう。
それから大貫さんは、コウキ君に命令した。
「さあ、杉並区に入るんだ。道路のそこに標識があるだろう、その向こうが第四地域だよ。ほら、早く」
木刀を構えたまま、じりじりとコウキ君が巡回区域内に入っていく。
「だめ、だめだよコウキ君!」
「そういうセリフは、人質になんてなるようなポカをしなくなってから言った方がいいよ、菱川さん」
まさにわたしを人質にとった当人だというのに、わがままをいう子どもをたしなめるような口調で、大貫さんが言った。しかも言われていることは正論だった。
コウキ君は木刀を構えたまま、こちらを強い視線で見据えたまま、巡回地域内へとじりじりと歩いていった。
「ああ、彼は本当に格好いいねえ。近隣の学校の女子生徒たちに人気があるのもよくわかる」
のんきに大貫さんが言う。けれど。
いつ、あそこに殺人鬼さんがくるかもしれない。
いつ、コウキ君が殺されてしまうかもしれない。
「……大貫さんは」
喉にぴったりとはりついた冷たい感触を怖いと思いながら、わたしはなんとか声をだした。ありがたいことに、それだけで喉がスッパリ切れてしまうとか、そんなことはなかった。
「コウキ君が、殺人鬼さんに襲われればいいと、思ってるんですか」
それは、確信に近い質問だった。だって、大貫さんはコウキ君をひとりだけ、巡回地域内に追いやった。大貫さんは、そうだねえ、と笑った。
「それで、わたしといれば無事だから、それが篠塚とのことでわかったから、わたしと一緒にいるんですか。保険をかけて、安全な巡回地域外で」
大貫さんは車のそばを離れようとしない。つまり、渋谷区からは一歩も出ようとしていない。巡回地域に指定されている、杉並区第四地域には入ろうとしていない。そうだねえ、とやっぱり大貫さんは笑った。
「高見の見物をして、コウキ君が殺されるところを見て、それをスクープとして発表するんですかっ……」
「残念ながら、見るだけじゃ信憑性が薄いんだよね。だから、こっちにホラ、カメラも用意してるんだよ。準備がいいだろう?」
「ひとでなし……」
いつかも同じような気持ちで告げた言葉を、わたしはもういちど発した。けれどあの時と同じように、大貫さんにとってはやっぱり、痛くも痒くもないようだった。そうだった、前にも言われたんだ。ひとでなしで結構、って。そうやってひとでなしなやりかたでもしないと、ジャーナリストとしてやっていくのは大変だとか、確かそんなことを。
大貫さんは、ひどいひとだ。ひどいひとだけど、ひどいひととしての、しっかりとした考え方がある。ひどいひととしてのポリシーがある。それがどんなにひどいものであっても、まっすぐに強い芯がある。だからどんなに泣いてもわめいても、わたしの怒りは大貫さんには届かない。篠塚の痛みも、大貫さんには届かない。コウキ君の怒りだって、大貫さんには届かない。大貫さんは、だってまるでちっとも、ひとの意見に左右されることなんてないひとなのだから。ひとの気持ちのことなんて、どうでもいいひとなのだから。これからコウキ君が殺人鬼さんに殺されるところを撮影して、『巡回部隊』の真実としてスクープしようとしているひとなのだから。
こんなひとには、なにを言ったって無駄なんだ。わたしの身体からどっと力が抜ける。思わずその場にしゃがみこみそうになったわたしを、「おっと」と大貫さんが支えた。「こら、危ないよ。切れちゃうじゃないか」そんなセリフを聞きながら、気づいた。首につきつけられていた冷たい感触が、わずかにわたしから離れている。今だ!
──コウキ君、コウキ君、コウキ君!
わたしはコウキ君に向かって走り出した。ピリ、と喉が痛んだ。けれど、そんなことに構ってはいられなかった。コウキ君!
