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第12話 わたしと迷路

 のぼる朝日を浴びながら、道路沿いを歩いてようやく見つけた駅では、もう電車が動いていた。なにごともなかったかのように運行しているその電車に乗って、乗り継いで、わたしたちは調布に戻った。その頃には篠塚はもうすっかり、いつもの表情が作れるくらいになっていて、調布の更に向こうへと電車に乗って去っていった。

 わたしがうちに帰ると、リビングのソファにママがいた。

「……ただいま」

 おかえり、という返事を期待したことは、これまでにいちどもなかった。ママがわたしになにか話しかけてくることは、よほどの用事でもない限り、ない。

 それにしても、占いが表示される情報番組はまだ始まってもいないというのに、どうしてママがリビングでテレビを見ているんだろう。テレビはだらだらと同じニュースを繰り返し流している。この時間だったら、ママはお仕事から帰ってひと眠りしていても、おかしくないはずなんだけど。

 そんなことをぼんやりと考えていたので、ママのほうから聞こえた言葉に反応するのが遅れてしまった。

「どこ行ってたんだい」

 部屋に戻ろうとしていたわたしの、足が止まる。

 前にも言ったけれど、わたしはママが怖い。怖いけれど、嫌いではない。少しでも興味を持ってもらいたいと思っている。少しでもたくさん、話しかけてもらいたいと思っている。できればわたしのことを、好きになってほしいと思っている。

 そんなママに嘘をつくのは心苦しかった。けれど、わたしは胸元のペンダントをぎゅっと握りしめて、言った。

「篠塚の、とこ」

 言ってから、そういえばママはわたしの交友関係なんて知ってるのかな、と思った。わたしはママに、学校でなにがあったとか、誰が友達だとか、篠塚のこととか、ひとつも話した覚えがない。

 しかしママは、まるで興味を失ったようにフンと鼻を鳴らすと、占いの出ていないテレビ鑑賞に戻っていった。それからその場に立ちつくしていくら待ってみても、お小言だとか、篠塚って誰だという質問だとか、そんなものはひとつも降りかかってこなかった。

 ママがわたしに興味がないのはいつものことだ。だから、大丈夫。わたしはもういちど胸のペンダントをぎゅっと握りしめて、自分の部屋に入った。まずは、お風呂に入ろうと思いながら。

 シャワーを浴びるだけでも、頭のなかがずいぶんとシャッキリした。徹夜だったというのに、わたしの脳みそは妙に冴えているようだった。それとも、徹夜明けの朝というのは一般的にそういうものなのだろうか。不思議に思いながらお風呂を出ると、リビングにママの姿はなくて、キッチンに熱々のコーヒーがぽつんと置かれていた。これは、もしかして──ママが、わたしのために、用意してくれたの?

 なぜだろう。わたしはママが、昨晩わたしが、わたしたちが、大変な一夜を過ごしたことを、知っているような気がした。それは母親の勘というものなのだろうか。でも、わたしを嫌っているママが、わざわざそんな勘を働かせてくれるだろうかと不思議に思う。それでもコーヒーは素直に嬉しかった。わたしはキッチンの椅子に腰掛けて、熱いコーヒーに口を付けた。エンデバーでマスターが熟練の技を使ってじっくり煎れてくれたものとは比べものにもならないけど、美味しいことにはかわりがない。舌を火傷しないようにちょっとずつコーヒーを飲みながら、わたしはキッチンからリビングに移動して、ぽすんとソファに座った。その反動でコーヒーがこぼれかけて、あわてて姿勢を正す。そうして、考えた。

 わたしは、また、助かった。

 やっぱり、パパが殺人鬼さんなの?