わたしは体当たりするように、コウキ君に抱きついた。
「セイ!?」
コウキ君の驚愕に満ちた声を聞きながら、わたしは思った。コウキ君、だめだよ。死んじゃだめ。もしもわたしが違反対象外者なら、わたしは大貫さんじゃなくて、コウキ君と一緒にいなければならない。コウキ君が少しでも、助かる確率をあげるために。
コウキ君にしがみつきながら大貫さんを振り返ると、彼はいらだったように頭をガリガリと掻いて、自分の車を蹴飛ばしていた。そして、叫んだ。
「戻って来るんだ、菱川さん! 僕は本当にあの記事を書いたっていいんだよ!」
あの記事──わたしの背中に戦慄が走る。篠塚を、篠塚のことを、もうこれ以上傷つけるようなことはさせられない。だけど、コウキ君を死なせることもできない。どうしよう。どうしたらいいの。篠塚のために、大貫さんのところに戻るの? でも、それじゃあコウキ君が……
「違反者二名、確認」
必死に考えていた私の耳に、するりと抑揚のない無機質な声が滑り込んできた。まるで機械で合成したような、人間らしさのまったくない、感情がちっともこもっていない、そんな声だった。
わたしとコウキ君は、そして大貫さんが、そろって声のしたほうを見る。わたしとコウキ君、そして大貫さんのちょうど中間くらいのところにある路地に、街灯の明るさを避けて暗闇にとけこむようにして、真っ黒いフードを被り、真っ黒いマントのようなものを着た、細長いひとが立っていた。フードの下の顔は、全体が黒いマスクで覆われていて、爛々と光る目くらいしか見えない。マントに覆われた身体も、肌の一部分すら見えない。それでも声から判断すると、どうやらそのひとは男のひとのようだった。
その男のひとは、静かに、静かに、足音もたてずに、移動しているようにも見えない静けさで、するりするりと歩いてきた。そして、大貫さんの姿を認めると、「目撃者、確認」とつぶやいた。それから、やっぱり淡々とした、感情の起伏などぜんぜんみえない声のままで、「今日は、大漁だ」と言った。
遠くからでも、大貫さんがみるみる青ざめていくのがわかった。大貫さんは、ジャーナリストだというのに、そこにスクープがあるというのに、カメラを構えることすら忘れて、片手に持ったままのナイフを振り回しながら、叫んだ。
「僕は、巡回地域に入っていない!」
「巡回規則第十五条。目撃者は巡回地域外であっても確保」
それを聞いたとたんに、大貫さんは逃げ出した。カメラとナイフをその場に放り出して、あわてて車に乗り込んだ。いや、乗り込もうとした。そこに、滑るように黒いマントが近づいていって──
ぽん、と大貫さんの首が、飛んだ。
「目撃者、確保」
え、と思った。
目の前の光景があまりに非現実的で、認識が追いついてきてくれない。切り口から、ブシュウ、となにか赤黒いような液体が飛び散っている。てん、てん、てん。まるいなにかが、道路を転がっていく。車に寄りかかるようになっていた大貫さんの身体が──大貫さんの身体だけが、支える力をなくしたかのように、ずるずるとその場に崩れ落ちていった。
わたしとコウキ君は、呆然とその光景を見ていた。けれどその黒マントが、次にするするとこちらに近づいてくるのを見ると、コウキ君は黒マントにむかって木刀をまっすぐ構えて、わたしを背後に押しやった。
「セイは、こいつは、違反対象外じゃないのか」
コウキ君が張りつめた声で尋ねる。黒マントはその場に立ち止まって、首をかしげた。それは黒マントが初めて見せた、人間らしい仕草だった。それからおもむろに、マントの中を探り、腰からぶらさげているらしい端末機械を操作し始めた。そうして、ふたたび端末から手を離すと、こちらを見た。
「違反対象外者一名、確認」
「なら!」
「巡回規則第三十条の五。違反対象外者であっても複数回違反の場合、確保」
するり、するり。黒マントが流れるように近づいてくる。わたしは、本当に違反対象外者だったらしい。けれど、複数回。昨日も巡回地域にいたわたしは、今日も巡回地域に入ってしまったわたしは、もう助からないのだ。違反対象外者という、安全な籠は消えた。──でも、それはコウキ君だって一緒だ。