 大貫さんが──本当に、本当にひどいひとだったけれど、まだ大貫さんがひどいひとだとわかる前に、あのひとと篠塚は、一緒に真剣に推論を組み立てていた。そうして組み立てた推論がぜんぶ間違っているとは、わたしには思えなかった。

 国民全員が持っているカルケーと、携帯電話のこと。

 位置情報で、巡回地域の違反者を探していること。

 殺人鬼さんの家族が違反対象外になるということ。

 でも、と思う。

 わたしは、また、助かった。大貫さんは言っていた。一度目は偶然でも、二度目は偶然より必然に近づき、三回あればそれは必然なのだと。ふたたび助かったことによって、わたしの巡回地域からの生還は偶然から必然に近づいた。それはやっぱり、パパが殺人鬼さんだから?

 それでも、文和何年かに宇都宮で生還した姉妹の周囲に、行方不明になったひとはいなかった。調べたのがあの大貫さんだ。きっと、さぞかしじっくりねちねちと調査したことだろう。だったら、その情報に間違いはないはずだ。

 ここで、わたしは壁にぶつかってしまう。

 それじゃ、殺人鬼さんっていうのはなんなの? どこの誰で、どんなひとたちの集まりなの?

 ──偶然だったのかな。そんな考えが頭をよぎる。宇都宮のひとたちは、偶然『巡回部隊』に見逃されたのかな。でも、妹さんはカルケーを、位置情報機能を持っていたといっていた。それじゃあなんで? 夜遊びをしているわけでもない、高校生と小さな女の子だったから、見逃してくれたとか? ううん、一番最初の三日間の巡回で、千人近くのひとを確保した『巡回部隊』が、そんな甘い判断をしてくれるとは思えない。

 ……殺人鬼さんって、なんなんだろう。

 コーヒーを揺らしながらぼんやりと考えるわたしの背後、キッチンで、ママが包丁を鳴らし始めていた。



 そこはかとなく眠いような、眠くもないような、ふわふわとした気分でうちを出た。学校に着くと、篠塚は今日は休みだった。こういうとき、わたしは早く携帯電話が持ちたくなる。篠塚にひとことメールで「大丈夫?」と様子を尋ねることも、電話をして声を確かめることも、カルケーではまったくできないのだから。

 昼休みに、わたしは教室を抜け出して、パソコン室へと直行した。こっそりパソコン室に忍び込んでパソコンを使うことにも、もうなんの罪悪感も感じなくなっていた。これはわたしが悪い子になっている兆候だと自覚しながらも、わたしはこそこそと電源を入れて、篠塚がやっていた手順を思い出しながら、検索窓に言葉を打ち込んだ。何度も失敗して、わたしはようやく『デッド』が書き込んでいる討論サイトのページにたどり着くことができた。ドキドキしながらわたしはページをスクロールして、一番新しい書き込みを表示する。そこには、『文和十八年 新宿区二名』という、『デッド』の書き込みが加えられていた。時間は今朝の午前三時過ぎ、巡回時間が解除された直後だ。

 その書き込みを前にして、わたしは考える。この『デッド』というひとは、なにがしたくて、このページにこんな書き込みをしているのだろう。真実を知っているいう自慢? 人口管理委員会にも穴があるんだという主張? 隠された真実を民衆に伝えようという義務感? しかしどんなに眺めてみても、そっけない書き込みからは、なんの意図も伝わってはこなかった。わたしはため息をついて、ブラウザを閉じた。

 それから、椅子をゆらゆらと揺らしながら考える。大貫さんはこれから、どうするつもりなのだろう。大貫さんはエンデバーを、わたしがよく行くお店を知っている。わたしのことも、篠塚のことも、いろいろ調べたと、本人が言っていた。きっとわたしの住所も、わたしが生まれてから今までにあったすべてのことも、なんでもかんでも「取材」して、知っているのだろう。そしてまた、今朝の人口管理委員会の発表を見て、わたしと篠塚が無事だったということも、すでに知っているはずだ。

 わたしは、どうすればいいんだろう。篠塚が作った掲示板の、『A』さんの助言が脳裏によみがえる。『逃げることは不可能』。きっと、またしても生還したわたしの前に、大貫さんはふたたび現れるはずだ。わたしと篠塚に対してやったことなど、まったく悪びれる様子もなく、実験に成功した少年のような表情で。