「逃げよう、コウキ君」
歯の根があわないほど震えながら、わたしはコウキ君のシャツの背中をつかんだ。しかしコウキ君は、真正面に立つ黒マントに向かって木刀を構えたまま、小さく首を横に振った。
「あいつ、背中なんて見せたとたんに襲ってくるぞ」
「それじゃ、どうすれば──」
「セイ、離れろ!!」
どん、といきなりコウキ君に突き飛ばされた。尻餅をついて見上げると、正面からまっすぐに繰り出された大きな大きなナイフを、木刀でかろうじて受け止めているコウキ君がいた。しかしナイフは、ギリギリと徐々に木刀に食い込んでいく。
コウキ君がフッと小さく息を吐いて、地面を蹴って、一旦黒マントから離れた。そして、剣道の足遣いなのだろうか、地面を擦るような素早い足取りで、すすすっと横に移動していった。たぶん、わたしから黒マントを引き離そうとしてくれたのだろう。黒マントもコウキ君を追って、滑らかに移動していく。そうして道路の向こうのほうへと移動しながら、ふたりの距離が少し離れる。ピリピリと空気が張りつめた、一瞬の静寂。次の瞬間、コウキ君は一歩踏み出すと、鋭く木刀を振りおろした。同時に黒マントが目にもとまらぬ早さで腕を一閃した。わたしは思わず目をつぶって顔を背け、けれどあわててふたたびふたりの対決を見た。コウキ君の無事を知りたかった。──けれどわたしの目に映ったのは、コウキ君の木刀が根本からスッパリと切れ、その刀身が、カラン、と音をたてて地面に落ちる光景だった。黒マントのナイフが切り裂いたのはコウキ君の木刀だけではなかった。コウキ君の腕がズバッと切れて、そこから赤い血が流れ落ちていくのもまた、見えた。
「コウキ君!」
わたしは悲鳴をあげた。コウキ君が腕をおさえながら、その場に膝をつく。それでもコウキ君はわたしを見ると、首を横に振って、「セイ、逃げろ」と言ってくれた。そんなコウキ君の足を、黒マントは冷静に、物静かに、無造作に、ナイフでトスンと突いた。トスン、トスン、と何度も突いた。最初は地面についた右足を、それから左足を。コウキ君が苦痛の呻き声をあげて、その場に倒れた。それからようやく黒マントが、コウキ君からナイフを引き抜く。わたしのいる場所から見ると、コウキ君の足は真っ赤に染まっているようだった。
「少年は面白い素材だ。あとでゆっくりと楽しむ」
少しだけ高揚したような声で、黒マントはそんなつぶやきをもらす。そして次に、黒マントはくるりと首を回して、わたしを見た。わたしはその場に座り込んでいることしかできなかった。コウキ君は逃げろと言った。けれど、足がすくんで動けない。立ち上がることすらできない。怖い、怖い、怖い。どうしよう、どうすればいいの、それに、それより、コウキ君が、コウキ君が。
「お前は面白くない」
黒マントの声が、単調で冷静なものに戻った。黒いマントの隙間から、大きな大きなナイフが見える。それは外灯の下で、大貫さんの、コウキ君の、鮮血に濡れてヌラヌラと輝いていた。黒マントはなめらかな足取りでわたしに近づいてきた。ポタポタと血を垂らす、大きな大きなナイフを手にしながら。まばたきもできない目が乾いて痛い。ごくり、無意識に喉を鳴らした直後、黒マントはわたしのすぐ目の前にいた。そして、心臓をわしづかみにされたような恐怖に身がすくむばかりで、指いっぽんすら動くこともできないわたしに向かって、大きな大きなナイフを振りかぶった。そして。
「……なに?」
と、言った。
わたしは、見た。黒マントの男のひとに、もっとずっと小柄な黒マントのひとが、しがみついていた。しがみついているように見えた。けれど、違った。よく見ると、小柄な黒マントが手にしている大きな大きなナイフが、ずぶずぶと最初の黒マントのお腹に沈み込んでいた。
「なにをする」
そんな状況でも、最初の黒マントの声は冷静だった。小柄な黒マントが、最初の黒マントからぱっと離れた。お腹を押さえながらも、最初の黒マントが小柄な黒マントに向かってナイフをふるう。小柄な黒マントも応戦する。
しばらくそんな現実離れした光景をぼんやりと眺めてから、ふいにわたしは思い出した。コウキ君!