 そこまで考えてから、あれ、とわたしは思った。それで、わたしの前に現れるのはいいとしても、大貫さんは最終的になにがしたいんだろう。『A』さんによると、大貫さんは『巡回部隊』のスクープを狙っているらしい。だからといって、わたしはどんなに強要されても、自分が生還者なのだと大勢のひとの前で証言したりするつもりはない。たとえ強引に引きずり出されたとしても、口を閉じて目も閉じて、殻に閉じこもった貝になるだろう。だって、大貫さんのために、どうしてそんなことをしてあげなければいけないの? わたしがそんなふうに考えることくらいくらい大貫さんも予測しているだろうというのに、大貫さんはなにがしたいんだろう。

 篠塚のように椅子をゆらゆらと回しながら、わたしはふと思った。そうだ、それから、篠塚のこと。もう、篠塚と大貫さんを会わせてはいけない。篠塚は強いふりが得意だから、なにごともなかったかのような平気な顔をして、今までのように大貫さんに嫌味をぽんぽん言うだろう。けれど、でも篠塚の芯はやわらかくて繊細だ。もう、篠塚と大貫さんを会わせてはいけない。わたしは口が悪くて性格が悪くて、でも優しくて傷つきやすい、そんな篠塚を守りたかった。ううん、絶対に守ってみせる。

 ──でも、それじゃあ、わたしがひとりで大貫さんと対決するの?

 そう考えて、ぞっと全身に鳥肌がたった。わたしはぼんやりしているわりに頑固だと、篠塚は言う。セイちゃんは芯が強いのよね、と美代さんは言ってくれる。だからといって、わたしはひとりで大貫さんに対峙するのは怖かった。ひとりで立ち向かうには、大貫さんはあまりにも得体が知れなくて、恐ろしいひとだった。

 どうしよう。わたしはぐるぐると考える。大貫さんに、ひとりで立ち向かわなくてもいい方法。大貫さんの性格を考えれば、今日学校が終わったらすぐにでも、わたしのもとに姿を現してもおかしくはない。そのとき、誰かが一緒に立ち向かってくれないだろうか。どうしよう、どうしよう、パパ。わたしは胸のペンダントをぎゅっと握った。殺人鬼さんかもしれないパパでも、やっぱりパパの写真はわたしのお守りで、大切なものだった。

 どうしよう、パパ。ママ……は、だめだ。考えるまでもない。第一ママは、わたしが帰る頃にはもうお仕事に行ってしまっている。だから、ママは却下。それじゃ、美代さん? ううん、今までさんざんお世話になってきた美代さんを、こんなわけのわからないことに巻き込めない。それに、とわたしは思う。美代さんのどんよりとした、洞穴のような瞳を思い出す。たぶん美代さんは、最近お仕事が大変なんじゃないのかな。そういえば、最近はうちにも寄ってくれていない。そもそも、わたしは美代さんのお店がどこにあるのかも、お仕事が何時に終わるのかも知らない。だから、美代さんも却下。それじゃ、あとは、マスター? マスターならちょうどいいかもしれない。マスターは、大貫さんとわたしたちがこそこそと、いろいろなことを話していたのを知っている。そしてわたしたちが昨日、大貫さんに連れ去られたのも知っている。そうだ、マスターだ。……でも、マスターにだってお仕事はある。エンデバーはわたしのためだけのお店じゃない。エンデバーで大貫さんに会うとしても、ずっとマスターに同席してもらうというのは、ちょっとわがままが過ぎるんじゃないだろうか。そんなわがままを言って、マスターを困らせちゃいけない。……わがままなんか言って、嫌われたくない。ぷしゅう、とわたしの心が小さくしぼんだ。だから、マスターも、却下。それじゃ、どうすればいいんだろう。やっぱりひとりで、あの大貫さんと、やり合わなければいけないの?

 昼休みの終わりを告げる鐘が響いた。わたしは慌てて、パソコン室を飛び出した。



 今日はエンデバーに行く勇気もなく、とぼとぼとした足取りでわたしは帰り道を歩いた。わたしにはまだ、ひとりで大貫さんに対抗する覚悟はできていなかった。大貫さん。柔和な顔をした好青年。取材のためならば手段も選ばない獰猛な獣のようなひと。

 マンションへと曲がる角の手前で、ふと足が止めまった。もしも大貫さんが、マンションに来ていたらどうしよう。中にまで入ってしまえばオートロックで安心だけれど、マンション前で待ちかまえていたら? 確かめる決意ができずに、その場で檻の中の熊のようにうろうろする。どうしよう、どうしよう。

「セイ?」

 急に後ろから声をかけられて、わたしはその場で飛び上がった。心臓が縮みあがる。ドキドキする心臓を押さえながら振り向くと、自転車にまたがったコウキ君が怪訝な顔をしていた。

「コウキ君!」

 ふわりと心が軽くなる。帰ってきたわたしのコウキ君。わたしの兄。わたしのヒーロー。

「どうしたの、ずいぶん早いね。部活は?」

「テスト前で休み。そんなことより『どうしたの』は俺が言いたいよ。なんでこんなところでうろうろしてるんだ?」

 そうだ、とわたしは思いついた。コウキ君には手間をかけて申し訳ないけど、ちょうどよかった。マンションの周りを、コウキ君に見てきてもらえばいいんだ。

「あのね、コウキ君。マンションの前とか、周りとかに、赤くてちっちゃくてかわいい車が留まったりしてないか、見てきてくれない?」

「なんだよ、不穏だな。別にいいけど」

 あっさりとうなずいて、コウキ君は黒い自転車に乗って角を曲がっていった。わたしは電柱の陰でできるだけ小さくなりながら、コウキ君が帰ってくるのを待った。

 コウキ君は、すぐに帰ってきた。

「それらしい車はなかったよ。ついでに、ここらで見かけたこともないような不審人物もいなかった。これで大丈夫か?」

「うん、ありがとう」

 わたしはにっこり笑った。コウキ君は、わたしがなにを心配しているのか──誰かを恐れていることに、すぐに気がついてくれた。そして「ついで」と言いながら、気を使ってくれた。それがわたしには嬉しい。

 コウキ君が自転車を降りた。そして、ようやく角を曲がってマンションに帰る決心が付いたわたしと一緒に、自転車を押して、マンションに向かって歩きだした。

「……なあ、セイ」

「なあに?」

 自転車を押すコウキ君を、鞄をぶらぶらさせながら見上げた。するとコウキ君はたじろぐほど真剣な表情で、問いかけてきた。

「お前、なにか変なことに巻き込まれてるんじゃないのか?」

 なんでわかったんだろう。息をのんで、まじまじとコウキ君を見つめた。コウキ君そんなわたしを見て、「わからないほうがどうかしてるだろ」と呆れたように言った。

「それで、その問題をひとりでなんとか解決しようとしてるんじゃないのか?」

 びっくりが二重になって降り懸かってきた。目をまんまるに開いてしまう。

「なんでわかったの?」

「なんでもなにも……クソ、ちょっと待って」

 コウキ君はマンションのぎゅうぎゅうの駐輪場に、四苦八苦しながらさらにぎゅうぎゅう自分の黒い自転車を詰め込んで、振り返った。

「今のセイは、ペロのときと同じ顔してるんだよ」

 わたしはぽかんとした。

 ペロというのは、犬の名前だ。わたしが小学校の高学年になった頃、この辺りをふらふらしていた野良犬。かつてはどこかの飼い犬だったのだろう、人なつっこくて、学校に友達はいたけれどうちに帰ればひとりぼっちだったわたしも、放課後はお友達と一緒だったコウキ君も、ペロが大好きでよく遊んでいた。ペロがいるときは、コウキ君もちょっと優しくなって、わたしをみんなの輪の中に入れてくれる。それもまた、ペロがもたらしてくれた嬉しいことのひとつだった。