わたしはコウキ君に駆け寄った。腕の傷からも、足のいくつもの傷からも、血はだらだらと流れ続けていた。心臓から近いほう、心臓から近いほう、と無意識につぶやきながら、わたしは自分のスカーフを切り裂いて、コウキ君の腕と、両足の付け根をきつく縛った。ブレザーを脱ぎ捨てシャツを脱いで、それをいくつかに切り裂いて、どくどくと血がでている傷口を押さえた。それから、ここから離れなくちゃ、と思った。わたしはすっかり赤く染まったシャツでそのまま、血まみれの傷口を縛った。わたしがそんなことをしている間にも、あたりは黒マントたちのナイフの音が、キインキインと響いていた。
わたしはコウキ君の大きな身体を、わきの下に手を入れてひきずり始めた。せめて巡回地域外へ。今更そんなことに意味があるのかはわからないけれど、とにかく巡回地域外へ。制服のブレザーを脱いで、シャツもなくなって、キャミソール一枚だけになった間抜けな姿で、わたしはびっしょりと汗をかき、ゼイゼイ言いながら、必死でコウキ君をひきずった。
「逃がさない」
突然、最初の黒マントが目の前に現れた。あまりの恐怖と驚きに身が竦み、ぎゅっとコウキ君を抱きしめる。しかし、ふたたび小柄な黒マントが最初の黒マントに飛びかかって、黒マント同士の戦いが再開された。今のうちに。
持てる力のすべてを使って、わたしはコウキ君を渋谷区までひきずりだした。息を弾ませて、それから思う。これからどうしよう。あたりを見回すと、そこにあるのは大貫さんの車と、大貫さんだったそれと、あとはぽつんと道路脇にたたずむ電話ボックスだけだった。
わたしの体力は限界に近かった。それでも、わたしはコウキ君をひきずった。その傷口は縛りつけたシャツを真っ赤に染めて、まだ血が流れ出ている。こんなにいっぱい血が出ても大丈夫なのかな。ううん、大丈夫。絶対に大丈夫。だから死んじゃだめ。こんなところで死んじゃだめ、コウキ君。お願い、コウキ君。わたしの兄、わたしのヒーロー。
わたしは、コウキ君を電話ボックスの中に入れた。だらりと伸びて血を流す長い足を折り畳んで、それも中に入れた。ドアをきっちりと閉めて、そしてわたしはドアにもたれて座り込んだ。激しく息が切れていた。もう、指一本だって動かせる気がしなかった。
そうしてわたしは、その場でぼんやりと、黒マント同士の戦いを見ていた。最初の黒マントは手足が長くて、だからこそ広範囲にナイフを振り回せるようだった。小柄な黒マントは敏捷で、だからこそ相手の懐にもぐりこんではするりと離れる戦法をとっているようだった。黒マント同士の戦いは、最初は互角に見えた。けれど、一番初めの一撃がたたったのだろう。最初の黒マントのほうは、次第にお腹をかばって、動きが鈍くなっていった。小柄な黒マントはその隙を突いた。ふらりとよろけた最初の黒マントの懐に一瞬で飛び込むと、その胸をナイフで突いた。そのままずぶずぶとナイフが柄まで沈んでいく。すっかり最初の黒マントの身体の中にナイフが収まってしまうと、ドウ、と音をたてて、最初の黒マントがその場に倒れた。
最初の黒マントからずるりとナイフを引き抜くと、小柄な黒マントは、今度はわたしに向かって歩いてきた。なぜだろう。わたしはまったく、怖くはなかった。ぺたんとその場に座り込んだまま、電話ボックスにべったりと背中を預けたまま、わたしは目の前に立つ、小柄な黒マントを見上げた。
小柄な黒マントはしばらくマントの中でごそごそすると、自分が着ていたのだろうシャツをわたしに渡してくれた。それから、いつの間に回収していたのだろう、わたしの制服のブレザーもまた、わたしに向かって差し出してきた。そして、言った。
「うち帰って、寝な」
シャツとブレザーを受け取って、わたしは首を横に振った。だって、でも、コウキ君が。コウキ君が。
小柄な黒マントは、わたしの背後、電話ボックスに閉じこめたコウキ君を見やる。それから、マントの隙間から手を出した。手を出して、しばらく迷って、それから、恐る恐るというように、わたしの頭に触れた。最初は、ちょっとだけ。それから意を決したように、でもこわごわと、そっと撫でるように。
「そいつのことは、任せな」
涙があふれそうになった。
わたしはうなずいた。そして、電話ボックスを背にしたまま、ずるずると立ち上がった。
2012.01.21:誤字脱字他修正