 けれど、やっぱり衛生上よくないから、ペロを保健所にひきわたすことにしよう──そんなマンション内のおばさんたちの井戸端会議を耳にしてしまったわたしは、翌日、ペロを連れて家を出た。コウキ君とはちょうどその頃、関係が壊れはじめていて、相談することはできなかった。わたしはどこかで、どこか遠い場所で、ペロとふたりで生きていくつもりだった。けれどたかが小学生だったわたしの世界はとても狭くて、どこかに隠れ家なんかを作ることもできず、結局隣町の公園にあるオブジェのような滑り台の中で、一晩を過ごすことしかできなかった。翌朝、ペロに抱きついたままぼんやりと目をあけると、そこにはママがいて、「あんまり面倒かけるんじゃないよ」と叱られた。……そういえば、あのときわたしがあんなにあっさり見つかったのは、やっぱりカルケーの位置情報機能が関係していたのかな。それはともかく、最終的にペロは近所で飼いたいというひとが名乗り出て、そのおうちの子になった。わたしは今でも時々、散歩で会った時などに、撫でさせてもらう。

「セイがペロを抱いてマンションを出ていったとき、俺はちょうど見てたんだよ。あのときは……まあ、俺もバカだったから、話しかけることもできなかったけどな。それで、今のセイは、あのときと同じ顔をしてるように見える」

 ひとりで抱え込むなよ。そう言って、コウキ君はわたしの頭をグシャグシャとかき回した。それから、すぐにさらさらともとにもどった強情な髪を軽く引っ張って、額をこつんと叩いた。

「コウキ君……」

 だめだ。コウキ君を巻き込んじゃいけない。

 こんな危険なことに、コウキ君を巻き込んじゃいけない。本当はママも、美代さんも、マスターも、巻き込むつもりはなかった。篠塚だって、こんなことに巻き込んじゃいけなかったのだ。だって、わたしのパパが殺人鬼さんかもしれない、ことのはじまりはそれだけだった。そうして、わたしはパパに会いたいという理由だけで、大貫さんに協力することを決めた。それはぜんぶ、わたしの問題だ。わたしだけの問題なのだ。だから本当は、だれも巻き込んじゃいけない。大貫さんとひとりで渡りあうのは、心の底から身の毛がよだつ。次はなにをされるんだろうと思うと身体が震える。だけど本当は、だれも巻き込んじゃいけないのだ。だってこれは、わたしのわがままから始まった問題なのだから。

 そう思うのに、目から勝手に涙がこぼれだしていた。しゃくりあげるわたしの手を優しくつかんで、コウキ君はわたしをエレベーターに乗せた。

「コウキ君、コウキ君」

 ふと、思ってしまった。わたしの大切な親友の篠塚のように、コウキ君ならわたしの話を真面目に聞いて、自分のことのように真剣に受け取って、理解してくれるんじゃないかって。コウキ君なら、わたしのヒーローなら、どうにかしてくれるのかもしれないって。

 こんなことに、こんな危険なことに、「日本国人口に関する管理調整委員会」だなんて政府の偉いひとたちが作った雲の上のような存在の、『巡回部隊』──いつしか「殺人鬼さん」だなんて呼ばれるようになった恐ろしい世界の話の中に、巻き込んじゃだめ。そう思うのに。

 わたしは子供のように、声をあげて泣いた。

「とりあえず、うちに来いよ」

 昔のようにわたしの手を優しく引っぱりながら、コウキ君がなだめるように言った。そしてそのまま、泣きじゃくったまま、わたしは大きくなってからは二回目に、コウキ君のうちにお邪魔することになってしまった。

 そうしてリビングに通され、優しくソファに座らされた頃には、わたしの涙はようやく止まろうとしていた。

「今日、は、おばさ、ん、いな、いの」

 しゃくりあげながら尋ねると、「パート」という簡潔な返事が返ってきた。コウキ君はキッチンから麦茶をふたつ運んできて、ソファに座るわたしの前に置いた。

「それで、セイ」

 ソファの正面、わたしの真正面、床にどっしりと腰をおろして、コウキ君が言った。

「お前、なにをやろうとしてるんだ?」

 わたしは、正直なところ、嬉しかった。コウキ君が気にかけてくれているのが嬉しかった。幼子のいたずらをとがめる兄のような、その態度が嬉しかった。けれど、首を横に振った。

「言えない」

「言えよ、セイ」

 わたしはもう一度、首を横に振る。巻き込んじゃいけない。誰も巻き込んじゃいけない。ぐさりと深く刺されて抉り出された篠塚の古傷を思い出す。笑いながらそれをやってのけたひとを思い出す。あんなひととコウキ君を、会わせちゃいけない。大貫さんは言っていた。二回目は、偶然から必然に近づく。そして三回あれば、それはもう必然だと。それじゃあきっと大貫さんは、三回目の機会を作り出そうとしてくるはずだ。でも、絶対なんてない。今度こそ殺人鬼さんに会ってしまうかもしれない。もしかしたら大貫さんの目的は、殺人鬼さんに会うことなのかもしれない。大貫さんが狙う三回目の機会。それはきっと、大貫さんにとってスクープにつながるものだ。そんな危険なことには、ぜったいに巻き込んではいけない。

「言えないんだよ、コウキ君」

「それでも、言えよ。──俺が、なんとかしてやるから」

 その言葉は、魔法の呪文だった。

 はるか昔、わたしがまだまだ幼かった頃。わたしの兄で、わたしのヒーローだったコウキ君が、自信満々にそう言ってくれたら、わたしの悩みはすべてきれいに片づいた。宣言した通りに、すべてコウキ君がなんとかしてくれていた。

 ふたたび涙がこぼれる。

 しかし、今度は涙と一緒に、口から言葉が溢れだしていた。だめ。言っちゃだめ。そう思いながらも、ほとばしる言葉の奔流は止めることができなかった。これまでにあったこと。最初の日のこと。紙沼さんのこと。焼却炉。そのあと。それから大貫さんに会ったこと。大貫さんと篠塚の、殺人鬼さんについての推論のこと。エンデバーでのやりとりのあれこれ。そしてネットのこと。大貫さんの評判のこと。大貫さんが評判通りだったこと。そして、それから、昨夜あったこと。

 すべてを言い終える頃には、ティッシュが一箱からになってしまっていた。わたしは最後の一枚でぎゅうぎゅうと涙を拭いて、鼻をかんだ。

「なんで……もっと早く、話してくれなかったんだ?」

 なんとなく怒ったような、困ったような、すねたような声で聞かれた。わたしはびっくりして、コウキ君を見る。コウキ君は真剣な顔をしていた。

「だって、巻き込めないよ。わたしがパパに会いたいって、それだけのことなのに。それなのに、こんなことには巻き込めないよ」

「それでも、俺は巻き込んでほしかった。それが危険なことであればあるほど、なおさら巻き込んでほしかったんだよ、セイ。お前の友達の、篠塚さんみたいに。篠塚さんだって、お前に巻き込まれて迷惑だなんて思ってはいないだろ?」

 そう言って、コウキ君は頭を掻いた。近隣の学校でキャアキャア騒がれているという端正な顔が、ちょっと赤くなる。

「俺はセイを、かわいいと思ってる。大切な──妹みたいに思ってる。だから、頼むから、俺を巻き込んでくれ」

 うん、とわたしはうなずいた。言葉はなにもでなかった。コウキ君が手を伸ばして、ふたたびわたしの手を握ってきた。篠塚とは違う、大きくて硬い、それは男のひとの手だった。でも、まぎれもなくコウキ君の手だった。だからわたしは、その感触に、体温に安心した。

 そうして、コウキ君は笑った。

「テストなんてやってられるか。先に、こっちの方を片づけてやろう」

「でも、いいの?」

「大丈夫だよ。俺は部活やら生徒会やらで加点が甘いから」

 悪ガキみたいに笑うコウキ君につられて、わたしも笑った。

2012.01.21:誤字脱字他修正

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